ソビエト連邦


ソビエト連邦


ソビエト社会主義共和国連邦
Союз Советских Социалистических Республик
国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(万国の労働者よ、団結せよ!)
国歌: 《Интернационал》(インターナショナル)
(1922–1944)

《Государственный гимн СССР》(ソビエト連邦国歌)
(1944–1955)

《Государственный гимн СССР》(ソビエト連邦国歌)
(修正版)
(1977–1991)

1945年以後のソビエト連邦領(実効支配地域含む)

ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語: Союз Советских Социалистических Республик  発音、頭字語:СССР、ラテン文字転写:Soyúz Sovétskikh Sotsialistícheskikh Respúblik、英語: Union of Soviet Socialist Republics、英語略称:Soviet Union、英語頭字語:USSR)は、1922年12月30日から1991年12月26日までユーラシア大陸の北部に存在した社会主義国。複数の構成共和国により形成される連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制で統治されていた(呼称については後節を参照)。首都はモスクワ。2240万2200平方キロメートルの広大な国土は南アメリカと東南アジアの全ての国を合計した面積に匹敵しており、第二次世界大戦終結後から冷戦終結(1989年)までは、アメリカ合衆国と共に超大国であった。

概要

ロシア革命から建国

ソビエト連邦は1917年のロシア革命を起源とする。ロシア社会民主労働党の分裂により生まれたボリシェヴィキは、二月革命によって成立した臨時政府を転覆させ、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(1936年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称)を設立した。この十月革命を皮切りに、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間にロシア内戦が始まった。赤軍は複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、労働者および小作農のソビエト(評議会)を通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援した。

1922年に共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカース、ウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)などの各共和国を統合してソビエト連邦が形成された。

1924年にウラジーミル・レーニンが死去し、トロイカの集団指導や短期間の権力闘争が起こった。

スターリン時代

その後、1920年代中頃にヨシフ・スターリンが政権を握った。スターリンは、自らが創造したマルクス・レーニン主義を国家イデオロギーとし、計画経済を推し進めた。結果として同国は急速な工業化および集団農場化を果たした。

大粛清といわれるほどの自国民への大量虐殺(ジェノサイド)を実行した。

1929年、貯蓄事務局という国民的金融機関が大蔵省の管轄となった。国民の預金額と五カ年計画は相互に補完する関係となった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦勃発前、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに対してイギリスとフランスがソビエト連邦との同盟を拒否すると、ソ連はドイツとの独ソ不可侵条約に署名した。同条約は両国間に束の間の蜜月をもたらし、多くの人々を驚愕させたが、1941年にドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦が始まった。レニングラード攻防戦やスターリングラード攻防戦などの防衛戦では莫大な犠牲を払い、ソ連の戦争死傷者数は同大戦において最大の割合を占めた。最終的にソビエト連邦軍は東ヨーロッパのドイツ国防軍を破ってベルリンに突入した。

ソ連はドイツ軍が中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパで得た領土を占領し、同領土は後にソ連の衛星国になってヨーロッパに鉄のカーテンを築いた。1945年8月には日ソ中立条約を一方的に破棄し日本に対して攻撃を開始し、日本軍に制圧されていた中国東北部と内モンゴル、北方領土や朝鮮半島北部を占領し、アジアに竹のカーテンを築いた。第二次世界大戦ではともに戦ったものの、アメリカ合衆国やイギリスなどの西側諸国とのイデオロギーおよび戦後処理をめぐる政治的意見の相違により、それぞれが自らを中心とする経済・軍事同盟(ソ連を中心とする経済相互援助会議およびワルシャワ条約機構と、アメリカを中心とする欧州復興計画および北大西洋条約機構)を構築するに至り、ついには核戦争と隣り合わせの冷戦へと発展した。

フルシチョフ・ブレジネフ時代

1953年3月5日のヨシフ・スターリンの死後、東側諸国のユーロダラーがイギリス・フランスのような西側諸国で運用されるようになった。

ニキータ・フルシチョフ政権下のソ連は、20世紀の重要な技術的偉業を成し続け、史上初の人工衛星打ち上げと史上初の有人宇宙飛行を行い、宇宙開発競争をもたらした。1962年のキューバ危機は米ソ両超大国間の緊張が極度に高まった期間であり、核戦争寸前だと考えられた。1970年代はデタントの時代となったが、1979年にソ連がアフガニスタンで興った新たな社会主義政権の要請により軍事支援を始めたことで再び緊張が生じた。アフガニスタン紛争は軍備拡張競争とともに経済資源を消耗させ、有意義な政治的成果も成し遂げられないまま長引いた。

ゴルバチョフ時代・ソビエト連邦崩壊

1980年後半、ソ連最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフは連邦の改革および北欧型の社会民主主義の方向に向かうことを求め、経済停滞期の終焉と政府の民主化を目標としてグラスノスチおよびペレストロイカの政策を導入した。この当時、ノルウェー(北海油田)とスウェーデンの経済は外国の機関投資家によって大きく変革されつつあった。これに追随しようとするソ連では、外資に強固な姿勢をとるナショナリズムが生じる一方で、外資の投下を受けやすい西部がソ連から分離独立しようと動き出した。

1988年初頭にソ連は7800万ドル相当のスイス・フランを担保にユーロ債市場へ参入、5月にアフガニスタンから撤退した。1989年11月には宗教事業協会のあるバチカン市国と和解し、翌月マルタ会談が行われ、冷戦の終結が宣言された。

1990年3月11日にはリトアニアが独立回復を宣言するなど、連邦構成共和国の統制が取れなくなりつつなる中、ゴルバチョフは翌12日から招集された人民代議員大会で大統領制に移行する憲法改正案を採択させ、3月15日には初代ソビエト連邦大統領に就任した。

1991年に入ると、ゴルバチョフは連邦構成共和国の不満を和らげるためロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のボリス・エリツィンおよびカザフ・ソビエト社会主義共和国のヌルスルタン・ナザルバエフと会談して新連邦条約の調印を約するなど大きく改革に舵を切ったが、これに反発する保守派が同年8月にクーデターを起こした。このクーデターは失敗に終わったが、首謀者にゴルバチョフの側近も含まれていたことから、ゴルバチョフ自身のみならずソ連共産党、さらには連邦政府の威信と信頼を大いに損なう結果となった。

これを受けて連邦構成共和国は8月20日にエストニア、8月21日にはラトビアなど、相次いで独立回復を宣言した。国際社会がリトアニア・エストニア・ラトビアの独立を直ちに承認する動きを見せたことからゴルバチョフは8月24日にこれを追認、連邦の瓦解はもはや不可避となった。12月8日にはロシア・ウクライナ・ベラルーシが互いの独立を承認し、独立国家共同体(CIS)を創設するベロヴェーシ合意に調印、12月21日にはグルジア(ジョージア)を除く残りの11共和国がアルマアタ宣言に署名してCISに加盟したため、これをもって連邦制は実質的に崩壊した。ゴルバチョフは12月25日にソ連大統領を辞任し、ソビエト連邦の消滅を公式に宣言した。

ソ連国歌

ロシア国歌

ロシア国歌はソ連国歌のメロディーを受け継いだものである。


名称

ロシア語表記の正式名称は「Союз Советских Социалистических Республик」。

通称は Сове́тский Сою́зで、国歌の歌詞にも使用されている。略称はСССР、またはラテン文字でSSSRとなるが、これは正式名称を音訳すると "Soyuz Sovietskikh Sotsialisticheskikh Respublik" となるためである。

日本語表記ではソビエト社会主義共和国連邦が用いられる。通称はソビエト連邦(「ソビエト」は「蘇維埃」「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト」「ソヴエト」「ソヴェート」「ソベート」「ソブイエト」「ソウエト」「ソウェート」「ソウエート」「ソウエット」「ソウエツト」「サウエト」「サウェート」「サウエート」「サウエット」「サウィエート」、より原語に近づけて「サヴィェート」とも)。略称はソ連邦ソ連、または単にソビエトソヴィエトともする。漢字では蘇聯邦蘇聯などと表記され、と略される。

「ソビエト」(露: Совет)は「評議会」の意味を持つ。

第二次世界大戦前は、ロシア帝国時代の神聖同盟のように「同盟」と訳した「ソ同盟(蘇同盟)」も使用されたが、ソ連自体が「Союз とは Федерация(連邦)である」と説明し、在日ソ連大使館も戦前から一貫して「連邦」の訳語を使用したことから、「連邦」が優勢となっている。

構成共和国のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の国名にも「連邦」の文字が含まれるが、こちらは Союз ではなく Федерация の訳である。旧ソ連圏の統合を目指しているユーラシア連合やユーラシア経済連合の Союз は「連合」と訳されている。日本語読みでは Союз はソユーズで知られる。ソ連を構成したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と、その後継国家ロシア連邦は「Федерация(連邦)」である。

