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全国社会人ラグビーフットボール大会


全国社会人ラグビーフットボール大会


全国社会人ラグビーフットボール大会(ぜんこくしゃかいじんラグビーフットボールたいかい)は、1948年度(1949年2月)から2002年度(2003年1月)まで開催された日本の社会人ラグビーチームの王者を決定する大会。日本ラグビーフットボール協会と朝日新聞社が主催していた。ジャパンラグビートップリーグが2003年に創設されたことに伴い発展的解消した。

概要

第1回(1948年度)から第4回(1951年度)までは全国実業団ラグビーフットボール大会と称していた。第5回(1952年度)から全国社会人ラグビーフットボール大会に改められた。

第1回(1948年度)から第40回(1987年度)までは各地域における予選で出場チームを決定し、第41回(1988年度)以降は東日本社会人リーグ、関西社会人リーグ、西日本社会人リーグの各地域リーグの上位チームが出場権を獲得した。

参加チーム数は、第8回(1955年度)までは3~8チームであったが、第9回(1956年度)以降は16チームが参加した。基本的にはトーナメント方式で開催されていたが、第48回(1995年度)から第52回(1999年度)と第55回(2002年度)は、4チームずつ4組に分けた予選プール(リーグ戦)を行い、各組2位までの計8チームが決勝トーナメントに進出する方式を採用していた。第50回(1997年度)では、大会史上唯一となる3位決定戦が実施された。

歴代最多出場は近鉄の53回(全55大会中)、最多勝利はトヨタ自動車の94勝、最多優勝は八幡製鉄の12回。連続記録としては、近鉄の50大会連続出場、新日鉄釜石および神戸製鋼の大会7連覇、そして神戸製鋼の34連勝などが特筆される。

1960年度に日本ラグビーフットボール選手権大会(当初は日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会)が創設されてからは、全国社会人大会の上位チーム(1963年度を除き1996年度までは優勝チームのみ)が日本選手権の出場権を獲得した。

第55回(2002年度)が最後の大会となった。2003年度のジャパンラグビートップリーグ創設以降は、直接的な後継大会ではないものの、開催時期などからマイクロソフトカップが全国社会人大会の役割を継承した。

歴史

戦前における日本のラグビーの最高峰は学生ラグビーと見なされていたが、戦後、徴兵制の撤廃などにより卒業後もプレーを続けることが可能になり、社会人ラグビーの発展につながった。1948年には関東・関西・九州による三地域対抗試合が始まった。全国社会人ラグビーフットボール大会(当初の名称は全国実業団ラグビーフットボール大会)は、この3地区に「北海道・東北」を加えた4地区の代表によるトーナメント戦として創設された。

1949年2月(1948年度)、第1回大会が東京ラグビー場(現在の秩父宮ラグビー場)で開催された。北海道・東北地区代表の東北肥料が棄権したことにより、東芝(関東地区代表)、近鉄(関西地区代表)、配炭公団(九州地区代表)の3チームが出場した。大会は、配炭公団が圧倒的な強さで初代王者に輝いた。しかし同年9月に配炭公団が廃止されたことに伴いラグビー部も解散。主力選手は同じ福岡県内の九州電力(当時は九州配電)や三井化学などに移籍した。彼らの活躍もあり、以降、九州地区代表チームは8連覇を達成することになる。

第2回(1949年度)から出場チーム数が8チームに拡大された。「北海道・東北」が「北海道」と「東北」に、「関西」が「東海・北陸」と「大阪」と「近畿」と「中国・四国」にそれぞれ分割され、8地区から1チームずつ出場する形式となった。

第5回(1952年度)から大会名が全国社会人ラグビーフットボール大会に改められた。第6回(1953年度)は、近鉄が九州勢以外では初となる優勝を遂げた。

第9回(1956年度)から出場チーム数が16チームに拡大された。地区割りは、従来の「関東」が「東京」と「神奈川」と「関東」に、従来の「近畿」が「兵庫」と「近畿」に、従来の「中国・四国」が「中国」と「四国」にそれぞれ分割され、12地区となった。東京代表、大阪代表、九州代表には2チームの出場枠が与えられ、これらのチームに前年度優勝チームを加えた計16チームが出場する。以降、16チームという数は、最後の開催となった第55回(2002年度)まで不変であった。

