酒井 忠発(さかい ただあき)は、江戸時代後期の大名。出羽国庄内藩9代藩主。酒井佐衛門尉家15代当主。官位は従四位下・左衛門尉、侍従。
8代藩主・酒井忠器の長男。文化9年(1812年)9月13日生まれ。文政9年(1826年)12月に叙任する。天保4年(1833年)12月に従四位下へ叙任する。天保13年(1842年)4月14日、父の隠居により跡を継ぐ。嘉永2年(1849年)からは洋式砲術の訓練や海岸警備の強化に努め、嘉永6年(1853年)に品川台場の警備を務めた。安政6年(1859年)9月に蝦夷地の警備を務め、翌年には蝦夷地に出兵して殖民を奨励した。長男の忠恕が早世したため、文久元年(1861年)8月6日に弟の忠寛に家督を譲って隠居した。明治9年(1876年)2月12日に65歳で死去した。
天保10年(1839年)2月、現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣り上げられた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」が日本最古の魚拓とされ、忠発が釣り上げたものとされている。本間美術館学芸員・佐藤七郎の調査では、この魚拓に記された「天保十年亥二月晦日 於錦糸堀 御獲鮒之図」の「御獲」という記述と、当時江戸に居た酒井家の人物を調査した結果、忠発以外に該当する人物はいないとしている。
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