ソビエト連邦は、国名に固有名詞(地名)を含まない世界でも希有な例であるが、連邦を構成する各共和国の国名には「ロシア・ソビエト連邦共和国」など地名が含まれている。

一部の西側諸国ではソビエト連邦全体を指して「ロシア (Russia)」と呼び続ける例も多かった。日本では労農ロシア赤露 などとも呼ばれたが、「ソ連」「ソビエト」「ソビエト連邦」が一般化した。

歴史

ロシア革命

ペトログラードのデモに端を発する1917年3月12日(ユリウス暦2月)の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾のめどはついていなかった。

同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗したあと、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、同年11月7日(ユリウス暦10月25日)に権力を奪取した(十月革命)。この11月7日が、ロシア革命記念日である。同日には最初のソビエト大会が開催され、ソビエトによる体制の成立と、政府である人民委員会議が成立した。首相にあたる議長にはウラジーミル・レーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任している。ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込んだ。1918年1月10日からは第三回全国ソビエト会議が開催され、ロシアが労働者・兵士・農民のソビエトの共和国であると宣言され、連邦制をとるとした宣言が採択された(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)。

ボリシェヴィキは1919年に「共産党」と改称した。ドイツ帝国とはブレスト=リトフスク条約によって講和したものの、連合国によるシベリア出兵の干渉戦争や、白軍とのロシア内戦に対処することになった。一方でウクライナ人民共和国やアゼルバイジャンのバクー・コミューンなどのソビエト政権が各地で次々に成立した。この各政権は独立国であったが、ロシア・ソビエト政府の一部であると自らを定義することもあった。

経済政策では、内戦中に戦時共産主義を導入したが、これは農業と工業の崩壊を招き、数百万人の餓死者を出した。1921年よりネップ(新経済政策)が導入され、経済はようやく持ち直した。

ソビエト連邦の成立

ロシア内戦が収束に向かうと、各地のソビエト政権の間では統合への動きが強まった。ロシア共産党の手によって各地の革命政権との統合が進行し、1920年にはロシア連邦共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の間で、緊密な軍事的・政治的な同盟条約が締結され、ウクライナ、白ロシア、グルジア、アルメニアとも同様の条約が結ばれた。これらの国々は憲法を持つ主権国家ではあったが、最高機関は全ロシア・ソビエト大会と全ロシア中央執行委員会であり、ロシア連邦共和国の主導権は明確であった。

1922年5月にはレーニンが脳出血で倒れ、一命は取り留めたものの影響力は急速に低下した。4月にはスターリンがロシア共産党の書記長に就任、党組織を掌握し始めた。8月にはソビエト政権の統合のための委員会が設置され、スターリンが主導者の一人となった。スターリンは9月に各政権が自治共和国として、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦に加入するという統合形式を発表した。この意見はグルジア以外のソビエト共和国の賛成を得て採択されたものの、各共和国にとっては不満の残るものであり、レーニンの指導によって10月の中央委員会では、各共和国が対等な共和国として連邦に加入するという形式が定められた。しかし、この修正ではザカフカースの3共和国がいったん連邦となってから加入することが定められたため、グルジアでの猛反発を招いた(グルジア問題)。反対派は次第に追い詰められ、これによってザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が成立している。

12月には第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の4国が平等な立場で加盟するとしたソビエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言する連邦結成条約が調印された。この連邦には各国が自由な意志で参加・脱退できると定められており、新たな最高機関の設立も決定された。1924年1月31日には最初のソビエト連邦憲法が成立している。

1924年にレーニンが死亡したが、生前にはスターリンとトロツキーの対立を憂い、スターリンを警戒するようになっていた。スターリンはまずトロツキーを孤立させ、次いでレーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフやレフ・カーメネフ、カール・ラデックらを攻撃した。1927年にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを党から除名したことで、明らかな優越者としての地位を確保した。

外交面では連合国の直接干渉自体はなくなったものの、ソビエト政権が旧ロシア帝国の債務支払いを拒否したため、関係改善は進まなかった。一方で国際的に孤立していたヴァイマル共和政下のドイツはソ連と接近し、賠償の相互放棄を定めたラパッロ条約の締結となった。ドイツ軍はソビエト領内で軍事開発を秘密裏に行い、ソ連はそれによって情報を取得するという関係も築かれた。この後、中東諸国や中華民国との国交が成立したものの、1925年にはロカルノ条約の成立によってドイツが西欧諸国側になったと受け止められた。これに対してソ連は東欧諸国やフランスと不可侵条約を締結することで対抗しようとした。一方でコミンテルンは各国の共産主義運動を支援する世界革命を目指していたが、一国社会主義を唱えるスターリンの勝利によって、その運動はソ連を守るためのものとなった。

五カ年計画と農業集団化

ネップで農業生産は拡大したが、商品価値の高い生産に集中するようになり、穀物の供給が滞るようになった。スターリンはネップを終わらせ、計画経済への転換によるソ連の工業化をはかった。1928年から第一次五カ年計画が始まり、鉄鋼生産の増強、農業の集団化、電化や機械化に重点を置いた工業化が達成された。1928年と1937年を比較すると、石炭は3倍強、粗鋼は4倍強の生産高に達しており、工業全体では第一次で2倍、第二次五カ年計画で2.2倍に達したといわれる。同時期に欧米諸国が世界恐慌によって多数の失業者を出し、経済を縮小させたのと比較して、ソ連の経済成長率は世界最高を記録した。しかし一方でコルホーズに代表される強引な農業集団化は農民層の強烈な抵抗に遭い、最終的にはソ連の農民層は大部分が工業労働者となったり集団農場に組織されたりしたものの、弾圧や飢餓で多くの犠牲者がでた。カザフスタンでは30%の農民が中国に逃亡した。特に1932年から1933年の大飢饉の影響は悲惨であり、ウクライナで400万人から800万人(ホロドモール)、ソ連全体で600万人から700万人ともいわれる餓死者を出したとされる。さらに工業賃金も上昇せず、労働者の実質賃金は12%近く減少している。ソビエト政府はこれに富農狩りなどの強圧政策で臨んだ。白海・バルト海運河計画などの大規模インフラの建設には、集団化に抵抗した農民や弾圧された共産党員たちの、いわゆる囚人労働者が動員されていた。レーニンから「党の寵児」と呼ばれ、穏健な計画を唱えたニコライ・ブハーリンはこの時期に失脚している。

戦間期の外交

外交面では、コミンテルンは当初社会ファシズム論を唱え、社会民主主義勢力への批判を強めていたが、ファシズムやナチズムについてはむしろ容認していた。しかし、ヒトラー内閣成立後、1933年11月にアメリカと国交を樹立。1934年9月には国際連盟に加盟し、常任理事国となった。折りしもドイツではナチ党政権が成立し(ナチス・ドイツ)、1935年には再軍備を宣言した。ソ連はこれに対抗するために、フランスと手を結ぶ東方ロカルノ政策で対抗しようとし、1935年に仏ソ相互援助条約が締結された。コミンテルン第7回大会においても反ファシズム統一戦線の方針が確認され、人民戦線戦術がとられるようになった。赤軍は1934年には60万人から94万人、1935年には130万人に拡大され、1937年にソビエト連邦海軍の設置が行われるなど急速な拡大が続けられた。

しかしながら、イギリス・アメリカ・フランスなど資本主義陣営の中で、ファシズムより共産主義に対する懸念は依然として強く、むしろファシズムを共産主義に対する防波堤として利用しようとする向きもあった。特にそのソ連敵視が如実に表れたのが1936年の第二次エチオピア戦争であり、ファシズムのイタリアによるエチオピア侵攻という事態に対して、ソ連はイタリアに対する非難を行うも、イギリス・フランスはイタリアとの戦争を懸念して何ら制裁を課すことはしなかった。英仏の態度に失望したスターリンは、さらにミュンヘン会談における両国のナチスに対する譲歩がソ連への侵攻を容認しているのではないかという疑惑を深めていく

大粛清

急進する集団化と工業化については、党内のセルゲイ・キーロフやグリゴリー・オルジョニキーゼらといった勢力が穏健化を求めるようになった。その最中に起こった1934年のキーロフ暗殺事件以降、スターリンにより党内の粛清が激化し、ブハーリン、ゲオルギー・ピャタコフ、レーニンの後継人民会議議長であったアレクセイ・ルイコフ、ジノヴィエフ、カーメネフらといった有力党員、ミハイル・トゥハチェフスキーらといった軍人が次々と処刑された。その他多くの党員や軍人、一般国民が死刑もしくは流罪などにより粛清された。この粛清はスターリンの配下である粛清の実行者ですらその対象となり、ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフらもその犠牲となっている。

