豊登 道春(とよのぼり みちはる、1931年3月21日 - 1998年7月1日)は、福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属に所属した元大相撲力士・元プロレスラー。本名は定野 道春(さだの みちはる)。最高位は東前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg。
立浪部屋に入門し、1947年6月場所初土俵。豊登の四股名に改め、1953年9月場所で十両優勝を果たし、1954年3月場所で幕内昇進して3場所勤*、親方との不仲により廃業。得意手は、右四つ、出し投げ、腕捻り、櫓投げ。力任せの強引な取り口だったという。
1954年10月、大相撲の先輩、力道山率いる日本プロレスに入団。11月に千葉県茂原市にて宮島富雄を相手にデビュー。1956年10月、全日本ウェート別選手権に出場し準決勝進出、頭角を現す。
その後、力道山のタッグパートナーとして海外遠征に同行したことで実力をあげ、1960年6月7日、力道山と組んでダン・ミラー&フランク・バロアを破り、第3代アジアタッグ王者となる。同王座は力道山の死後も、吉村道明やジャイアント馬場をパートナーに3回獲得した。
1963年の力道山の死を受け、1965年には日本プロレスの2代目社長に就任。ポスト力道山のエースとして、1964年にジン・キニスキー、1965年にフレッド・ブラッシーを破り、春のワールドリーグ戦連覇を果たした。
1964年12月4日、東京都体育館にてザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取したが、デストロイヤーは帰国後も王者として防衛戦を続け、日米で2つのWWA王座が混在する事態となった(飛行機嫌いの豊登が渡米を渋り、WWAの本拠地ロサンゼルスでの防衛戦を行おうとしなかったため、WWA本部が豊登の王座奪取を無効にしたとされる)。以降、アメリカではペドロ・モラレスを経てルーク・グラハムへタイトルが渡り、最終的には1965年9月20日、ロサンゼルスに遠征してきた豊登をグラハムが下して統一王者となったが(一度は豊登が勝ち2本のベルトを巻いたが、反則絡みのため取り消し)豊登の王座戴冠はWWAのタイトル史には記録されていない。生涯のシングル王座戴冠はこのWWA世界ヘビー級王座のみである。
1965年末、生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚して吉村道明ら幹部から非難を受け、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座獲得(力道山の死後封印されていたのが馬場にシングルの王座を与えるために復活)によりエースの地位が危うくなったこともあって社長を退任、日本プロレスからも退社することになった。
1966年3月、アメリカ遠征から帰国の途についていた当時日本プロレス所属のアントニオ猪木とホノルルで密会。「日本プロレスに帰ってもお前は馬場の2番手だぞ。俺の団体に来たら社長としてエースにしてやるから」と口説き落とし、猪木を伴い帰国。俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。同年10月12日、蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦を挙行した。
しかしここでも豊登は会社を私物扱いしており、売上金をわしづかみにして競輪場へ直行するという有様であった。テレビ放送が付かなかったこと、営業力が弱体であったこと、さらにこれらのトラブルから豊登と猪木の信頼関係が失われたことなどでわずか3か月で団体は消滅。猪木は日本プロレスに復帰した。
東京プロレス消滅後、国際プロレスに入団。1968年2月14日、サンダー杉山をパートナーにファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)を下してTWWA世界タッグ王座を獲得。同年12月にはビル・ロビンソンとIWAワールド・シリーズの決勝を争った。1969年5月18日にはパリにてストロング小林とともに、モンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフを破りIWA世界タッグ王座の初代王者チームとなった。
1970年2月に一旦引退し、それからしばらくはプロレス界を離れて市井で働く新間寿に面倒を見てもらっていた。1972年3月、新日本プロレス旗揚げ戦に登場。復帰に関して最初は「吉原功に引退興行をしてもらって正式に引退しているからカムバックはない」「もう体力的に無理だ」と断ったが、新間が「私は豊さんが出るということで(猪木)社長から金を受け取っているんですよ」とハッタリを口にしたことで復帰を決めた。復帰に際して自転車で1日80km走る、150kgのベンチプレスを行うなどしていたが、スパーリングではすぐ息が上がったりボディスラムの感覚を忘れていたりと精彩を欠いていた。旗揚げ戦では全盛期のようなパフォーマンスを見せることはできなかったがファンからは喝采を送られた。その後も継続参戦する。
1973年、坂口征二の合流でNET(現:テレビ朝日)の新日本プロレス放映が決定し、経営の見通しが立ったことに伴い勇退。「新春バッファロー・シリーズ」最終戦(2月20日、横浜文化体育館)の対ブルーノ・ベッカー戦が現役最後の試合となった。その後は1974年10月10日、蔵前国技館での猪木VS大木金太郎戦でレフェリーを担当。以降はプロレス業界との接点を絶っていたが、1989年2月22日、新日本プロレスの『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場、公の場に久々に姿を見せた。
1998年7月1日、心筋梗塞のため死去。晩年は糖尿病を患っていた。67歳没。本人の意向により、葬儀は近親者のみで行われ、訃報も約2か月半公表されなかった。
残された伝説、逸話は数多い。代表的なものを挙げる。
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