田中 真弓(たなか まゆみ、1955年〈昭和30年〉1月15日 - )は、日本の声優、女優、ナレーター。日本芸術専門学校特別講師。本名:阿部 真弓(あべ まゆみ)。東京都渋谷区代々木上原、杉並区浜田山出身。青二プロダクション所属。
東京都渋谷区代々木上原に誕生する。父が新聞記者だったことから、転勤で2歳ごろに大阪府へ移住。後に東京へと戻り、杉並区浜田山で育つ。東京都立杉並高等学校、青山学院女子短期大学卒業。
幼少期から目立ちたがりで、歌うのが好きであり、将来は歌手を志望していた。学生時代には演劇にも打ち込み、学芸祭のクラス公演などで演劇を行っていたのをきっかけとして、舞台女優として身を立てる決意を固める。小学校には演劇クラブはなかったが、学芸会の花形であり、田中自身が演目を積極的に提案していた。また小学校時代には「自分には才能があるし、役者は天職だ」と作文にも記したという。
中学、高校、短期大学時代は演劇部に所属していた。当時は娘役が他に多数いたことから、お婆さんと少年役が多かった。中学時代は俳優座が好きであり、卒業後は桐朋学園芸術短期大学演劇科を志望していた。同芸術短期大学演劇科は中学、高校、短期大学時代と受験したが、いずれも不合格だった。
女優としての活動の場を求めて、文学座、青年座などに応募するも全て不合格だった。落選の理由として「あなたは背が低いし、小顔で、全てが小作りで舞台栄えしない。妖精や子供など、役柄が限られてしまうから」と告げられ、当時は非常に落ち込んだと述懐している。竹内演劇研究所の一期生募集のオーディションも受けたが、田中以外の全員が合格するという結果となった。入学金を支払えば入れるという、客状態でも活動できるといった形態の養成所だったが、田中だけが落選したという。このことで、当時はもう人間やめろと告げられたように感じ、深く落胆したという。フジテレビのアナウンサー試験にも応募し、最終選考の5名まで残ったものの内定には至らなかった。
作曲家の鈴木邦彦の下で歌のレッスンを受けていた時期もあった。ある日、渋谷にあるバーの前で歌手募集の広告を見つけ、そのバーでいわゆるハコバンのシンガーとして唄うことになる。後日、バーに来たテアトル・エコーの音響スタッフに「うちの劇団なんか合っているんじゃないかな、チビばっかりですよ」と斡旋され、テアトルの付属養成所の試験を受けて合格する。23歳の時に同養成所に入所し、短大卒業後はテアトル・エコーに所属することとなった。
声優として駆け出しの時期だった1978年には、田宮二郎の遺作となった『白い巨塔』の第2回に、財前五郎の講義を受ける医学生役と里見医院の看護婦役で出演している。
以前はNPSテアトル、アーツビジョン、大橋巨泉事務所(現:オーケープロダクション)に所属していた。
1978年に『激走!ルーベンカイザー』の高木涼子役で声優デビュー。同年には刑事ドラマ『Gメン'75』の「香港ロケ編」で、事件解決に協力する香港の難民少年役をアテレコで演じた。
1980年代には、島津冴子とラジオ番組『アニメトピア』に2代目パーソナリティーとして出演、少し後に『さすがの猿飛』に揃って出演した。1983年から長期にわたり、『うる星やつら』で女性でありながら格好も言葉遣いも少年の姿の藤波竜之介役を演じたことで大きく知名度を上げた。
1984年に三ツ矢雄二とプロジェクト・レヴューを設立。
2006年には、CD企画『外道女王』(原作:伊豆一彦、脚本:伊藤良徳)にて主役を担当した。
2011年に第5回声優アワード「高橋和枝賞」を受賞。
2012年に伊倉一恵、竹田えり、高乃麗と共に演劇ユニット「コーネンキーズ」を結成。
2013年に第7回声優アワード「キッズ・ファミリー賞」を受賞。
2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第6位に入選。
音域はF-F-C(地声)-F(裏声)。
現在でも女優が本業であり、舞台に立つことが多いが、男児のような低めの声を活かし、アニメなどで声優業の仕事を精力的に行っている一方で、フジテレビの『クイズ!ヘキサゴン』など、ナレーションの仕事も多くこなしている。