流罪の受け入れ先として大規模な強制収容所(シベリアのコルィマ鉱山など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる。この粛清によりスターリンの体制はより強固なものとなった。1938年以降、スターリンが1953年に死去するまで党大会は1回、中央委員会は数回しか開かれず、重要決定は全てスターリンによって行われた。

第二次世界大戦

1938年のアンシュルス後、ソ連は「明日ではもう遅すぎるかも知れない」と、英仏に対してファシスト勢力への具体的な集団的行動による対応を求めた。しかしミュンヘン会談によるドイツへの宥和政策は、英仏がドイツの矛先をソ連に向けようとしているというソ連側の疑念を強めさせた。

ソ連は軍事の拡大を急ぎ、世界最初の機甲部隊の整備を行うなどしていたが、大粛清で赤軍の幹部を失ったことでそのスピードは明らかに低下していた。このため当時のソ連首脳はこの時期のソ連は経済建設期にあり、深刻な戦争には耐えられないと考えており、大戦争の先延ばしを基本政策としていた。1939年、外相がヴャチェスラフ・モロトフに交代した。ポーランド危機が切迫する中、英仏と同時進行してドイツとも提携交渉を行い、8月23日には独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはポーランドとバルト3国の分割が付属秘密議定書において取り決められていた。

9月ドイツ軍のポーランド侵攻の際にはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。ソ連側はカーゾン線に沿った範囲であり、ウクライナ人・ベラルーシ人が多数居住する地方であると主張している。

バルト三国に圧力をかけ、赤軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに侵攻、傀儡政権を成立させて併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。しかしフィンランドの抵抗で思わぬ損害を招き、国際連盟からも追放された。

ドイツとの関係は一定の協調関係となっていたが、細部ではきしみが生じていた。ソ連側はドイツ側を刺激しないよう対応し、ドイツ側の侵攻を警戒する情報は放擲された。1941年6月にドイツはバルバロッサ作戦を発動し、独ソ戦が勃発した。これをまったく予期していなかったスターリンはきわめて動転した。ドイツ軍の猛攻で開戦後まもなく首都モスクワに数十キロに迫られ、レニングラード攻防戦やクルスクの戦いなどにより軍民あわせて数百万人の死傷者を出した。

スターリンは戦争を「大祖国戦争」と位置づけて国民の愛国心に訴え、ドイツの占領地で民衆を中心としたパルチザンを組織し敵の補給線を攪乱した。味方が撤退する際には焦土作戦と呼ばれる住民を強制疎開させたうえで家屋、畑などを破壊して焼却する作戦を行い、ドイツ軍の手には何も渡らないようにさせた。連合国側であり西部戦線でドイツ軍と戦うアメリカやイギリスによる膨大な軍事支援(レンドリース法)、また極東における日本による参戦がなかったこともあり、対ドイツ戦に専念できたソ連軍は気候や補給難に苦しむドイツ軍を押し返していった。1942年のスターリングラードの戦いに勝利すると、これを契機にしてソ連は次第に戦局を有利に進めるようになる。1943年にはコミンテルンを解散した。

やがてドイツ軍の後退とともにソ連軍は東欧各国を「解放」した。東欧各国の民衆は、ドイツ軍の占領に対して抵抗の最前線に立った共産主義者たちを支持した。東欧各国の共産党は、赤軍の圧力と民衆の支持を背景に、ソ連型社会主義をモデルにした社会主義政権を各地で樹立した。1945年5月、ソ連軍はドイツの首都であるベルリンを陥落させ、ドイツ軍を降伏に追い込んだ。

1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告した。これは連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づくものであったが、完全な裏切り、不意打ちであった。ソ連軍は日本の千島列島や南樺太、朝鮮半島北部、そして日本の同盟国の満州国に対し侵攻した。この際のソ連軍の行動は、中立条約の破棄や日本の民間人に対する暴虐、そして戦後の捕虜のシベリア抑留など、戦後の日ソ関係に大きなしこりを生む原因となった。

第二次世界大戦の期間中に2700万以上のソ連国民が死亡するなど大きな犠牲を出した。一方でその勝利に大きく貢献したことで国家の威信を高め、世界における超大国の地位を確立した。大戦期間中にはヤルタ会談などの戦後秩序構築にあたっての会議にも深く関与している。国際連合創設にも大きく関与し、安全保障理事会の常任理事国となっている。さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させ、これらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。

極東では日本の領土であった南樺太および千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国にあたる中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた(中華人民共和国建国後に返還)。

冷戦の開始とフルシチョフ時代

戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。スターリン政権下ではベルリン封鎖などの行動や朝鮮戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。

1953年、スターリンが死去し、ゲオルギー・マレンコフとニキータ・フルシチョフによる共同指導体制が始まった。スターリン体制下で恐怖政治の主導者となったラヴレンチー・ベリヤは処刑され、スターリン路線の行き過ぎた独裁政策が大幅に緩められた。1955年にはマレンコフが失脚し、フルシチョフによる指導体制が確立した。1956年にはスターリン批判を行い、大粛清への告発と、スターリン体制からの決別が表明された。これは東欧諸国にも強い衝撃を与え、各国では政治改革の動きや反体制運動(ポズナン暴動など)が発生したが、ハンガリー動乱には武力介入してこれを鎮圧した。反対派を殺害・処刑・投獄し、各国政権に圧力をかけ収拾させた。一方で、スターリン批判は中華人民共和国の反発を招き、中ソ対立が進行することになった。朝鮮民主主義人民共和国ではソ連型の社会主義体制を目指すソ連派が金日成排除のクーデターを画策するが、失敗し、勢力が一掃された。

フルシチョフ時代にも軍拡は推し進められており、核兵器とミサイル兵器の配備が進んでいた。1962年のキューバ危機は核戦争の危機を世界に知らしめることになり、その後はアメリカとの関係は改善が進んだ(雪解け)。しかしベトナム戦争やアフリカ・南アメリカでの、代理戦争と呼ばれる紛争は継続していた。

フルシチョフは食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結果、ソ連は食料を国外から輸入しなければならない事態に追い込まれた。

停滞の時代

1964年に、フルシチョフは農業政策の失敗と西側諸国に対して寛容な政策をとったことを理由に失脚させられた。代わってレオニード・ブレジネフが指導者となった。しかし中華人民共和国とは、中ソ対立が激化したことによって、両国の関係はほぼ断絶状態に近くなり、1970年代には米中国交正常化による中華人民共和国の西側への接近を許すことになった。ソ連は東欧諸国を勢力圏下に置き続けるため、1968年には「制限主権論(いわゆるブレジネフ・ドクトリン)」の名の下にチェコスロバキア社会主義共和国の民主的改革(プラハの春)に対して介入し、ソ連は強い国際社会の批判を浴びるようになった。この状況でソ連は西側諸国との協調を図るようになり(デタント)、戦略兵器制限交渉などが行われた。

プラハの春を武力で弾圧した事実は、同じ共産主義陣営の中にも動揺を生んだ。中華人民共和国は、ソ連を「社会帝国主義」と批判しルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスクやアルバニア社会主義人民共和国のエンヴェル・ホッジャも同様にソ連を批判した。西側諸国の共産党においてもイタリア共産党やスペイン共産党がソ連型社会主義と決別するユーロコミュニズムを採択するなど、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。

1963年2月、仏ソ通商条約。1965年、仏ソ原子力平和利用協定。そしてベトナム戦争でホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援した(旧フランス領インドシナ)。1969年にはかねて対立していた中華人民共和国と珍宝島/ダマンスキー島をめぐって中ソ国境紛争を戦った。1970年1月にイタリアと、2月には西ドイツと貿易協定。1971年3月、仏ソウラン協定。10月、仏ソ共同宣言・仏ソ新経済協力協定。1972年、ソ連は凶作のため穀物メジャーを頼った。1974年5月、英ソ経済協力協定。12月、仏ソ首脳会談で経済協力5カ年協定。1975年1月、米ソ通商協定破棄を通告。10月、米ソ穀物協定。1976年3月、日米ソ3か国がヤクート天然ガス探査協定。11月、米ソ漁業協定。1977年3月、排他的経済水域を実施。

1979年12月、ソ連はアフガニスタンの共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしていると見て、アフガニスタンへの侵攻を行った。これはパキスタン、サウジアラビア、イランなどといった一部のイスラム諸国および西側諸国、中華人民共和国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招き、デタントの流れは終焉した。アフガニスタンでの戦闘は泥沼化して1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、多大な人命と戦費の損失を招いた。さらにソ連を「悪の帝国」と名指しで批判するロナルド・レーガン大統領政権下のアメリカとの軍拡競争がさらに激化するようになった。1983年9月には大韓航空機撃墜事件が発生したことで西側諸国との緊張はさらに増した。

