刈谷市(かりやし)は、愛知県の西三河地方西端に位置する市。境川を挟んで尾張地方と接している。豊田自動織機(トヨタ自動車の源流企業)、デンソー、トヨタ紡織、トヨタ車体、アイシン、愛知製鋼(刈谷工場)、ジェイテクトといったトヨタグループの主要企業が軒並み本社を構える自動車工業都市である。
江戸時代には土井氏2万3000石の城下町だった。現代にはトヨタグループ主要企業の本社や工場が集まる日本有数の自動車工業都市となり、トヨタ自動車発祥地のひとつとされる。デンソーやアイシン、豊田自動織機などトヨタグループ主要企業の本社が多数存在する。同じく西三河地方の豊田市や尾張地方の名古屋市とともに中京工業地帯を構成する工業都市である。
2018年時点では愛知県で10番目の人口を有する。2015年度の昼間人口比率は123.1%であり、名古屋都市圏(中京圏)の中心市の1つに指定されている。
市章は存在するがアルファベットのKを図案化したシンボルマークが別に制定されている。
かりやという地名は、1409年(応永16年)1月11日の『熊野檀那職譲状写』(米良文書)に「一所借屋郷」とあるのが初見である。一般には1533年(天文2年)の刈谷城の築城が地名の発端とされるが、『宗長日記』には1522年(大永2年)に「此国、折ふし俄に牟楯する事有りて、矢作八橋をばえ渡らず。舟にて、同国水野和泉守館、苅屋一宿。」、1524年(大永4年)に「八日に参川苅屋といふ所、水野和泉守宿所一宿。」、1526年(大永6年)に「かりや水野和泉守宿所。」との記載があり、水野和泉守の居館が苅屋にあったという。
『三河物語』には三河一向一揆のくだりで「水野下野守殿、雁屋より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記載され、「刈」の字に「雁」が当てられている。かつては「谷」ではなく「屋」の字を当てており、『宗長日記』や『三河物語』や『信長公記』や『今川氏真判物』では「苅屋」または「かり屋」と表記されている。
「以前は『亀村』と称していたが、877年(元慶元年)に出雲より一族を連れ移住した狩谷出雲守の名による」という伝承があり、平安時代から刈谷という地名があったとする説もある。その他、水野藤九郎代牛田守次寄進状写に「一四百文目 坪本苅屋南 天文十九年 庚戌 三月六日」、水野和泉守寄進状に「合壱所者 坪ハ深見苅屋百姓友三郎 大永五年 乙酉 弐月彼岸日 水野和泉守近守」とある。東照宮御実紀巻一に、三州刈屋の水野右衛門大夫忠政とある。
アクセントは「かりや」(「渋谷」と同じ平板型アクセント)。
旧三河国の西端に位置し、三河国と尾張国との国境だった境川が市の西端部を流れる。この川に沿って市域は南北に長い形をしており、南北最長は13.2キロメートルとなっている。市域は海抜10メートル前後の平坦な土地であり、郊外には田畑が広がっている。
境川の他にいずれも境川水系の逢妻川、猿渡川等の中小河川が市内を東西に横断するように流れ、それぞれの流域に小規模ながら沖積平野を形成している。これらの沖積平野部はかつては衣浦湾が入り込んだ入り江であったところに河川がもたらす土砂が堆積して生じたものである。この沖積平野部に近世初頭以後干拓によって得られた新田が加わり、低湿地帯を形成しており、多くは現在も水田として利用されている。
そのほかの市域の多くは洪積台地であり、工場や住宅地が拡がっている。北部の愛知教育大学周辺は丘陵地帯であり、国の天然記念物である小堤西池のカキツバタ群落など僅かではあるが自然が残る地域である。
現在の南北に細長い市域の成立は、近代の市町村合併によるものだが、江戸時代の刈谷藩の時代に既に、元刈谷地区 - 井ヶ谷地区の半分まで、藩領であったことが確認できる。一方で、半城土・依佐美・小垣江の南部・東部は、重原藩であった。そのほか、高浜市域が刈谷藩であったことが確認できる。