代表作では熱血・元気な少年を演じることが多く、主人公では『ダッシュ勝平』の坂本勝平、『イタダキマン』の孫田空作/イタダキマン、『巨神ゴーグ』の田神悠宇、『魔神英雄伝ワタル』シリーズの戦部ワタル、『とっても!ラッキーマン』のラッキーマン / 追手内洋一、『中華一番!』の劉昴星、『ドラゴンボール』のクリリン、『ONE PIECE』のモンキー・D・ルフィ、『忍たま乱太郎』の摂津のきり丸、『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』のツワブキ・ダイヤ、映画『天空の城ラピュタ』のパズーなどがある。『新・おそ松くん』のチビ太は、事実上イヤミと共に主役の位置にあった。
少年役以外にも、声優デビューとなった『激走!ルーベンカイザー』では社長令嬢の高木涼子、『サクラ大戦』では男勝りで姐御タイプの桐島カンナ、『ぼのぼの』でもショーねえちゃん、などといった女性キャラクターの役も稀に演じることがある。
テアトル・エコー劇団員で、晩年には重度の糖尿病に罹患していた安西正弘の支援を、島田敏とともにおこなっていた(3人とも同学年でテアトル・エコー出身、田中と島田は同じ青二プロダクション所属)。安西とはNHK教育『おーい!はに丸』(1983年 - 1989年)での「はに丸」と「ひんべえ」、『うる星やつら』(1983年 - 1991年)での「藤波竜之介」親娘など、共演機会が長かった。
宮野真守が声優としてデビューした後、田中に会った時はやばかった。宮野とは2012年時点ではアニメの仕事ではまだ共演したことがないが、宮野が『ONE PIECE』が好きだと言い続けていたため、ラジオのスタッフが内緒で田中をゲストに呼んでくれた。その時にスタジオに入ったところ田中がルフィの麦わら帽子をかぶり「よう!」と言っており、宮野は緊張して何も喋れなくなってしまった。
宮野は勇気を振り絞り「僕は『ONE PIECE』が好きなんですけど、『ドラゴンボール』も大好きでずっと観てたんです!」と言っていた。その時に田中がクリリンとルフィのコラボである「ゴムゴムの気円斬」をしてくれて「ワーッ!」と真っ二つにされたような贅沢な時間であったと語る。
母がクリスチャンだったことから日曜日には、母に連れられて、教会に礼拝に出かけていたという。2歳上の兄がおり、その兄は落語研究会に所属し、落語が好きで、特に立川談志が好きで、その影響で家族も皆談志が好きになったという。夫は声優・俳優の柴本浩行、息子は大道芸人のこ〜すけ(阿部孝祐)。柴本とはのちに離婚するが、田中と別の女性との再婚・離婚を経て、復縁した。
趣味は演劇。特技はジャグリング。
中学2年生の時、本番で声が出なくなり、病院に行っていたところ、左軟口蓋麻痺だと言われたという。
会話も、全部筆談でしており、「演劇が好きで好きでたまらないのに、このまましゃべれないかもしれない……」と思い、悲嘆に暮れていたという。その時、父が「演劇が好きなら演劇に携わる仕事がいっぱいあるじゃないか」と励ましてくれて、色々と演劇関係の仕事のことを調べてみたが、「演劇が好きなわけじゃない」と気が付いたという。「歌でも踊りでもいいから、目立ちたい! 人前に出たい! 出たいだけなのよ!」というのが、本性だったという。
麻痺は長引いて大変であったが、その本性を知ることができたのは、「あの麻痺のおかげだったんじゃないか」と思っているという。脚本も才能なかったといい、プロジェクト・レビューでも作と演出をしたこともあったが、「あんたみたいに才能ないやつが書くんだったら辞める!」と出演者に言われたこともあったという。そんな紆余曲折もあり、「出る以外何もできないから、できることだけやろう」をモットーにしているという。
持ち役のうち、最も気に入っているのは『新・おそ松くん』のチビ太。『新・おそ松くん』でのチビ太の決め台詞「てやんでぃバーロイチキショイ」「しっかりこまたき」「いやーんもう」は田中のアドリブから生まれたものであり、特に人気だった「てやんでぃバーロイチキショイ」は、『新・おそ松くん』DVD第5巻のチビ太のイラストのディスクジャケットにも採用されている他、田中が後に声を当てた『とっても!ラッキーマン』の追手内洋一役や、『ゲゲゲの鬼太郎(第5作)』の毛目玉役でも同様の台詞を連呼している。
『ONE PIECE』のモンキー・D・ルフィ役に起用された経緯は「何回かオーディションがあって。(ルフィ役を)男の人でやりたいっていう人と、女でいきたいっていう人と、新人でやりたいかっていう。新しい声で。新人の中井和哉くんが、先にゾロに決まったの。『じゃあ、ルフィはベテランか』っていう風になった時に、私が浮上してきたっていう。あとあと聞いたら、もともと尾田(栄一郎)先生は『パズーの人(田中)がいい』と言っていたんですって」と明かし、「少年役として、いろいろやらせてもらってきて、声優業はルフィで終わりたいと思っているし。これ以上、少年の役をやれるかっていうと、もうやりきった感じ」とも述べている。