ブレジネフ政権は18年にわたった長期政権だった。停滞しつつも安定し、ソ連の歴史上、初めて飢餓も騒擾事件も粛清もなくなった。その代わり、改革はまるで行われず官僚主義による党官僚の特権階級化(ノーメンクラトゥーラ)、ブレジネフ一族の縁故主義など体制の腐敗が進んだ。経済面でも、1960年代ごろまで10%を誇った成長率は次第に鈍化していった。そのツケは国民生活に回り、食料や燃料、生活必需品の配給や販売が滞るようになった。改革開放を始めた中華人民共和国を除き、東側諸国全体の経済も1970年代後半から停滞していく。1980年代に入り西側諸国の豊かな生活の情報がソ連国内で入手できるようになると、国民は体制への不満と自由な西側への憧れを強めていくことになる。小麦の生産量は世界一だった農業も慢性的な不振となり、小麦をアメリカから輸入することが恒常化した。しかしデタントの終焉後は穀物輸入も逼迫し、さらに経済の悪化を招いた。技術競争でもアメリカや日本に大きな遅れをとるようになり、ソ連崩壊の直前はGNPも日本に抜かれて3位となる。

ペレストロイカ

1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフ、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコと老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし、ともに就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せず、ブレジネフ体制以来の長老支配を内外に印象づけることになった。

その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開すべく、1985年3月に誕生したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)を推し進めた。ゴルバチョフの選出は一晩かけての会議で決定された。

これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進められた。1988年にはそれまでのソ連最高会議に代わり人民代議員大会創設が決定され、翌年3月26日にはソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。ゴルバチョフは人民代議員を国民の直接選挙で選ばせることによって、改革の支障となっていた保守官僚(アパラチキ)を一掃しようと試みた。1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故によってソ連の深刻な官僚主義体質が露呈すると、ゴルバチョフはグラスノスチを本格化させ、情報統制の緩和を進めた。これを受けて、ソ連国民の間では歴史の見直しや、活発な政治討論などが行われるようになった。

グラスノスチの進展にともない国民の間では民主化要求が拡大、それを受けてソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、そして複数政党制と大統領制の導入が決定された。同年3月15日、人民代議員による間接選挙によって、ゴルバチョフが初代ソ連大統領に選出された。同時期に当局の検閲を廃止した新聞法が制定された。

しかし、これらの一連の政治経済改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードをめぐってソ連共産党内の内部抗争を激化させた。特に保守派は、改革の進展により自らの既得権益が失われることに強く反発した。そして、共産党はエリツィンら急進改革派とゴルバチョフら穏健改革派、そして保守派のグループに分裂した。党内の分裂もあって国内の経済改革は遅々としたものとなり、経済危機を一層深刻化させた。こうした状況の中でエリツィンは保守派が幅を利かせる共産党に見切りをつけ、1990年7月のソ連共産党第28回大会を機に離党し、ポポフ、サプチャーク、アファナーシェフ、サハロフらとともに非共産党系の政治組織である地域間代議員グループを結成、共産党に対抗した。一方、穏健改革派のゴルバチョフは保守派と急進改革派の板挟みになり、抜本的な改革を推進できなかった。

従来の中央集権型の指令経済を破棄し、市場メカニズムを導入することが図られたが、保守派の抵抗などで経済改革は遅れ、国内ではインフレと物不足が深刻化した。市民の間では、事態を打開できないゴルバチョフらソ連共産党に対する批判が高まった。こうした国民の不満を吸収したのがエリツィンら急進改革派である。1991年6月12日にはロシア共和国大統領選挙が実施されてエリツィン・ロシア共和国最高会議議長が当選し、7月10日に就任した。ロシア共和国大統領選挙と同日にモスクワ市長選挙、レニングラード市長選挙がそれぞれ実施され、ポポフがモスクワ市長に、サプチャークがレニングラード市長に当選した。こうした急進改革派の躍進は保守派を焦らせ、のちの8月クーデターへと駆り立てる要因の一つとなった。

民族問題の再燃と連邦制の動揺

ペレストロイカは東西の緊張緩和や東欧民主化、そしてソ連国内の政治改革において大きな成果を上げたものの、改革が進むにつれて共産党権力の弱体化と、連邦政府の各共和国に対する統制力の低下という事態を招いた。こうした中で、国内では封印されていた民族問題の先鋭化と各共和国の主権拡大を要求する動きが生まれた。

1986年12月にはペレストロイカ開始後初めての民族暴動であるアルマアタ事件がカザフ共和国で発生した。1988年からはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をめぐってアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間に大規模な紛争が発生、グルジアやモルダビア共和国でも民族間の衝突が起きた。

1990年3月11日には反ソ連の急先鋒と見られていたバルト3国のリトアニア共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し、宣言を撤回させたものの、同年3月30日にはエストニア共和国が、5月4日にはラトビア共和国が独立を宣言した。1990年5月29日にはロシア連邦共和国最高会議議長に急進改革派のエリツィンが当選、同年6月12日にはロシア連邦共和国が、7月16日にはウクライナ共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという国家主権宣言を行い、各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きは、ゴルバチョフ自身が推進したペレストロイカとグラスノスチによって引き起こされたと言える半面、連邦最高会議で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国の最高会議に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派のエリツィンが就任したことは大きな意味を持っていた。

従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる新連邦条約を締結するため各共和国との調整を進めた。1991年3月17日には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。この国民投票の結果を受け4月23日、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9共和国の元首が集まり、その後、各共和国との間に新連邦条約を締結し、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでの「ソビエト社会主義共和国連邦」から社会主義の文字を廃止し、「ソビエト主権共和国連邦」に変更することも決定された。

冷戦終結

1987年12月にはアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約が締結され、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始した。同時に東欧各国に駐留していたソ連軍の一部も、本国への引き上げを行った。

ゴルバチョフは1988年3月の新ベオグラード宣言の中でブレジネフ・ドクトリンの否定、東欧諸国へのソ連の内政不干渉を表明していたが、これを受け1989年から1990年にかけてドイツ民主共和国(東ドイツ)やハンガリー人民共和国、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が改革派による即席裁判で死刑となり、その結果、民主化が達成された。ソビエト連邦はかつてのハンガリー動乱やプラハの春のときと違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。

このような流れの中で、ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。

崩壊

国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフ副大統領、ウラジーミル・クリュチコフKGB議長、ドミトリー・ヤゾフ国防相ら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日にクーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁して条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、加えてアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった。

クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕された。クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフの直属の部下だったこともあり、共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、同時に共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止する決議を採択し、同党は事実上の解体に追い込まれた。

連邦政府の中核を担い、そして連邦を一つにまとめ上げてきたソ連共産党が解体されたことにより、各共和国を統制することができる政府組織は存在しなくなり、各共和国の元首が独自に権力を持つようになった。そしてこれ以後、実権は各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。

9月6日、国家評議会はバルト三国の独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの五つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意、また連邦への加盟を拒んでいる残りの共和国への説得を続けた。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され、投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア連邦共和国大統領も、5000万の人口を擁しソ連第2位の工業国であるウクライナが加盟しない主権国家連邦に、ロシア共和国が加入することは利益にならないとして、12月3日にウクライナ独立を承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。

同年12月8日のベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、残る諸国もそれにならってCISに加入した。12月17日、ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアとすでに独立したバルト三国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日には最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した。

地理

概要

ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接していた国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、アメリカ大陸など幅が広い。

陸続きで隣接した国は、西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)であり、海を挟んで南は日本(1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮半島で国境を接していた)、東はアメリカ合衆国である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、囚人を酷使した強制労働で多くの命が失われた。

自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、シベリア鉄道は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニン以来の方針により電化が進んでおり、軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。

長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件など)になったケースもある。海を隔てた隣国の一つである日本とは、第二次世界大戦から北方領土問題を持っており、この問題はロシア連邦になった現在も解決されていない。フィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。

ソ連はヨーロッパとアジアをまたぐ国であったことから、ユーラシアや北アジアと呼ばれることが多い。

サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアの国々も加盟しており、まったくこれは論拠にならない。

ソ連時代にいわゆる公用語も存在しなかった。すなわちロシア語はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?(ロシア語:Нужен ли обязательный государственный язык?)』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。

構成国

構成共和国には、ソビエト連邦から自由に離脱する権限が憲法で認められていた。しかし、実際に連邦から離脱するための手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、きわめてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することとなる。

国際連合にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ・ソビエト社会主義共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国が独自に加盟していたため、ソビエト連邦は国連において、事実上3票を投じることができるに等しかった。

代表的な都市

汚染地域

ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、ジェルジンスク、ノリリスク、スムガイト(現在はアゼルバイジャン)、チェルノブイリ(同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。

特にチェルノブイリ原発事故では広島型原爆の約500発分の放射性降下物がまき散らされ、多くの被災者が出た。核実験場のあったセミパラチンスク(現在はカザフスタン・セメイ)では120万人がいわゆる死の灰を受け、30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。