衣浦湾の入り江の奥に位置し、魚介類が豊富に採れ、台地端からの湧水も豊富であったことから、旧石器時代より人の住む地域であったと考えられている。市内には縄文時代の本刈谷貝塚のような貝塚や、古墳も多く存在している。窯業も行われた。
平安時代末期から室町時代にかけては、知立を中心とした広大な荘園であった重原荘の一部となっており、地頭の重原氏や二階堂氏、大仏氏が支配した。刈谷の城下町としての歴史は戦国時代前期の天文2年(1533年)、水野氏宗家の水野忠政の刈谷城築城に始まる。当時は刈谷と東浦の間には衣浦湾が入り込んでおり、刈谷城の背後は入り江、周囲は湿地や堀に囲まれており、水に浮かんだ亀のごとくに見えたことから別名を亀城と呼ばれた。本丸には三層の櫓も建造されていた。
水野忠政は緒川から刈谷に本拠地を移し、徳川家康生母於大の方は刈谷城主の娘として、同じく今川氏傘下の岡崎城主松平広忠のもとに嫁いだ。父水野忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだため松平氏を離縁となった彼女は阿久比城主久松俊勝に再嫁するまでの日々を刈谷城近くの椎の木屋敷で過ごした。三河・尾張に於ける有力な豪族であった水野氏の拠点として刈谷はしだいに政治的戦略的に重要性を増していき城下町としての体裁を整え始めた。
なお水野信元の時代について『三河物語』や『今川氏真判物』に下記のような記述がみられる。
『三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間合戦当時、信元は緒川城周辺を守備するか、もしくは戦の成り行きを日和見していたと考えられる。同じく『三河物語』の三河一向一揆の項目では「水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述がある。
また、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられている。上記の判物には桶狭間合戦当時の刈谷城主水野藤九郎(信元の弟)と記されているが、藤九郎信近は信元の城代として刈谷を守備していたと考えるのが妥当である。武家のしきたりとして弟は嫡男の家臣となるのが通例であった。今川方の文書から藤九郎信近を刈谷城主とするのは適当でない。
江戸幕藩体制の刈谷藩は水野勝成の3万石で始まった。その後江戸中期までは頻回に転封があり、石高の最小は阿部氏の1万6000石から最大は本多氏の5万石まで変化したが、いずれも譜代の小藩であった。1747年、土井氏が2万3000石で入封し、以後、土井氏の治世が廃藩置県まで120年余り続いた。この間、刈谷は城下町として少しずつ発展していった。市域は侍屋敷を中心に発達したが、多くの町人も集まり、太田平右衛門、加藤新右衛門、岡本権四郎等の大商人も現れ、活況を呈するようになった。
土井家時代の市域の中部・南部は刈谷藩の領地であり、北部の井ヶ谷村の半分および東境村の半分も含まれた。市の南部や東部の一部(半城土、小垣江など)は刈谷藩の領地であったが、寛政4年(1792年)、土井氏の第3代藩主・土井利制の時代に寛政一揆の責任を取らされ、陸奥福島藩と村替え(領地替え)が行われた。後に重原藩の領地となる。市域の一部には、西大平藩などの領地もあった。
幕末期、刈谷藩主土井利善は早くから西洋式軍隊の優位性を認め西洋式軍事訓練を行う開明的な譜代大名として知られており幕府陸軍奉行に任じられ、やがては幕閣を担う逸材として将来を嘱望されていた。
また同時期に、譜代藩であったにもかかわらず刈谷藩は二人の勤皇志士を輩出している。天誅組総裁松本奎堂と同組幹部の宍戸弥四郎である。 本来、藩主土井利善と松本、宍戸は良き主従であり互いの理解者でもあったのだが、激動の時代の幕開けはしだいに松本や宍戸らを先鋭的な勤王運動へと向かわせ二人は吉野での天誅組の壊滅と共に壮絶な死を遂げることとなった。
そして天誅組の変は刈谷藩主土井利善の運命も変えてしまった。元家臣が天誅組の幹部である責任を問われた彼の幕府内での立場は一転し、隠居に追い込まれたのち失意のうちに死去したのである。
