五十嵐 浚明(いからし しゅんめい、元禄13年(1700年) - 天明元年8月10日(1781年9月27日))は江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明。字は方篤、後に方徳。号は思明、孤峰、穆翁、竹軒。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。
元禄13年(1700年)越後国新潟に佐野義直の子として生まれた。幼くして両親を失い、五十嵐五郎兵衛に養育され、佐野家の存続を助けられた。後にその恩義に報いるため、自ら五十嵐姓を名乗った。4歳の時から絵を好み、家業の農業に従事しながら、僧可存に手解きを受けた。
享保15年(1730年)頃江戸に出て、根岸御行松家狩野良信栄信に師事したが、満足できず帰郷した。また、江戸では室鳩巣に学問を学び、後に自ら多くの生徒を教えたという。
次いで京都に出て、同郷竹内式部に経学を学び、宇野明霞等と親交し、同郷片山北海を明霞に入門させた。梁楷の「八仙人図」、李公麟の横軸、張平山の人物画、狩野雅楽亮の「朱梅図」等を手本に狩野派・土佐派・南宋画・北宋画・大和絵等諸派の技法を吸収した。
在京中法橋に叙され、延享元年(1744年)法眼に進み、同年帰郷した。帰郷の際、式部から「送五十嵐浚明君還越後」、明霞から「送法橋嵐君帰還越後」、池大雅から「渭城柳色図」(敦井美術館所蔵)、近衛家から呉絹、徳大寺家から紋綸子を贈られた。
帰郷後、自宅に楼閣を建て、画業専念を決意して篭ったものの、数十日後類焼し、再建されるまで蔵で生活した。村民の窮状を聞くと始めて門を出て、役人に蔵米を開放させたという。宝暦7年(1757年)4月信濃川・阿賀野川の決壊等により飢饉が発生すると、家財を売却して被災者に衣食を供与した。
宝暦9年(1759年)芝山重豊に呉姓を賜ったが、明和6年(1769年)五十嵐姓に復した。宝暦12年(1762年)7月京都で知り合った高砂豪商三浦迂斎の訪問を受け、『逆旅勧盃一大冊子』を贈呈した。
帰郷後もしばしば上方に上り、明和2年(1765年)大坂で明霞門下大典顕常に詩を贈られ、安永2年(1773年)には京都で北海同人服部永錫の『縮地玅詮帖』に「寿老人図」を寄せている。安永6年(1777年)上京して後桃園天皇に松鶴・寿老人等の絵三幅を献上し、歌所山科中納言を通じて油小路隆前・冷泉為泰・中院通古・藤谷為敦・甘露寺篤長による五色の和歌を賜り、長岡藩からも白銀五枚を賜った。
70代以降、三晩続けて夢に富士山を見たことに因み、孤峰と号した。
天明元年(1781年)3月白山神社、両親の墓に詣でて死期を告げ、親戚に別れの挨拶を述べた。7月食欲が減退するも、薬を飲まず、8月10日死去し、15日善導寺に葬られた。法名は孤峰院俊明義大居士。
孝行心が篤く、京都から帰郷した時、母が病気に罹ったため、毎晩左指の血で観世音菩薩普門品1部を写経し、7部目で快復したという。父母の死後は、毎朝その生前座っていた場所を拝み、決して踏むことがなかった。
3人の子供にも絵を学ばせ、「絵は小道ではあるが、世間の教化に役立つものである。筆を取ったら、必ず賢哲の偉業を描き、決して軽々しい題材を扱って人を貶しめてはならない。」と戒めた。
日頃菅原道真を信仰し、ある夜夢に道真に十字の金泥書を与えられ、画業の成業を悟ったという。
酒を好まず、ある人に「酒は愁いを払う箒だ。」と勧められると、「私は幸い太平の世に生まれ、六経の教えに浴し、漢詩・書道・絵画に興じ、楽しみは余りある。愁いを感じたことはないので、箒を用いる必要はない。」と答えたという。
死ぬ2日前、医師三浦東里が訪れ、「先生は名を遠近に広め、歳は80を越え、墓を託す子孫もいる。こんな人生なら心残りはないのではないか。」と尋ねられ、「その通りだ。私は国法に触れず、孝行を全うし、楽しむことを楽しみ、貧しさを忘れることができた。すべて両親のおかげである。」と答えたという。
漢詩は五言詩を得意とした。遊印「玩天地于掌握之中」は『淮南子』精神訓に拠る。
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