政治

一党独裁制

間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。

ただし、こうしたソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、実際にはソビエトの最小単位から最高単位まですべてに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党がすべてのソビエトを支配しており、事実上、一党独裁制の国家となっていた(ただし、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代は複数政党制であった)。こうした党による国家の各単位把握およびその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。

この細胞 (政党)を張り巡らせる民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ(「器官」の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上、存在しなかった。指導者選出のためのノーメンクラトゥーラ制度は縁故主義の温床となり、新たな階級を生み出した。一般の労働者や農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的に最高指導者であるソビエト連邦共産党書記長は「赤色皇帝」(赤は共産主義を表す色)とも呼ばれる。

スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、名目上の国家元首は最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党書記長が握っていた。

ブレジネフ以降は共産党書記長が最高会議幹部会議長を兼務するようになったが、最高会議幹部会議長の権限は儀礼的・名誉的なものであり、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の書記長職であった。

司法裁判

建国者のレーニンは秘密警察のチェーカーを設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実際にはレーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェーカーの無差別な処刑は、反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げてまで処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」という理由で皇帝一家ともども処刑を行うなど法に対する姿勢がずさんであったために、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキが法を守るふりさえしなくなった」契機だと批判した。

スターリン時代には密告が奨励されるなど、警察国家・全体主義国家としての色合いが強くなった。モスクワ裁判など形式的な裁判により多くの人々が有罪の判決を言い渡され、処刑されるか各地の強制収容所へ送られることになった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェーカーを改名したGPU(ゲーペーウー)を用いた。

スターリン批判後には、このような抑圧的なシステムは幾分か緩和されることになったが、秘密警察のGPUが改編されたKGBとして存続し国民生活を強く監視する体制は残った。

Collection James Bond 007

外交関係

概要

外交関係では、東側の社会主義陣営(ワルシャワ条約機構)の盟主として、アメリカ合衆国を筆頭とする西側の資本主義国陣営(北大西洋条約機構)と対決していた(いわゆる冷戦)。

成立当初はフランスやイギリス、アメリカ合衆国など大国の承認を得られず孤立したが、その後各国と国交を結び、さらに1930年代後半から1940年代にかけては日本やドイツと協定を結ぶ。

独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国化させた。さらにユーゴスラビアが主導する非同盟諸国と呼ばれる中華人民共和国・インド・キューバ・エチオピア・エジプト・イラク・シリアなどのいわゆる第三世界と友好協力条約を結び、関係を持つ。

経済相互援助会議(コメコン)ではメキシコ、モザンビーク、フィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジア(ベトナム、ラオス、北朝鮮など)、中南米(チリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラ、リビア、コンゴなど)などでも「民族解放」「反帝国主義」「植民地独立」を唱える共産主義政権(専制政治が行われた政権もある)の成立に協力し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。

対社会主義陣営(東側)

中華人民共和国

ソビエト連邦の軍事支援により、蔣介石率いる中国国民党(国民政府)との国共内戦に勝利した毛沢東率いる中国共産党によって1949年に建国された中華人民共和国とは、当初中ソ友好同盟相互援助条約により同盟関係にあったが、1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこのような対立関係はその後、中華人民共和国における内乱である「文化大革命」が終結する1970年代後半まで続くことになる。

そのような対立関係を見たアメリカ合衆国は、ソ連を牽制する意図で1970年代に入り急速に中華人民共和国に接近し、1979年には国交樹立(一方で中華民国とは国交断絶)に至ることになる。一方、中華人民共和国もアメリカの接近に応える形で、東側陣営にもかかわらず当時のモスクワオリンピックのボイコットとロサンゼルスオリンピックの参加という、西側と歩調を合わせる行動をとった。カンボジア内戦やアンゴラ内戦、オガデン戦争などのように米中ソ三つ巴となる代理戦争も発生した。

その後は、独裁体制を敷きソ連と対立していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、ゴルバチョフの訪中といった要因により、ソ連と中華人民共和国の関係も再び改善に向かった。

キューバ

1959年1月に、キューバ革命でアメリカの支援を受けていた独裁者のフルヘンシオ・バティスタを政権の座から引きずり下ろしたフィデル・カストロは、当初米ソ両国との間で比較的中立な立場を取っていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権はキューバ革命後に産業の国営化を進めたカストロを「社会主義者的」と警戒し距離を置いた。同時にソ連が「アメリカの裏庭」にあるキューバの最高指導者となったカストロに援助を申し出たことから両国は急接近し、南北アメリカ大陸における唯一のソ連の友好国となる。

その後、ジョン・F・ケネディ政権下でアメリカはキューバ侵攻を画策し、1961年に「ピッグス湾事件」を起こしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激しすぎると考え、キューバ軍への武器提供の代わりに軍事顧問団を置くほか、ソ連の核ミサイルをキューバ国内に配備する「アナディル作戦」を可決し、1962年にソ連製の核ミサイルをキューバに配備した。しかし、このことを察知したアメリカは、海軍艦艇によりキューバ海域を海上封鎖し、キューバに近づくソ連船舶に対する臨検を行うなど、キューバを舞台にしたアメリカとの軍事的緊張を引き起こした(いわゆるキューバ危機)。

その後もソ連はその崩壊まで、キューバに対する軍事的支援のみならず経済的支援も活発に行い、キューバの主要産業であるサトウキビを破格の価格で買い取り、その見返りにキューバがその供給を完全に輸入に頼っている石油を与えるなどさまざまな支援を行い続けた。

対資本主義陣営(西側)

日本

帝政ロシア時代に行っていた南下政策により日本やイギリスと衝突し、イギリスと日英同盟を結んでいた日本との間に日露戦争が起きて敗北した。第一次世界大戦時、ボリシェヴィキ政権の成立後に、他の連合国(三国協商)を無視して対独単独講和を行ったため、ドイツ兵の通過を許可するのではないかとして、日本および中華民国(北京政府)から警戒されることとなった(日支共同防敵軍事協定)。ドイツへ資源供与するのではないかとして、イギリスおよびフランスからも警戒され、両国によってシベリア出兵を打診され、実際に出兵した日米と直接衝突することとなった。その後、連合国の擁護する臨時全ロシア政府を打ち負かしたものの、そのときに日本へと亡命した白系ロシア人らによって反ソ宣伝を広められてしまった(反共主義#歴史)。

日本の帝国議会は1922年の政変を受け、「露西亜政変及ビ西比利亜事変ノ為ヲ被リタル者等ノ救恤ニ関スル法律」を成立させ、ロシアとシベリアからの引揚者に国債や現金を支給する措置をとった。救恤(きゅうじゅつ)とは、金品などを与えて救済するという意味である。

ソビエト連邦の成立後、コミンテルン支部の中国共産党によって漢口事件を起こしたが、その後に反日運動を停止する方向で動いていた。しかし、中ソ紛争勝利後に、中国共産党によって朝鮮共産党に対し満州にある日本領事館などへの襲撃を行わせた(間島共産党暴動)ほか、中国共産党によって満州のソビエト化を計画していたが、関東州の日本警察によって計画を暴かれてしまう。その後、日本によって満州事変を起こされ、満州国が建国されてしまい、満州国との国境などでたびたび日本と軍事的衝突を起こしていた(日ソ国境紛争)。中国共産党が朝鮮地方の普天堡を襲撃したり(普天堡の戦い)と、日本に対し赤色テロ活動を続けたりしていた。

第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結され、枢軸国と連合国という対立する陣営に所属しながらも国交を保ち続けていたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破棄し日本に宣戦布告し(ソ連対日宣戦布告)、日本が連合国に降伏したにもかかわらず侵略を続け千島列島・北方地域なども占拠した。そのうえ、多くの日本人捕虜を戦後の長い間シベリアなどに拘留して強制労働に処し、全収容者の一割以上が病気・事故により死亡している(シベリア抑留)。

このような経緯による日本の反ソ感情に加え、第二次世界大戦後に吉田茂首相がアメリカとの同盟関係(日米同盟)を主軸とした外交を採用したことから、日ソ関係はしばらく進展がなかった。その後、西側諸国以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代したことで、日ソ間での国交正常化の機運が生まれ、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復し、ソ連が反対し続けていたために実現しなかった日本の国際連合加盟が実現した。

しかし、その後もソ連が北方領土を不法占拠し続けたことや、日本社会党などの左翼政党や反政府組織に資金援助を行うなど内政干渉を行っていたこと、さらに日本がアメリカの同盟国で連合国軍による占領の終了後もアメリカ軍の駐留が続いたこともあり(在日米軍)、関係改善は進展しないまま推移した。その一方で、与党の自由民主党所属の一部の議員は、自主的にソ連とのパイプを持ち日ソ関係が完全に断絶することはなかった。北洋漁業や北洋材の輸入、機械や鉄鋼製品の輸出など両国の経済関係はソ連の崩壊に至るまで続いた。

