港区(みなとく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。
かつては淀川河口の三角州、難波八十島(なにわのやそしま)と形容された無数の小島の一画に当たる。江戸時代になると、当区域には下記の10新田が開発された(人名は開発者)。
上記の他、1684年(貞享元年)に開削された安治川の南岸が1688年(元禄元年)に市街化されて成立した新川南(のち安治川南→安治川通南→南安治川通に改称)の西部も当区域に含まれている(現:波除6丁目の一部)。安治川南の所属は江戸時代には大坂天満組、1869年(明治2年)から大阪北大組となり、1879年(明治12年)の郡区町村編制法施行から北区となった。
1871年(明治4年)には天保山付近に西成郡天保町が成立。1889年(明治22年)の町村制施行においては天保町は単独施行、10新田は現在の大正区・西成区域に含まれている1町13新田と合併して西成郡川南村となったが、役場は天保町・川南村合同のものが市岡新田に置かれた。
1897年(明治30年)の大阪市第一次市域拡張によって、天保町と10新田は大阪市へ編入されて西区に所属。同年天保山周辺において大阪港第一次修築工事(海に面した新港湾の造成)も始まった。第一次修築工事は紆余曲折の末昭和初期に完工し、港の周辺や港へ延びる築港大道路(現:みなと通)および大阪市電築港線沿線は新興市街地・工業地帯として栄え、市岡パラダイスなどの遊園地や大阪市立運動場など多くのレジャー施設も誕生した。
1925年(大正14年)の大阪市第二次市域拡張によって、西区・北区のそれぞれ一部から港区が新設された。当初の区域は現在の大正区および西区境川・九条南・九条・安治川・川口の西半(もと北区富島町・古川町)も含んでいたが、1932年(昭和7年)に大正区を分離、1943年(昭和18年)に西区との区境を境川運河に変更し、現在の区域となった。「港区」は他に東京都と名古屋市にも存在するが、3つの「港区」では大阪市の港区が一番古い。
1925年の新設以来、港区は大阪市で人口最多の区だったが、1945年(昭和20年)3月と6月の大阪大空襲によってほぼ全域が焼き払われ、1940年(昭和15年)の国勢調査で268,936人(1943年以降の区域のみ。1940年当時の区域では322,231人)だった人口が1945年11月の人口調査で8,672人と激減した。1947年(昭和22年)に大阪港修築10ヶ年工事が始まり、安治川の河口南岸が拡幅され、その土砂で全体的に盛り土するところから復興が本格化。これにより、木屋・湊屋・石田・田中・八幡屋のそれぞれ一部および天保町の全域が失われた一方、1960年代には大阪環状線や地下鉄中央線が開通し、安治川内港(弁天埠頭)も完成した。
その後、大阪港は中枢機能を築港から南港(咲洲)などに移したが、大阪におけるウォーターフロント開発の先駆けとして天保山ハーバービレッジがオープンした1990年代以降はレジャー地区に変貌しつつある。
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