さらには勤皇派藩士の誤認による三家老斬殺事件という悲劇も起きており、大きく動揺した。
東海道本線開通時の刈谷駅設置、商業、酒造業、蚕業、窯業等の発達と市域の拡大、刈谷駅で南北にクロスさせる形での三河鉄道敷設の成功、愛知県第八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)、愛知県刈谷高等女学校(現愛知県立刈谷北高等学校)の誘致の成功、この鉄道網と教育機関立地の優位性による豊田自動織機の誘致の成功などにより現代の刈谷の基盤となる部分が整えられた。豊田自動織機の誘致が工業都市としての発展につながった。
太平洋戦争中には数日違いで空襲を逃れた。戦後は急速に工業都市へと変貌した。
碧南市、安城市、知立市、高浜市との間で衣浦東部広域行政圏協議会を結成している。また、同じ枠組みで衣浦東部広域連合を結成し、消防業務を共同で行っている。ごみ処理に関しては、知立市との間で刈谷知立環境組合を結成している。
刈谷市が中心市となって、知立市、高浜市、東浦町とともに衣浦定住自立圏を結成している。
予算額の約半分をトヨタグループ企業(デンソー、アイシン精機、豊田自動織機、トヨタ車体、トヨタ紡織等)の法人からの税収が占めている。
2019年度(平成31年度)当初予算案は以下のとおり。
2005年に開催された愛知万博では「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われた。名古屋市を除く県内市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。
2019年の工業製造品出荷額は、前年より1.2%増加した1兆6541億9100万円であった。これは、豊田市(15.3兆)、名古屋市(3.6兆)、岡崎市(2.6兆)、安城市(2.4兆)、田原市(1.9兆)に次いで愛知県内では第6位であった。
2019年の工業従業者数は、前年より2.5%増加した49,572人であった。これは、豊田市(11.6万)、名古屋市(9.4万)、安城市(5.1万)に次いで愛知県内では第4位であった。
刈谷市の中学生は、三河地区の県立普通科高校の他、尾張の愛知県立大府高等学校、愛知県立東浦高等学校、愛知県立豊明高等学校の普通科に調整特例で進学できる。2007年からは、調整特例校に愛知県立大府東高等学校がさらに追加された。
JR東海道線刈谷駅の周辺はペデストリアンデッキで整備されている。コミュニティバスとして刈谷市公共施設連絡バスがある。刈谷駅北口周辺は歓楽街であり、飲み屋や風俗店が広がる。刈谷駅南口には商業施設や公共施設がある。
市の中心となる駅:刈谷駅
市内を通る鉄道路線は東から南へ抜ける名鉄三河線を除いて概ね東西に建設されており、市内を直接南北に貫通する路線はほとんど存在しない。東西方向の距離も短いため、市内にある名鉄本線の駅も少ない。JRはほぼ中心部を、名鉄本線は北部をそれぞれ東西に貫通している。市境から近い場所に位置する駅として、名鉄名古屋本線の知立駅(知立市)や豊明駅(豊明市)、JR武豊線の緒川駅(知多郡東浦町)、JR東海道本線・東海道新幹線の三河安城駅(安城市)などがある。
愛知教育大学など、北部からは刈谷駅などの中心部のJR駅より知立市にある知立駅の方が近いため、知立駅を発着する路線が設定され本数も多くなっている。市内の南北移動をカバーするために、長距離を走るコミュニティバス路線も複数存在する。
国道1号、国道23号(知立バイパス)が市域を横断している。衣浦港(境川)を渡河する境川橋・平成大橋とその周辺は車の渋滞が起こりやすい。刈谷駅東側にJRの線路をアンダーパスする立体交差がある。
Bリーグのシーホース三河をはじめ、様々なスポーツチームが本拠地を刈谷市に置いている。 詳細は刈谷市のスポーツを参照。
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