東三省・満州国

亡命した白系ロシア人が満州のハルピンを中心に居住していた。崩壊した臨時全ロシア政府(オムスク政府)や白軍と関わりのある者によって、ザリヤやグンバオなどのソ連に批判的な白系露字新聞が執筆されており、白系ロシア人が中国や日本とともに反革命を計画していたため、ソ連は満州に住む白系ロシア人に手を焼いていた(たとえば、中ソ紛争におけるハバロフスク議定書には、白系ロシア人に対する条項が含まれている)。

大戦末期の1945年にソ連は満州国に攻め込み(ソ連対日参戦)、満州国を崩壊させ、満州を共産化させて白系ロシア人を満州の表舞台から追い出した。

イギリス

1924年のジノヴィエフ書簡事件により、イギリスから警戒される。さらに1927年のアルコス事件によって、秘密文書がイギリスに漏れてしまう。その一方で、1941年7月には独ソ戦を受けて軍事同盟の条約を結ぶ。しかし、1960年にはイギリスに暗号文解読のためのアメリカのベノナ計画へと参加されてしまった。

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国とは、第二次世界大戦においては連合国軍における同盟国として協力関係にあり、武器の提供を受けるなど親密な関係にあった。

しかし、第二次世界大戦後は東側の共産主義国陣営の盟主として、対する西側の資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国と、いわゆる「冷戦」という形で対立することになった。

このような関係の変化を受けて、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、いわゆる代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行ったほか、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。

このような対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。

外国渡航制限

外国、特に西側諸国への個人的理由での渡航は、亡命とそれに伴う国家機密の流出や外貨流出などを防止することを主な理由として原則的に禁止されており、渡航先の国と国交があるか否かに関わらず当局の許可がない限り渡航は不可能であった。許可が下りた場合でもさまざまな制限があり、少なくとも個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側の社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側の資本主義陣営から批判された。

さらに、外国から帰国した旅行者は必ずといっていいほどに諜報部から尋問を受けるため、本人にはその意思がなくても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。他にも、アエロフロートのような民間航空会社や乗客が実際にスパイとしての役割を兼ねている場合もあった。ただし、経済相互援助会議(コメコン)加盟国同士での海外渡航は容易に可能であり、観光や就労、留学などさまざまな目的にて人的交流は存在した。

西側諸国人との交際や結婚は多くの障害があり、特に幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも一応、結婚自体は可能であったが(石井紘基のナターシャ夫人や川村カオリの母親のエレーナのように)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えたうえに、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側の資本主義国に限らず、衛星国の人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたといわれている。

外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団のみならず、海軍艦艇に至るまで、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ずソ連共産党の政治将校が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人や集団を問わず絶えなかった。しかし運よく移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれることが多く、決して安住の地とは言えなかった。

例外

ユダヤ人

例外として、1950年代までのユダヤ人のイスラエル出国がある。ソ連政府はパレスチナでのイスラエル建国(1948年)を支持し、大戦からの復興途上にある自国からユダヤ人を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、間もなくイスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。1967年の第三次中東戦争で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。

国外追放

もう一つの例外として、ソ連政府の意に沿わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展の害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これによりレフ・トロツキーやアレクサンドル・ソルジェニーツィンはソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。しかし政府の意に沿わない人間であっても、物理学者のアンドレイ・サハロフのような、軍事機密や技術の流出につながる人物は国外追放せずに、国内で軟禁したり流刑を科したりする 形を取った。

軍事

強力な軍事力

アメリカ合衆国を筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、ICBM(大陸間弾道ミサイル)や大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。

1960年代に入り、東西間で核開発競争が過激化する中でソ連は超大型水素爆弾・AN602を製造する。通称「ツァーリ・ボンバ」と呼ばれるこの水素爆弾は広島型原爆の約3300倍の威力といわれ、第二次世界大戦中に全世界で使われた総爆薬量の約10倍の威力ともいわれる単一兵器としては人類史上最大の威力を有していた。この時期にソ連が運用を開始した自動報復システムは、一つの些細な判断ミスでも世界規模の核戦争を引き起こしかねないことから「滅亡装置 (Doomsday device)」と呼ばれた。その危険性を示す実例として、1983年に監視システムのコンピュータが核ミサイル発射を誤報した事件がある。

しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらして国家予算を圧迫し、その分、民生向けのインフラや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果も得られずに失敗した。多大な戦費を費やし多数の兵士の人命を失ったのみならず、ソビエト連邦の威信をも低下させ、結果的にソビエト連邦の崩壊を早めたとされる。

軍事支援

東側陣営のワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地を置き、ハンガリー動乱やプラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構の加盟国のみならず、中華人民共和国や北朝鮮、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機に至るまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界には旧ソ連製の武器が大量に流通している。

それだけでなく、自らの軍事技術をこれらの国に輸出したほかにも、将校などを派遣して軍事訓練を行い、これらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援した。

冷戦期間を通じて、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカ、中東、アジア、アフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会的勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。

科学技術

航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発のほか、世界初の原子力発電所オブニンスクを建設するなど、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎は、ソ連のコンスタンチン・ツィオルコフスキーが築いたものである。

航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構が開発されたが、経済効率や品質の向上には無頓着なままで、国内と衛星国以外ではほとんど採用されなかった。これらの宇宙研究や原子力研究は、関係者以外の立ち入りを許さず、地図にも記載されない閉鎖都市で行われることがあった。

一方で、工業以外の研究では遅れが目立った。特にスターリン時代では、科学的見地よりイデオロギーが優先されることがしばしばであり、特にトロフィム・ルイセンコの提唱したルイセンコ理論などにより、ソ連の農業は壊滅的な被害を受け、輸入国に転落した。計画経済による工場の建設や開発は、時として実情を無視したものとなり、利益面や環境面で失敗することもたびたびであった。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な環境破壊が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。さらにチェルノブイリ原子力発電所事故に代表されるような官僚的な隠蔽体質はこれらの被害を表面上は覆い隠し、被害を拡大させた。特にアラル海の開発計画は20世紀最大の環境破壊と呼ばれる事態を引き起こした。時には土木工事などに「国家経済のための核爆発」が使用されることすらあった。

原油など資源に依存する構造から重厚長大産業を重視したために「軽薄短小産業」に対応できず、半導体や集積回路、液晶技術でも大幅に遅れを取り、西側のようにコンピュータの急速な進歩と一般生活に至る本格的普及を実現することはできず、ハイテク分野で決定的に立ち遅れることとなった。軍事利用目的で東芝や日立製作所などの日本の民間メーカーから製品や技術を導入することもあった(東芝機械ココム違反事件)。

経済

計画経済

経済面では計画経済体制が敷かれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。医療費などが無料で税がまったくないことでも知られた。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後に明らかになった。

ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして完全雇用と社会保障をやってのけた」としながらも、1970年代には崩壊し始めたと総括している(しかし、1930年代当時のソ連経済の躍進の裏には、数百万人といわれる規模の強制労働従事者のほぼ無償の労働による貢献があった点を、ガルブレイスは見落としているか故意に無視していることに注意が必要である)。実際、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。

流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうこともあった。そのために闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、そのような中で共産貴族がはびこるという結果になった。

農業

ソ連の農業は、気候条件の厳しさから農業に適した地域は比較的限られており、また各共和国にモノカルチュア的な生産を割り振ってきた結果、ウクライナやベラルーシ、ロシアの黒土地帯・コーカサス地帯などでは主要な作物は小麦等の穀類や飼料作物(ビートなど)、ジャガイモ、ヒマワリ、果樹、野菜、シベリアでは穀類が中心、極東では大豆、中央アジアは綿花であった。農業労働者たちは、集団農場と国営農場で計画経済のもとで定められた賃金でノルマを満たすだけの作業のみ従事させられていた。農作物の価格は国家が決定し、価格を調整するために補助金を支給していた。これらが労働意欲を減退させ、農業生産性を極端に低くし、1970年代からは肉類、穀物の恒常的な輸入国になり農業はソ連のアキレス腱になった。

ロシア革命時、農村は人口の80%を占めていた発などを含む「戦時共産主義」によって、荒廃し特にウクライナで数百万人ともいわれる餓死者を出した。そのため1921年に穀物の強制徴発を廃止した新経済政策「ネップ」により、農業は戦前の水準を回復したが穀物の調達は困難になっていった。そこで1928年、スターリンは、農業集団化を実施し低賃金で酷使される集団農場と国営農場に改編された。クラークとされた勤勉な農民900万人は追放され、半数は処刑され残りは強制収容所に送られた。穀物の調達量は増加したが生産は低下し、1931年から1933年にかけて700万人が餓死した。抵抗した農民たちも最終的には工業労働者となったり集団農場に組織されたりした。

