安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - 2015年(平成27年)12月16日)は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下(現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。
15歳で感化院に入れられ、18歳で多摩少年院に収監されるなど、荒れた少年時代を送った。予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院、三重海軍航空隊に入隊後海軍飛行予科練習生へ配属。1945年(昭和20年)6月、神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に志願し配属が叶い生死を伴う苛酷な訓練を受けるも、2ヶ月後に終戦となり、除隊。1946年(昭和21年)、法政大学予科に入学するが、翌1947年(昭和22年)退学し、仲間達と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作った。
1952年(昭和27年)、用心棒や賭博を手がける東興業を設立。これは後に「安藤組」となった。
安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨し、刺青・指詰めを厳禁した等)で、当時の若者の絶大な支持を集めた。最盛期には500人以上の構成員が在籍し、大学生や高校生の姿も珍しくなかったという。安藤組の幹部には、後年 安藤組の回顧録『修羅場の人間学』(1993年には映画化もされた)を執筆した森田雅や、本田靖春の小説『疵・花形敬とその時代』の主人公として知られている花形敬らがいる。また作家の安部譲二が安藤組に出入りしていた。
1958年(昭和33年)、横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、その話し合いの席上での横井の態度に激怒した安藤は、組員に横井襲撃を命じる(横井英樹襲撃事件)。恐喝などの容疑で安藤が逮捕され6年間服役した後、安藤組は解散した。
1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。この作品がヒットを記録し、松竹と契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結んだ。松竹の子会社であるCAGに所属という形で、11本の映画(但し、2本は確認されていない)に出演。その後、1967年(昭和42年)に東映に移籍した。この移籍は本来なら五社協定違反であったが、映画界の慣習を知らない安藤が松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった。1967年に東映で鶴田浩二、高倉健に互して五本の主演作が組まれたが、鶴田、高倉に次ぐ東映の大看板にはなれなかった(次に看板スターになったのは若山富三郎)。
精悍な顔立ちに左頬の傷跡、元ヤクザという迫力から、ヤクザ映画を中心に58本の映画に主演し、人気を博した。松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持つ。自ら主題歌も歌い、レコードも数枚リリースしており、1965年発売のデビュー曲「新宿無情」はテレビやラジオで放送禁止になったが、年内に20万枚を超える大ヒットになった。俳優となった後も暴力団関係者との交流は続いており、友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されている(安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたという)。
1979年(昭和54年)、東映映画『総長の首』出演を最後に俳優を休業。これ以降はごく希にVシネマに客演する程度で、Vシネマのプロデュースや文筆活動に勤しんでいた。
2015年(平成27年)12月16日(水曜日)午後6時57分、都内の病院で肺炎で死去。89歳だった。
2016年(平成28年)2月28日、発起人である佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田眞三、梶間俊一により「安藤昇 お別れの会」が東京・青山葬儀所で行われ、映画関係者やファンら含め約700人が参列し、「新宿無常」「旅傘道中」「惜別の唄」など安藤昇の歌をBGMに進行された。黙祷が捧げられた後、実行委員長の海老澤信が挨拶し、中島貞夫と堀田眞三が弔辞を述べ、梅宮辰夫が献酒を務めた。梅宮は取材を受けるとみられていたが、焼香後、体調不良により会場を後にした。北島三郎、村上弘明、岩城滉一は囲み取材を受け安藤昇との思い出をコメントした。
愚連隊となった当初は新宿で勢力を拡大しようとしていたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区であったため、やがて渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば「子供の町」であった。そのためか、1950年代半ばまでは警察も飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたものと思われる。
トレードマークとして知られる左頬の傷は、1949年(昭和24年)春の夕暮れどき台湾人の蔡という人物に銀座・並木通りとみゆき通りの交差点付近で言い掛かりを付けられ、喧嘩になりかかった際に「待ってくれ!上着を脱ぐから」と云うので律儀に待っていたところ、咄嗟に上着に隠してあった短刀(長匕首)で切り付けられた時のものである。
作家・作詞家の山口洋子とは、横井英樹襲撃事件で警察に指名手配を受けた際に一時山口の住むアパートに安藤が匿われるなど、ヤクザ時代から深い関わりがあった。山口も「安藤組の組員の末席をけがしている」と自認していたほどで、安藤が俳優に転身した後も長きに渡り交友関係が続いた。
映画『網走番外地 吹雪の斗争』に出演した際、監督・石井輝男に無断で撮影現場を離れて帰ったことがある。石井は含むところもなく、安藤とこれ以降の映画でも仕事をしている。
俳優として出演していたのは専ら映画だったが、1970年(昭和45年)にはテレビ時代劇『新・三匹の侍』にも主演している。監督を務めた五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社自ら自分の映画への出演を安藤に打診していたが、1974年(昭和49年)、東映配給の映画『暴力街』において安藤は江川紘一役で主役を務めた。
唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。安藤によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた。
安藤は俳優として人気も実力もあったが、あまり出演しなくなった事には理由がある。撮影中のカメラリハーサルで拳銃を撃つシーンがあり、この時「バン!バン!」と銃を撃つ声を自ら出さなければならなかった。それをたまたま知り合いに見られてしまい、さすがの安藤も恥ずかしい思いをした事がきっかけと言われている。
安藤本人と安藤組には数々の逸話・武勇伝があり、現在でもたびたび小説やVシネマの題材として取り上げられていた。
本記事では便宜上、ヤクザとして扱ったが、安藤には博徒や的屋と認められる組織の所属歴がないため、安藤ならびに安藤組は法的には愚連隊(青少年不良団)と称するのが正しく、警察関係の資料でもそう扱われている。ちなみに警視庁に保管されている安藤組の構成員名簿では、五十音順で整理されている関係で、安部譲二(本名・安部直也)の名前が安藤に続いて2番目に位置している。
野球評論家の関根潤三や元西武ライオンズ監督の根本陸夫は大学の同級生であり、渋谷でつるんでいた事もあったという。
家相の研究家でもあり、本も出版している。
歌:安藤昇
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