エンバシー・ヒル(Embassy Hill )は、1962年と1968年のワールドチャンピオンであるグラハム・ヒルが設立し、1973年から1975年までF1に参戦していたイギリスのレーシングチームである。なお最初の2年間はシャシーを購入して参戦していたため、「ヒル」のコンストラクター名でのエントリーは1975年のみであった。
1973年にグラハム・ヒルがエンバシー レーシング ウィズ グラハム ヒルの名称でチームを設立した。初年度はシャドウからシャシーを購入し、ヒルのみの1カー体制で第4戦スペイングランプリから参戦したが、かつての名手をもってしても後方グリッドからのスタートがほとんどで、入賞を記録することはなかった。
1974年にはシャシーをローラ製に変更、セカンドドライバーとしてガイ・エドワーズ(後半戦でロルフ・シュトメレンと交替。他にピーター・ゲシンが1戦のみ参戦)が加わった。相変わらず後方グリッドからのスタートがほとんどであったが、唯一第7戦スウェーデングランプリでヒルが6位入賞を記録した。
1975年も序盤3戦をローラ製シャシーで戦ったが、シュトメレンが第3戦南アフリカグランプリで記録した7位が最高で、ポイントは挙げられずに終わっている。また、アルファロメオ水平対向12気筒エンジンを搭載してテストが行われたが、レースには出走しなかった。
序盤3戦をローラ製シャシーで戦ったヒルは、第4戦スペイングランプリより自社製シャシーGH1を投入し、真のF1チームとして初参戦となった。
しかし、このデビューレースでシュトメレンのGH1が観客席に飛び込んで4人が死亡する惨事を引き起こしてしまい、当事者のシュトメレン自身も重傷を負っていしまう。更に、ヒル本人も得意のモナコグランプリでよもやの予選落ちを喫してしまう。
この大敗がショックとなったのか、ヒルはステアリングを握ることなくオーナー業に専念。苦戦基調は相変わらずだったが、新鋭のトニー・ブライズとアラン・ジョーンズが時折光る走りを見せ、ブライズがスウェーデングランプリで6位、ジョーンズがドイツグランプリで5位入賞を記録した。
1975年シーズン終了後の11月29日、翌年用のシャシーGH2のテストをフランスで行った帰路、霧深い中でヒル自身が操縦する軽飛行機がロンドン近郊のゴルフ場に墜落。ヒルとブライズを含むチーム関係者が命を落とすこととなり、チームは消滅した。
なお、怪我の療養のためにテスト参加を自重し九死に一生を得たシュトメレンであるが、1983年に参戦したIMSA GT選手権でスペイングランプリの事故を再現するかのような事故で、壮絶な最期を遂げている。
(凡例)(太字:ポールポジション 斜体:ファステストラップ)
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