好きなアーティストは『ハナ肇とクレージーキャッツ』、好きなテレビ番組は『シャボン玉ホリデー』。
1980年頃から鳥類の鳴き声の練習も行っており、『プロゴルファー猿』(カラスのカンクロウ役)や『平成天才バカボン』(九官鳥役)などの鳥役をはじめ、『新・おそ松くん』ではチビ太を演じる傍ら脇役のカラスの鳴き声も担当した他、ニワトリの鳴き声を発するチビ太も器用に演じた。1993年に生出演した『森田一義アワー 笑っていいとも!』(コーナー「ザックリいきまショー」)でも、カラスとニワトリの声を披露している。
洋画の吹き替えでは、特に楽しかった作品に『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(日本テレビ版)のショート・ラウンド(演:キー・ホイ・クァン)役を挙げており、「元気な少年役でしたが、普段のアニメとはまた違った気持ちで収録に臨めました」と述べている。洋画の吹き替えでは女性役がくることがあっても男勝りの出で立ちの女優の吹き替えが多いという。
『ONE PIECE』単行本52巻では、質問コーナー「SBS」にて読者からの質問に答えており、そこでは持ち前のキャラクターを遺憾なく発揮している。
『魔神英雄伝ワタル』シリーズの収録現場のアフレコテスト時では、渡部クラマ役の山寺宏一の台本のセリフ「ワタル、気がついたようだな」を「ワタル、毛が生えたようだな」と落書きし、彼に読ませるといったイタズラ書きや、田中演じる戦部ワタルの相棒、龍神丸を召喚した時の「おぉー!!」という雄叫びの後に玄田哲章(龍神丸役)らと共にアドリブを付け加えるなど、ストーリーの流れと無関係のアドリブを率先的に行っていたひとりである。こういったイタズラ書きやアドリブの多さに本気で怒る者や、イタズラ防止のためトイレに行くときですら台本を手放さない者もいたという。また、ワタルシリーズのキャストと別の現場で共演した時に、そこで同じようにイタズラ書きやアドリブを行おうとしたら叱られたこともあったという。一方で、収録初期は「田中真弓という役者が戦部ワタルを演じている」というプライドが強く、心の底からワタル役になりきっていないと感じ取った音響監督の藤野貞義から「今の田中真弓でしょ?ワタルの演技してよ」という注意に「私らしいカラーを出して何が悪いの?」と納得していなかったが、収録が進むにつれそれらを意識することなく、自然体でワタル役を演じられるようになったという。
2006年時点では「俳優としてずっとやってきていると、自分を出したくなるものなのね。自分らしさを表現したいって。でもね、役に溶け込むよりも自分を出した演技を良しとされる場合もあれば、田中真弓を消して役になりきったほうが良い場合もある。だからそれは、時と場合によるかな」と語っている。
アニメの主人公の役を演じる機会が少なくなってきたことに悩んでいた頃にアニメ『モジャ公』のオーディションがあり、声の出し方などを息子と相談しながらオーディションに臨んだ結果、採用された。オーディションでは声を作り過ぎてしまい、常にそれでやらなければいけなくなったといい、モジャ公の悲しんでいる時の「オレ、悲しい」という台詞を普段と同じテンションで言っても何か違うなと思ったという。自分なりに考えて違う表現をしても「それじゃ、モジャ公ではなくなっちゃう」と言われ、それ以来「声を作ることはやめよう」、「自分のまんまでいい、今喋っているトーンのまんまで、喜びも悲しみもすべて表現できれば、男も女も関係ない」と考えるようになったという。
『サクラ大戦歌謡ショウ』では持ち役である桐島カンナの扮装で舞台に立った。田中は劇団出身だったことから「夢みたいなこと」とし、カンナについて「性格が近く、やりやすかった」としている。舞台での田中は下ネタを披露するなど、キャラとの乖離が激しかったが、音楽監督の田中公平によれば、原作者の広井王子はダメ出しをする所か一緒に面白がっていたという。