1941年に独ソ戦が始まると農村は壊滅的な打撃を受け、戦後も戦前と同様の経済体制を維持しながら戦後復興に着手したため、1946年から1947年かけて100万人以上が餓死し、多くが離農した。1953年、スターリンの死後、フルシチョフは、カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられた。1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、ルイセンコ理論や農地の砂漠化で処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏し国外から輸入するようになった。フルシチョフ失脚後も集団農場の生産性は上がらず、1980年代には集団請負制を導入するも、コルホーズ内のわずかな自留地では支えきれない大量の食料をアメリカから輸入していた。

消費財の流通

東西対立の世界構造の中で、軍需産業に高い技術と莫大な資金を投じることで軍民転換が遅れ、冷蔵庫や洗濯機、乾電池や電子レンジなどの国民生活に必要な電化製品や、石鹸や洗剤、シャンプーやトイレットペーパー、鉛筆やボールペンなどの一般消費財、たばこや清涼飲料水などの嗜好品の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない低レベルの電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であり、これはリチャード・ニクソンとの台所論争でもアメリカから槍玉にされた。

さらにほとんどの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より数十年遅れていたといわれているうえ、その多くがフィアット(トリヤッチを参照)やパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたもの、もしくは西側製品の無断コピーや、第二次世界大戦時にドイツ国内から接収、略奪したオペルの生産工場施設からの技術の流用であった。

電化製品や一般消費財、嗜好品や自動車は、市場における競争に勝ち残るために西側諸国では頻繁に行われていた新製品の開発や市場投入、改良や価格改定はほとんど行われず、なにも改良されないまま30年以上にわたり同じ製品が製造されていた。

自動車の個人所有は共産党幹部などの限られた階級の人間に限られ、それ以外の階級のものが手にするためには、電化製品同様数年待たなければいけない状態であった。まして労働者階級がジルやヴォルガなどの高級車や、レオニード・ブレジネフなどが愛用したシトロエンなどの西側諸国からの輸入車を所有することは事実上不可能であった。

貿易

上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。

それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。1975年の国別工作機械生産額でもソ連は世界3位である。その多くが事実上の援助品とあるいは、相手国の一次産品とのバーター貿易など無償に近い形で供給された。1930年からペレストロイカ実施まで、商業手形が廃止されていたので流通・割引がなく、取引はゴスバンク(国有銀行)で集中決済された。

輸入消費財

西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのたばこやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。

会計監査

会計も社会主義に基づいて進められ、会計士は計画経済を進める最高国民経済会議のために働くこととなった。国営企業の会計責任者は、貸借対照表と会計報告書を作成して会計を組織する責任を負った。中央集権化と集団農場化が進んだ1930年代からは、スターリン主義者によって会計学は個別企業のみを対象にしていると批判され、スターリン主義に批判的な会計士は活動の場を奪われ、ソ連財務省と中央統計局が会計の指導と監督を行うようになった。

会計人は中央省庁の計画をもとに実務を行う簿記係と、上級機関に責任を持つ会計担当者に分かれた。経営の改善や専門家としてのイニシアティブを発揮する余地はなくなり、会計は硬直化した。1960年代からは経済改革による分権化が始まり、計画経済や企業管理において利潤・原価・価格・利子なども評価されるようになり、会計士は科学技術協会(HTO)に所属して専門家として活動した。HTOでは資本主義諸国の会計の取り入れも検討された。

1980年代後半のペレストロイカから民営化や市場経済化が始まり、西側諸国との合弁企業で市場経済の会計が部分的に導入され、企業の営業秘密が認められた。1991年のソ連の崩壊後は市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された。

アメリカ合衆国との比較

ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、1989年までは世界2位の経済大国であり、アメリカ以上に巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。アメリカと対等レベルの核兵器を保有しているとみられていたために、直接対決だと共倒れを招くために自国の軍事行動にアメリカを介入させることはできなかった。国内総生産、また1人あたりのGDPもアメリカの2分の1から3分の1ほどであった。

国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら重工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。

ソ連の経済は1950年代から1960年代の初頭まで目覚しいペースでアメリカの国力を追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服したものの、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達した。しかしその後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大していった。

ソ連崩壊後、ロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは1人当たりのGDPと軍事費において大きく差をつけられた。さらに経済混乱の影響で、国民は最低限の生活も保障されず貧しさで苦しんだため、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを、「アメリカに魂を売った売国奴」や「裏切り者」と酷評する声も多い。

交通

国民は自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったため、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路やガソリンスタンド、レンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。

西側諸国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。許可が下りた場合でもさまざまな制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。

航空

アエロフロート

国内線

広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。国内の航空路線網は、唯一にして最大の航空会社で、ナショナル・フラッグ・キャリアである国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線から国内幹線、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、超音速旅客機を含む大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機や大型貨物機までさまざまな機材を運行していた。

使用機材のほとんどは、イリューシンやツポレフ、ヤコブレフなどの国産機材であったが、一部はチェコスロバキアやポーランドなど東側友好国の機材も導入されていた。有事にはそのまま軍事利用できるように、一部の機材は銃座が残されたまま運航されていた。

国際線

同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動には大幅な制限があった。一方で、国力と友好関係を誇示することを目的に、イギリス、日本、アメリカなどの西側の主要国や東ドイツやポーランド、ブルガリアなどの東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。

しかしその目的から完全に採算度外視で運行していたこともあり格安な航空料金で提供していたものの、その空港、機内サービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。

海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワやハバロフスクなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、アメリカ、イギリス、日本、西ドイツなどの西側諸国からも、パンアメリカン航空、英国海外航空や日本航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。

西側諸国に乗り入れた際には、航路から外れて軍事基地や港湾施設の近くを飛ぶことも多々あったと報告されており、そのため航空自衛隊の基地と併設している千歳空港への乗り入れを拒否されていた。さらにイリューシンIL-76などは尾部に銃座を残したまま(銃は取り外されていた)運航されていた機材もある。

日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行しており、一部路線においては日本航空とのコードシェア運航も行われていた。

鉄道

シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていたほか、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。モスクワやレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には防空壕を兼ねた地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、スターリン時代に建設された一部の駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。

自動車

個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の自由な移動は一般的なものではなかった。大都市の市街地にはトロリーバスを含むバス路線網が張り巡らされていた。

言論・報道

報道統制

国内

上記のように外国の放送の傍受が禁止されていたうえ、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は、1980年代にグラスノスチが始まるまで流れることはなかった。

このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものはほとんど報道されることがなかったか、仮に報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。

ロシア革命以前の支配者のニコライ2世やその家族を裁判なしに銃殺した真実を明らかにしようと、1979年に地質調査隊が皇帝一家の遺骨の発掘を行ったが、KGBに逮捕された事例がある。しかしソ連崩壊後にロシアでは70年以上も隠蔽されたこの事実が明らかになり、ロシア革命から80年を経た1998年に葬儀が行われた。

国外

西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程はすべてお膳立てされたものに沿わなければならなかった。モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、このようなお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。

西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局からあてがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。

「クレムリノロジー」

国内における報道管制の一環として、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になるたびに、モスクワ市内の政府の建物や病院、軍施設などを訪れ情報収集に努めたうえに、これらの対応を見てどの階層の要人が死去したかを推測しあっていたといわれている。

さらに党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化や、新聞やテレビ、ラジオニュースでの扱い回数や順番を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。

プロパガンダ

ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校が作られ、セルゲイ・エイゼンシュテインがモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や、後にナチス政権下のドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。

特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアやドイツ、日本などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て丹下健三が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であったオスタンキノ・タワーも完成させた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼にするため、スターリン様式の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフやレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だったと評するものもいる。ほかにもボリス・ロージングがブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案するなど、テレビの研究も活発だった。

宗教

正教弾圧

ロシア革命によって世俗主義、無神論、唯物論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシア帝国の国教であった正教(組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会、グルジア正教会などを含む)は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。のちに世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めた大主教アンドロニク・ニコリスキイは生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。モスクワ総主教ティーホンは当初、無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく抑圧された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑された。1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2000人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5000の司祭が銃殺もしくは投獄された。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。

政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。亡命者たちの中からはセルゲイ・ブルガーコフ、ウラジーミル・ロースキイ、パーヴェル・エフドキーモフ、イリア・メリア(メリアはグルジア人)など世界的に著名な神学者が輩出され、20世紀初頭まであまり知られていなかった正教の伝統が海外に知られるきっかけとなった。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。

1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた(1943年)。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物がきわめて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

ただし1940年代半ばにはソ芬戦争以後、ヴァラーム修道院のある地域がソ連領となったため、ヴァラーム修道院の修道士達はフィンランドに亡命し、この結果フィンランド正教会で新ヴァラーム修道院が設立されるなど、ソ連における正教弾圧は亡命者が出ることがないほどにまで緩和されたわけではない。

