佐竹氏(さたけし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた。
通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜が現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。
佐竹氏は甲斐源氏の武田氏と同じく、源頼義の三男で源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である。佐竹氏の初代当主については、義光とする説、義光の嫡男で常陸源氏祖・進士判官の義業とする説、義業の子の昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧・佐竹村)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから、昌義を初代当主とする説が一般的である。家名については、昌義が佐竹郷にある佐竹寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。
史料で確認できるところでは、『吉記』承安4年3月14日条に「佐竹」の名が出てくるのが最古であり、それからそれ程さかのぼらない時期に佐竹氏が成立したと推測できる。
平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。
治承・寿永の乱においては、佐竹氏は平家にくみしたために源頼朝によって所領を没収された。後に頼朝に従って奥州合戦に加わったが、近年の研究では奥州合戦の直前まで佐竹氏の抵抗が続いていたと考えられている。奥州合戦の際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、扇を白旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる。
承久の乱の戦功によって佐竹氏は美濃国に所領を与えられるが、その時一族の一部が美濃に移住した。後に和泉国や土佐国に見られる佐竹氏もその末裔と推測される。
鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。
元弘の乱を経て南北朝時代になると、佐竹氏第8代当主貞義および第9代当主義篤は早々に足利氏に呼応して北朝方に属し、小田氏や白河結城氏といった関東における南朝方勢力と争う。室町幕府が樹立すると、これらの功績から守護職に任ぜられ、やがて幕府の関東出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍した。また、貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来である京都扶持衆に選ばれ佐竹山入家(山入流佐竹氏)を興した。
義篤の孫で第11代当主義盛の時代、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられた。以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称をもって称された。
しかし、佐竹氏は先述のように鎌倉公方を主君としたことから足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。室町時代中期、佐竹氏宗家当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となる。佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く佐竹山入家はこれに反発し、宗家に反旗を翻すことになった。佐竹山入家が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こしたこと、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったことから、佐竹氏の勢力基盤は脆弱(ぜいじゃく)であったといえる。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。
戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ久慈川以東の常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、更に山入家との戦いの間に独自性を強めた小場氏・宇留野氏・長倉氏などの久慈川以西の一族も叛旗を翻した(部垂の乱)。また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。
義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。
甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。
しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。
義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。 そして、水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門・与力の岩城氏らを含めると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」とも呼ばれた。
慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。佐竹家中や影響下にある同族大名の間では、徳川氏との接点がある父・義重、上杉領になっている会津の旧領主である弟・蘆名盛重、伊達氏に好意的な弟・岩城貞隆などが東軍寄り、石田三成との縁が深い相馬義胤や実家宇都宮家の復興を期待する結城朝勝などが西軍寄りの立場であり、自身も三成に恩義を受けている義宣は態度を一貫させることができず、東軍による佐竹領侵攻を危惧して上杉氏に接近し、西軍優位にならないと見るや上杉氏と距離をおくという形になった。
戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。
処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。
江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。転封時点で明示されていなかった石高は、第2代藩主義隆の治世も後期になった寛文4年(1664年)4月2日付で、20万5,800石と決定された(実高40万石)。うち5,800石は、慶長10年(1605年)10月17日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地11か村分である。
元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の義処は弟の義長に2万石を、甥の義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の義堅が久保田藩第5代藩主の義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された(義堅は早世するが、その嫡男の義真が久保田藩第6代藩主となる)。一方、義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した。
幕末の戊辰戦争では官軍に属して戦った。その戦功により明治2年(1869年)には賞典禄2万石を下賜された。
1869年(明治2年)の版籍奉還で久保田藩知事に転じ、1871年(明治4年)には秋田藩と改称し、同年に廃藩置県を迎えた。
1884年(明治17年)、佐竹氏第30・32代当主で最後の久保田藩主であった義堯は侯爵に、佐竹壱岐守家第9代当主で最後の岩崎藩主であった義理は子爵に叙せられ、1889年(明治22年)には佐竹壱岐守家の出身で義堯の養子となり一時的に宗家を相続した義脩が男爵に叙せられた。家臣であった分家の佐竹四家(東西南北家)に関しては、1900年(明治33年)に佐竹西家の佐竹義遵、佐竹南家の佐竹義雄、および佐竹北家の佐竹義尚が、いずれも男爵に叙せられた。このとき佐竹東家は男子が絶えて佐竹銀子が女戸主になっていたため叙爵されなかったが、1903年(明治36年)に銀子の養子になった佐竹義準が1906年(明治39年)に男爵に叙せられた。
昭和時代前期に佐竹侯爵家の邸宅は東京市麹町区九段、佐竹子爵家の邸宅は千葉県船橋町、佐竹(西家)男爵家の邸宅は東京市世田谷区代田、佐竹(南家)男爵家の邸宅は埼玉県浦和市領家、佐竹(東家)男爵家の邸宅は東京市世田谷区東玉川町にあった。
岩崎佐竹家の佐竹義理子爵は相馬子爵家からの養子であり、貴族院の子爵議員や、國光生命保険会社の社長を務めた。その息子で爵位を継いだ佐竹義勝は陸軍騎兵将校となった。
佐竹東家の佐竹義準男爵は韓国統監秘書官や朝鮮総督府事務官などを歴任した後貴族院の男爵議員に二度当選している。その息子で爵位を継いだ佐竹義利男爵は三菱重工業勤務を経て、戦後に東洋製作所の社長となっている。
現在の秋田県知事の佐竹敬久は佐竹北家の出身である。
佐竹貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来となり佐竹宗家とは別の佐竹家を興した。常陸山入に主な拠点があったため俗に山入家とよばれているが、当家自身は佐竹氏を称し続けた。息子の与義の勢力は佐竹宗家を追い抜き将軍家の京都扶持衆に選ばれ、この与義の子孫が代々この身分を継承した。以降、義郷 ― 祐義 ― 義知 ― 義真 ― 義藤 ― 氏義 ― 義盛と続いたが、義盛のとき佐竹宗家の計略にはまり滅亡した。
与義および祐義は足利幕府より常陸守護に任命されている。
※ 以下、佐竹氏の直臣・陪臣として活躍した武家の一覧。
佐竹氏一門 佐竹東家家臣
佐竹氏一門 石塚家家臣
常陸守護代 小野崎氏家臣
常陸守護代 江戸氏家臣
佐竹氏庶流 小野岡氏家臣
佐竹氏庶流・頃藤城主 小川家家臣
羽黒城主 向氏家臣
大橋城主 茅根氏家臣
真壁城主 真壁氏家臣
旧小田城主 小田氏
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