加藤友三郎内閣(かとうともさぶろうないかく)は、海軍大将の加藤友三郎が第21代内閣総理大臣に任命され、1922年(大正11年)6月12日から1923年(大正12年)9月2日まで続いた日本の内閣。
1923年(大正12年)8月24日、加藤が首相在任のまま死去し、外相の内田康哉が首相を臨時兼任して同年9月2日まで事務を取り扱った。なお薩長出身でない軍人が首相を務めたのは、広島藩出身の加藤友三郎が最初である。
1922年(大正11年)6月12日任命。在職日数440日。
1923年(大正12年)8月24日任命。在職日数10日。
1922年(大正11年)6月12日任命。
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
前高橋内閣は、原敬首相の暗殺を受けて急遽首相に就任した高橋是清が、与党立憲政友会の党内をまとめることができず、半年余りで内閣総辞職に至る。後継の内閣としては、野党第一党の憲政会が想定されていたが、首相奏請権を握っていた元老(松方正義、西園寺公望)は、憲政会の加藤高明総裁の首相としての力量を疑問視しており、奏請には後ろ向きであった。そのため、後継首相の選定を主導した松方元老は、まず海軍重鎮の加藤友三郎海相を優先候補とし、加藤外相の組閣が不調に終わった場合は、憲政会の加藤総裁に打診する方針で臨む。
加藤海相は、当初はこれを機に隠匿する心づもりであり、最初は辞退したが、憲政会への政権移譲阻止を図る政友会から「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向が伝えられたことにより翻意、政友会は加藤友三郎政権を閣外協力する形で与党の座を維持する。
1923年(大正12年)8月24日、持病を理由にしばらく自宅で静養していた加藤総理がそのまま死去。大腸ガンの悪化によるものだった。翌25日に加藤友三郎内閣は総辞職、次の内閣が発足するまでの間は外務大臣の内田康哉が総理大臣を臨時兼任して関連事務を取り扱った。後継の首相となった山本権兵衛が組閣を行っている最中、関東大震災(大正関東地震)が勃発する。
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