スターリンの死後、フルシチョフは再度、正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。

イスラム弾圧

広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともに正教など他の宗教とともに弾圧されることとなり、ムスリム宗務局によって国家統制された。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。

信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラン、トルコ、エジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。

イスラムが多数派の地域以外のロシア連邦などの諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人、アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインドや中国とも共通していた。

ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人などと文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでテュルク系やイラン系、コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。

その他の宗教弾圧

正教のみならず、他のキリスト教であるカトリック教会(東方典礼カトリック教会を含む)、聖公会、プロテスタントも弾圧を受けた。

創価学会との交流

日本の創価学会(日蓮仏教系)に関しては、ソ連国内における布教活動自体は認めなかったが、外交的および経済的見地から友好関係を保っていた。とりわけ池田大作会長(のちに名誉会長)が1974年以降にソ連訪問を繰り返すようになると、政府や党の要人が面会に応じるのが慣例だった。1974年、1975年の訪ソではアレクセイ・コスイギン、1981年の訪ソではニコライ・チーホノフ、1987年の訪ソではニコライ・ルイシコフ、1990年の訪ソではゴルバチョフと面会している。池田名誉会長と最高指導者との面会が行われたのはゴルバチョフ政権時代の1990年だった。

文化

芸術

言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされる者や、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞のソルジェニーツィンのように国外追放される者がいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。

革命直後のソ連では革命的な前衛芸術が流行し、抽象芸術や構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術として革命思想を宣伝するプロパガンダポスターに広く採用された。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術の一大中心地と化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。たとえば前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルスゾーン、オーギュスト・ペレ、ハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」の提唱などを次々と行い、1920年代におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期にはスタニスラフスキー・システムがあった)。

スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。

一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府により潤沢な予算が投じられたことで高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらドミートリイ・ショスタコーヴィチらが作品を残し、エフゲニー・ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが演奏を残している。バレエ団やオーケストラは共産主義の理想を広めるためとして海外公演を行っていたが、実際には外貨の獲得が主目的だったとされる。ソ連崩壊後は存続が難しくなり、オーケストラが改名したり団員が独立したりするなどして幽霊オーケストラが多数誕生した。アナトリー・ヴェデルニコフのように当局に迎合しない演奏家は海外公演を制限された。

ソ連を描いた作品

映画

  • 戦艦ポチョムキン(1925年、ソ連)
  • 僕の村は戦場だった(1962年、ソ連)
  • 地球爆破作戦(1970年、アメリカ)
  • モスクワは涙を信じない(1979年、ソ連)
  • ファイヤーフォックス(1982年、アメリカ)
  • ゴーリキー・パーク(1983年、アメリカ)
  • ロッキー4/炎の友情(1985年、アメリカ)
  • レッドブル(1988年、アメリカ)
  • レッド・スコルピオン(1989年、アメリカ)
  • レッド・オクトーバーを追え!(1990年、アメリカ)
  • ターミネーター2(1991年、アメリカ)
  • スターリングラード(2001年、アメリカ)
  • ククーシュカ ラップランドの妖精(2002年、ロシア)
  • K-19(2002年、アメリカ)
  • 007シリーズ

ゲーム

  • メタルギアソリッド3(日本)
  • コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー
  • コマンド&コンカー
  • レッドアラート3
  • Soviet Republic
  • コール オブ デューティ ブラックオプス コールドウォー

アニメ

  • ウサビッチ(日本)
  • Axis powers ヘタリア(作中では時代がまちまちなため「ロシア」として扱われ、ソ連は「皆で住んでいた家」となっている)

社会主義体制が描かれている作品

  • 007シリーズやゴルゴ13など、40年代から90年代までの世界情勢を背景とするフィクション作品において、ソビエト連邦は頻繁に描かれている。特に諜報機関KGBの暗躍や、政府高官や科学者の亡命事件等がよく題材となる。作成された国が西側諸国であるためと、ソビエト連邦の内部が不明であったために、ソビエト連邦の関係者は悪役として描かれることも多い。
  • ウォッカ・タイム(片山まさゆき)

外来文化

西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として規制され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。

スポーツ

ステート・アマチュア

運動競技では国の威信をかけた強化策がとられ、選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くのメダルを獲得していた。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られ、オリンピックのメダル獲得数がほとんど首位であった(オリンピック初参加後のメルボルンオリンピックから)。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。それらの記録はいまもなお剝奪されずに現存している。

共産主義というシステム上、すべてのスポーツ選手が国家の管理下におけるステート・アマであるという位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツおよびプロ選手は存在しなかった。

1980年モスクワオリンピック

1980年に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックであるモスクワオリンピックが行われた。冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や中華人民共和国、西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。

これ以降ソビエト連邦の崩壊まで夏季・冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった(ソ連崩壊後の2014年には、ロシアのソチで冬季オリンピックが開催された)。

そして次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、ソ連の衛星国である東側諸国の多くがボイコットした。

頭脳スポーツ

識字率が30%であった革命直後から数十年で87%に改善させ、戦後にほぼ100%を達成させるなど基礎教育は充実していた。さらに国威発揚のため専門のトレーニングへの公的な補助が行われた結果、数学オリンピックなどの頭脳系スポーツでは強豪国となった。しかし、第1回国際数学オリンピックは「下から2番目の6位」をとってしまい、指導部から𠮟責を受け、3年後の1962年からは高い成績を誇るようになった。

特にチェスは伝統的に盛んで、国民にとっても公認されている数少ない娯楽であったが、ソ連時代には国が管理するチェス学校が各地に建設され、体制が崩壊するまでは世界最高の水準を保っていた。国内選手権の開催や書籍の出版なども盛んだった。コンピュータチェスの研究も盛んで、第1回世界コンピュータチェス選手権でもソ連のプログラムが優勝し、人工知能の権威ジョン・マッカーシーとアラン・コトック率いるマサチューセッツ工科大学とソ連のモスクワ理論実験物理研究所によって行われた世界初のコンピュータ同士のチェス対戦でも勝っている。

チェス界ではプロとアマの区別がないため、ミハイル・タリやミハイル・ボトヴィニク、ガルリ・カスパロフなど、ソ連出身の選手が世界王者を長期にわたって独占していた。一時期は国際大会に出られなかったグランドマスター級の国内選手に対し、ソ連のチェス協会が「ソ連邦グランドマスター」という独自のタイトルを創設したこともあったが、次第にトップ選手ならば試合渡航も許可されるようになった。しかし有力選手がこれを利用して亡命することもあった。特にヴィクトール・コルチノイは亡命後「西側の選手」としてアナトリー・カルポフらソ連代表と国際大会で対戦したことがあり、ソ連側から非難を受けることとなった。

ソ連代表と西側の選手がチームで対戦することもあったが、特にボリス・スパスキーとアメリカ人のボビー・フィッシャーが対戦した1972年の世界王者決定戦は試合の進行をめぐり、クレムリンやホワイトハウスが介入するなど、政治的な問題にまで発展することがあった。敗れたスパスキーはその後の待遇悪化などで、1975年にはフランスへ亡命した。

体制崩壊後は西側へ拠点を移す選手もいたが、ウラジーミル・クラムニクなど、ソ連時代のチェス学校で教育を受けた選手が多数活躍している。旧東ドイツや近隣の東欧諸国でもソ連と似た状況にあった。

出典・脚注

役職

注釈

出典

参考文献

  • 木村英亮『増補版 ソ連の歴史』山川出版社、1996年。ISBN 463464200X。
  • 齊藤久美子「ロシアにおける会計の変遷と現代の課題 (PDF) 」、Working paper series 13、2013年、2020年7月4日閲覧。
  • 齊藤久美子「ロシアにおける企業会計と現代の課題 (PDF) 」 『第24回北東アジア学会全国大会予稿集』、立命館大学、2018年9月、 1-5頁、2020年7月4日閲覧。
  • 森章「社会主義諸国における会計制度の比較研究 (PDF) 」 『明治大学社会科学研究所紀要』第29巻第2号、明治大学、1991年、 25-267頁、2020年8月8日閲覧。
  • 森章「ロシアの市場経済化 と会計改革 (PDF) 」 『明治大学社会科学研究所紀要』第2巻第60号、明治大学、2004年、 103-116頁、2020年8月8日閲覧。

関連項目

  • ソビエト連邦関係記事の一覧
    • ソ連型社会主義
    • Index of Soviet Union-related articles
    • 新ソビエト主義
    • ソビエト連邦におけるユダヤ人の歴史
  • 集団安全保障条約
  • ユーラシア経済連合
  • ソビエト帝国
  • 沿ドニエストル共和国

外部リンク

  • 図書館にあるソビエト連邦に関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ

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