沖縄の米軍基地(おきなわのべいぐんきち)では沖縄県にある在日米軍基地について扱う。
沖縄県には、31の米軍専用施設があり、その総面積は1万8,609ヘクタールを占めている。米軍基地は沖縄県の総面積の約8%、また沖縄本島に限定すれば約15%の面積を占有している。国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.27%が集中している。
また、陸上だけではなく、27の水域と20の空域が訓練区域として米軍管理下に置かれ、漁業の制限や航空経路の制限がある。水域が約54,938km2で九州の約1.3倍、空域が約95,416km2で北海道の約1.1倍の広大なものとなっている。
1945年3月26日、沖縄戦で米軍が慶良間諸島に上陸して以降、米軍は前線で日本軍と激しく戦いながら、後方では日本の本土攻撃の拠点となるべく膨大な物量で着実に基地建設を進めていった。4人に1人の県民の命が奪われた沖縄戦では、生き残った県民は次々と民間人収容所に送られ隔離されていた。
国土面積約0.6%の沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.27%が集中している。
1945年4月1日に日本陸軍北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)を目指し上陸した米軍は、その日のうちに自壊されていたこれら二つの飛行場の修復にとりかかる。その後も戦闘を続けながら後方では次々と本土攻撃のための飛行場を建設し、1945年12月までには以下の11の飛行場と、ハンビー飛行場やビーズリー飛行場といった小飛行場を20あまり建設した。
米軍が建設したカブ飛行場 (小飛行場)
米軍は1945年の沖縄戦当時、沖縄に20ものカブ飛行場を建設した。
#6 瑞慶覧小飛行場
戦後に米軍が建設した小飛行場
在日米海兵隊には、遠征部隊である第3海兵遠征軍(3rd Marine Expeditionary Force, 3MEF)と、基地部隊である在日米海兵隊基地部隊(Marine Corps Bases Japan, MCBJ)があり、前者はうるま市のキャンプ・コートニー、後者はキャンプ・フォスターに司令部を持ち、組織図上では別個の組織となっているが、同じ司令官の下で統制されている。その海兵隊司令官を務める海兵隊中将は、沖縄に駐留する4軍すべての代表である在沖米四軍調整官(Okinawa Area Coordinator, OAC)も兼務している。 なお、キャンプ・バトラーは在沖海兵隊の統括組織を表す名称であり、具体的な場所を表しているのではない。
1972年の日本復帰前において、沖縄県における米軍基地は、全県土の14.8% (約353km) 、また沖縄島に関していえば、面積の1/4以上、27.2%が米軍基地であった。
1971年6月17日に沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に発効、それにより沖縄の施政権が米軍から日本に移った。沖縄返還協定が調印された1971年の同日、了解覚書が締結され、沖縄の米軍基地に関して、A表対象 (返還されず引き続き米国に提供される基地)88か所、B表対象 (米軍から自衛隊あるいは運輸省に移管される予定の基地) 12か所、C表対象 (自衛隊への移管を含め、復帰時までに全部又は一部が返還される基地) 34か所がリスト化された。
返還協定締結時において沖縄県の面積2,281km2のうち、米軍基地の総面積は約353km2、そのうちの294km2がそのまま米軍基地として残され、返還予定の面積は約50km2となっている。また、この返還予定面積のうち、C表で自衛隊に移管される1.489km2、またB表の1.877km2を合計した3.366km2の地所が、沖縄返還時に米軍から自衛隊にそのまま移行したことになる。
了解覚書A表は、沖縄の復帰の日から改めて日本政府が米軍に提供する、つまり返還されず引き続き軍用地として継続使用される米軍基地のリストである。
この元リストのうち7カ所 (安波訓練場、川田訓練場、瀬嵩訓練場、久志訓練場、屋嘉訓練場、浮原島訓練場、前島訓練場) は本来は一時使用訓練場であったものを基地として記載したものであり、そのうち地元が米軍に対して一時使用を拒否している二か所 (川田訓練場、瀬嵩訓練場) が、また地元や土地所有者との間に十分な話し合いがないまま記載された一カ所 (前島訓練場) が含まれている。そのため、この3施設について、1972年5月15日の沖縄返還の前までに「返還」し、A表から川田、瀬高、前島を除き、那覇海軍航空施設と伊波城観光ホテルの2施設を追加した87施設とした。しかしながら伊波城観光ホテルも軍用地ではなく、民間のリゾートホテルを海兵隊が独身幹部宿舎などのためにリース契約しただけのもので、これを恒久的基地として新規に日本が米軍に提供することに対し、地元で大きな反対運動がおこり、1979年に返還された。
上記のリストにない米軍基地。
1972年の沖縄返還に際し、米軍より返還され、そのまま自衛隊基地や運輸省施設に移管された基地。
沖縄の復帰の際に、その全部または一部が使用を解除し返還されるもの。そのうちで、全部または一部が自衛隊に移管されたものを太字で記す。
1959年、核・非核両用の高高度用迎撃ミサイルのナイキ・ハーキュリーズが米国内基地と同時期に沖縄に配備された。米国立公文書館の資料によると、沖縄のナイキ・プロジェクト (Nike Project) はボローや恩納など8カ所で展開されたことが記されている。
1962年、最初の核弾頭(マーク28)を搭載した巡航ミサイル「メースB」の配備が始まる。嘉手納基地を拠点とする第5空軍第498戦術ミサイル群 (498th Tactical Missile Group) の管理下で、以下の四カ所での配備が行われた。
1961年8月、低高度用迎撃用のホーク・ミサイルが配備された。沖縄本島と渡嘉敷島など。
同年11月には、オネスト・ジョンについでリトル・ジョンが配備された。
米国国防総省によると、沖縄には1955年12月から1960年6月まで配備されていた。以下の基地でのアトミック・キャノンの写真がアメリカ公文書館の記録写真にある。
1955年7月30日、東半球で最初のアトミック・キャノン6基が那覇港湾施設に荷下ろしされ、第663野戦砲兵大隊に送られたことが、米空軍第313航空師団歴史報告書に記されている。
1969年11月19日、共同声明に関する合意議事録のなかで、当時のニクソン大統領は、核兵器の沖縄への「再持ち込み」と、「沖縄を通過させる権利」を必要とする事、ならびに「米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう」求めているのに対し、佐藤総理は「遅滞なく必要を満たす」と答えている。
1945年、沖縄戦で4分の一の住民が命を奪われ、生き残った住民は米軍の民間人収容所に送られた。米軍は沖縄中部で基地建設を進めていたため、中南部の大半の住民は北部の収容所に送られた。収容者はピーク時で33万人を超え、飢餓やマラリヤなどで22か所の収容所で最低でも6,423人が死亡している。特に北部の収容所運営の状態は極めて劣悪なものであった。
1954年から1964年にかけ、在日米軍軍政下の沖縄で住民のボリビアへの移住が進められた。生活基盤を奪われた沖縄住民の約3,218名がこの期間にボリビアへ移住し、今日までに生存できた被強制移住者達は、その子孫を含めても806名に過ぎないことが判明している。
米兵による性犯罪は沖縄戦の当時から多くが泣き寝入りを強いられ、訴えても日米地位協定に守られた米兵が日本の法律で裁かれることはできなかった。記録で残されているところでは、暴行被害者の最年少は生後9か月の女児とされる。沖縄戦と戦後から農作業中やその帰路に米兵に襲われて暴行される事件が頻発し、1950年代には住居侵入による暴行犯罪が増加した。
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