芝浦(しばうら)は、東京都港区の地名。現行行政町名は芝浦一丁目から芝浦四丁目。郵便番号は一丁目が105-0023(銀座局管区)、二〜四丁目が108-0023(高輪局管区)。
東京湾に面した、港区東部の芝浦港南地区総合支所管内に属する地域である。運河が多い埋立地であり、ほぼ全域がJR山手線の東側に位置する。工場やオフィス、倉庫などの商工業施設が大半を占めるが、高層住宅も存在する(後述)。また、JR田町駅芝浦口周辺を中心に商店街・飲食店街がある。
現在の芝浦は、明治時代から昭和時代初期にかけて、遠浅の海を埋め立てて船舶が接岸できる港を作ることを目的とした「隅田川口改良工事」によって成立しており、工事第1期の埋立3~5号地と第3期の埋立2~6号地に当たる。港区芝・三田とはJR山手線・京浜東北線の線路で、港区海岸・港南とは運河で接している。
東京都都市整備局が2022年に発表した地震に対する総合危険度の町丁別評価では、芝浦一丁目から四丁目までいずれも、5段階評価のうち相対的に都内で最も安全とされる「レベル1」となった。
芝浦の町域内には鉄道駅はないが、田町駅・三田駅・日の出駅・芝浦ふ頭駅などが近い。
「芝浦」とは「芝の浦」の意味であり、もともとは芝一帯の東京湾を指す言葉であった。この地域一帯の地名に見られる「芝」とは、文字通り芝のことで芝が生い茂った地であり、その沖の海底部分であるため「芝浦」と呼ばれるようになったといわれている。
また、「芝」とは芝沖の海苔の養殖に使う木の枝「ひび」(竹篠)のことであり、「ひび」の並んだ海であることから「芝浦」となった、とする説もある。芝浦は現在では行政区画上の芝浦一〜四丁目の地域のことであるが、広義では港区海岸・港南の全域を含む山手線よりも東京湾寄りの埋め立て地域全体を指し、山手線よりも内側で、元々陸地の部分が「芝」と呼ばれる。
現在の芝浦一帯は、かつては江戸湾(東京湾)の海底だった。中世から東京湾の重要な海運拠点で、戦国時代には後北条氏の水軍の一拠点であったとされ、北条氏の縁戚である吉良頼康と玉縄城主北条綱成の管理下に置かれた。
江戸時代には芝の雑魚場と呼ばれて栄えた。また芝浦で採れた魚は
大正時代から太平洋戦争を挟んで昭和30年代まで花街が存在した。当時の痕跡を示す見番の建物は修改築され、2020年から港区立伝統文化交流館として活用されている。
1920年に創立した日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」の発祥の地である。当時埋め立てが進んだ芝浦を本拠地としていたことから、「芝浦協会」とも呼ばれていた。また、日本初の放送が行われた場所もこの芝浦の地である。
1980年代後半のバブル景気の頃には、土地が安いことから「ウォーターフロント」として流行の発信地となり、ディスコやライブハウスが多数作られた。
その全面が埋め立て地であり、その為工場や倉庫が多かった芝浦では、バブル景気崩壊後の1990年代以降、付近の汐留や品川などの埋め立て地と同様、再開発が盛んになった。
その代表的なものが、2007年(平成19年)に竣工した大規模な高層住宅群「芝浦アイランド」である。都営バス操車場、新三井製糖工場などの跡地に「ケープタワー」や「エアタワー」、「グローヴタワー」など、高さ160m程度の高層マンションが4棟建設された。また同じ芝浦四丁目の沖電気工業の本社及び工場跡地にも高層住宅「CAPITAL MARK TOWER」が同年10月に竣工した。2016年1月には芝浦一丁目のヤナセ本社跡地に高層住宅「グローバルフロントタワー」が建設された。
これらに伴う児童数の増加に対応するために、芝浦一丁目にあった東京ガスの施設の跡地を再開発して2022年4月、港区立芝浜小学校が開校した。
2021年(令和3年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
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