若い頃からボーイッシュな外見と低い声だったことから、『うる星やつら』の藤波竜之介の「俺は女だ!」というセリフが他人とは思えないこと、また声優になってから少女らしい演技を試しにしてみたところ「少女趣味のオカマの声」と呼ばれたことを、『アニメック』に寄稿したコメント(第28号「TVアニメ20周年と私」、1983年)で述べている。
『クレヨンしんちゃん』のオーディションをテアトル・エコー時代の後輩の坂本千夏と一緒に受けていたが、オーディション時に野原しんのすけの口癖でもある「ぞぅーさん」と言ってほしいといわれて子供の声を得意とする2人もアフレコで演じたが、しんのすけ役には決まらなかった。
『ドキドキ!プリキュア』のイーラは、田中が初めて演じた少女アニメでの少年役である。この時の裏話で、スタジオでプリキュア役のオーディションを行っている現場をたまたま通りかかった田中は、冗談で参加しようとしたところ事務所のマネージャーに注意されて現場を後にしたというエピソードがある。田中は、「あの時オーディションに顔を出したことがイーラを演じるきっかけを作った」と語っている。
ラジオドラマは自分の間で喋れるため特に好きだといい、洋画の吹き替えよりラジオドラマやアニメの方が好きだと語っている。洋画の吹き替えは俳優の表現の仕方によっていろいろと難しい部分があるといい、また日本語の場合は会話の中の結論が最後に来るが英語だと結論が最初に来るため俳優のリアクションが早く、画面とセリフのテンションがかみ合わなかったりすると語っている。日本や日本語にはないようなことが洋画にはいっぱいあるため、そこにリアリティを載せるのは無理、アニメのほうがリアルな表現をでき、最初から日本語で作ってあるため面白いという。
『ドラゴンボール改』のアフレコ記者会見にて、再びクリリンを演じていることについて田中は「前回の『Z』の時はまだ新人で、先輩と一緒だったこともあり、それなりに緊張していた。そんな余裕のない状態で夢中でアフレコしていたから、その時はクリリンがどれだけ悟空のことを好きか、まだよく分からなかった」と振り返った。そして「今回(『改』)、第2話で目の前で悟空が殺されてしまう場面で、どれだけクリリンが悟空のことを好きなのかすごく分かった。クリリンの悟空を想う気持ちの大きさは、今もう一度声を吹き込んで、改めて分かった」と話した。
劇中でクリリンが殺される場面は3回(アニメオリジナル『ドラゴンボールGT』も含めれば4回)描かれており、この内、殺す側であるタンバリンとフリーザを中尾隆聖が演じていたため、他の番組で中尾と共演する際に「中尾さんが来たら私殺される!」と言って逃げだすという。
学習研究社発行のアニメ雑誌『アニメディア』の付録である「人気声優 直筆 DATA FILE」(年1回)の中で、「声優としての目標」の欄に「八奈見乗児さん」と書いていた。
2006年時点では「八奈見乗児さんって、基本的に一色だからねぇ。それで全部を演じているし。常にそれを求められるし。そういうのが自分にとっては一番いいんじゃないかな」と語っていた。
八奈見とは1983年に主演作『イタダキマン』で、主要キャラクター同士では初共演した(ゲストでは、それ以前に『ヤットデタマン』で共演している)が、視聴率低迷で短期で打ち切りとなり、「私がタイムボカンシリーズを終わらせてしまった」と語った。
1977年頃よりテアトル・エコーで劇団仲間だったコント赤信号の渡辺正行と交際。このことは『アニメトピア』パーソナリティ時代に明らかになったことがあるが、当時は話題とならなかった。しかし、後に退任後の『アニメトピア』のゲストとして梨元勝が出演した際に話題として上げられたため、自身の出演するワイドショー番組で発表したが、一般に知られるようになったのは、番組上で明石家さんまなどが話題にするようになってからである。
1985年に女性週刊誌などで8年超しの交際が伝えられたが、同年柴本浩行と結婚し、一児をもうける(後に離婚)。1988年2月17日放送のフジテレビ『火曜ワイドスペシャル』の「輝け!第2回オールスター実家大賞」で渡辺の元婚約者として登場。新婚家庭での柴本と、生まれたばかりの息子を渡辺に紹介して大受けとなり、番組大賞を受賞した。
1990年からは渡辺が代表を務める事務所「なべや」に在籍した。その後も渡辺とは『クイズ!ヘキサゴンII』でナレーター(田中)と常連解答者(渡辺)という形式で共演をしている。
太字はメインキャラクター。
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