第13回(1960年度)から神奈川枠が関東地区に、第21回(1968年度)から兵庫枠が近畿地区にそれぞれ統合され、10地区から16チームが出場する形式となった。

1960年度に日本ラグビーフットボール選手権大会(1962年度までは日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会)が創設されたことを受け、第13回(1960年度)からは、全国社会人大会の上位チーム(1963年度を除き1996年度までは優勝チームのみ)には日本選手権の出場権が与えられるようになった。

第18回(1965年度)では、八幡製鉄が後に大会記録となる12回目の優勝を達成した。第21回(1968年度)ではトヨタ自工が初優勝を遂げ、九州・関西勢以外では初の優勝となった。2年後の第23回(1970年度)では新日鉄釜石とリコーが優勝し、関東・東日本勢として初の優勝を遂げた。

第37回(1984年度)、新日鉄釜石が7連覇を達成。

第41回(1988年度)から予選方式が変更された。前年度までの10地区による予選制度を廃止し、東日本社会人リーグ(この年に新設)、関西社会人リーグ、西日本社会人リーグの各リーグ戦が全国社会人大会の予選を兼ねる方式となった。出場枠は、東日本から6チーム、関西から6チーム、西日本から3チーム、および前年度優勝チーム。また、従来はトーナメント戦で同点の場合は抽選により上位進出チームを決定していたが、この大会からトライ数により決定する方式に改定された。

第42回(1989年度)からは前年度優勝チームの推薦出場が撤廃された。

第45回(1992年度)から、国際ラグビー評議会(IRB)のルール改定に伴い、トライによる得点が従来の4点から5点に引き上げられた。

第47回(1994年度)、神戸製鋼が7連覇を達成。

第48回(1995年度)では、第1回(1948年度)から続いてきたトーナメント方式を廃止して、ラグビーワールドカップでも採用されている予選プール方式を導入した。出場16チームを4チームずつ4組に分けて総当たりの予選プール(リーグ戦)を行い、各組上位2チームの計8チームが決勝トーナメントに進出する。この方式は、第48回(1995年度)から第52回(1999年度)までの5大会と、第55回(2002年度)の計6大会で採用された。

第50回(1997年度)では、大会史上唯一となる3位決定戦が実施された。また、日本選手権の出場枠が、従来の1チームから3チーム(1998年度以降は4チーム)に拡大された。

第55回(2002年度)が最後の大会となった。この大会で、近鉄は、第6回(1953年度)から続く50年連続出場を達成した。

歴代出場チーム

全国社会人大会の歴代の出場チーム。丸数字は出場回数、太字は優勝チーム。

歴代優勝チーム

歴代の決勝戦の結果。太字は、NHK杯(1960年度-1962年度)/日本選手権(1963年度-2002年度)も優勝。

チーム別優勝回数

Collection James Bond 007

チーム別通算成績

全国社会人大会に出場した全チームの通算成績。

地区別通算成績

放送

  • 放送開始時期は不明だが、しばらくは、秩父宮ラグビー場での開催時はテレビ朝日が、近鉄花園ラグビー場での開催時は朝日放送が放映権を有し、それぞれの局アナが実況を担当した。
  • 1986年度の大会から、秩父宮での開催時はテレビ東京に放映権が移った。
  • 1994年度より、秩父宮と花園の両方で試合を行う方式に改められたが、この年より、テレビ東京と入れ替わる形でテレビ朝日が当大会の放送に復帰。以後、2002年度まで決勝戦の模様をテレビ朝日系列全国ネットで放送した。決勝戦の会場は毎年交互で、秩父宮ではテレビ朝日のアナウンサーが、花園では朝日放送のアナウンサーが実況を担当していた。
  • 1997年度より、日本ラグビーフットボール協会と放映権契約を結んだSKY sports(後のJ SKY SPORTS、現・J SPORTS)でも中継された。
  • ジャパンラグビートップリーグの上位チームによるトーナメント戦であるマイクロソフトカップ(現・LIXIL CUP)の放映権もテレビ朝日が保有していた。

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 東日本社会人リーグ
  • 関西社会人リーグ
  • 西日本社会人リーグ
  • 日本ラグビーフットボール選手権大会

外部リンク

  • 社会人ラグビー史 全国社会人大会の歩み
  • 社会人ラグビー史 トーナメント表
  • 社会人ラグビー史 決勝記録一覧
  • 社会人ラグビー史 出場チーム一覧

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 全国社会人ラグビーフットボール大会 by Wikipedia (Historical)