奏任(そうにん)は官人や官吏の任官手続きの種類で上奏を経て官職に任ずることまたはその官職をいい、とくにその官職をいう場合は奏任官(そうにんかん)という。
奏任官は1886年(明治19年)から高等官の一種となり、明治憲法の下で用いられ1946年(昭和21年)に廃止された。勅任官の下位、判任官の上位に位置し、高等官三等から九等に相当するとされていた。奏任官は天皇の任命大権の委任という形式を採って内閣総理大臣が任命し、官記には内閣印が捺されていた。
律令制では太政官が天皇への上奏を経て官職に任ずることまたはその官職を奏任といい、官位を定めた官職は勅任の他はすべて奏任とした 。 奏任の上位に勅任があり下位に判任がある。
明治以後の奏任は、1868年7月4日(慶応4年(明治元年)5月15日)に勅授官・奏授官(そうじゅかん)・判授官を区別したことが始めで、政体書の官等制で第一等官から第九等官までのうちの四等・五等の2官を奏授官とし宣旨に行政官の印を押すとした。
第四等官は行政官の権弁事、神祇官・会計官・軍務官・外国官・刑法官の権判官事、府の権判府事、県の二等知県事とし、第五等官は議政官上局・行政官の史官、司の知司事、県の三等知県事・一等判県事とした。
このときの俸給は月給としており、江戸開城した後も戊辰戦争は継続していたことから関東平定まで四等官・五等官の月給はその3分の1を減額することにしていた。
1869年(明治2年7月)の職員令による官位相当制では正五位相当以下従六位相当以上を奏任とした。また、
とした。
このときの俸給である官禄は石高で示し官位相当表によって定めた 。
1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県の後、同年9月13日(明治4年7月29日)に諸官省に先立って太政官の官制を改正し、従前の官位相当表では正五位相当以下、従六位相当以上を奏任としてきたが、この際に従四位相当以下、正六位相当以上を奏任として4等に分つ。 従四位相当は正院の枢密権大史・大史、式部局の助、左院の三等議員、正五位相当は正院の枢密少史・権大史、従五位相当は正院の枢密権少史・少史、式部局の大式部、正六位相当は正院の権少史、式部局の少式部とした。
明治4年7月に諸省の卿及び開拓長官へ権限を委任する条件を定め、卿部属の官員を選任・降級・昇級する場合は、奏任官は奏聞の上でこれを任ずることになる。
1871年9月24日(明治4年8月10日)に官位相当制を廃止して官等を15等に定め、文官は四等以下七等以上、武官は五等以下七等以上を奏任とする。
官制等級改定の際に官禄を月給へ改定したときの対応によると、官制等級改定前の従四位相当官の官禄(従前六等)は改定後の官等四等の月給に対応し、以下1等づつ降って正六位相当官の官禄(従前九等)は改定後の官等七等の月給に対応する。
1873年(明治6年)5月8日に陸軍・海軍とも大将以下少尉までを1等づつ繰上げて武官も文官と同様に四等を奏任として、四等は大佐、五等は中佐、六等は少佐、七等は大尉とした 。その後、1873年(明治6年)5月12日に中尉・少尉を奏任官としたことで、八等・九等に奏任と判任が混在することになる。 また、1873年(明治6年)6月14日に中尉・少尉は奏任であることを理由に、官等表にこだわらず諸判任官の上席とした。
陸海軍資のためとして1874年(明治7年)から家禄税 とともに官禄税を設けており、陸海軍武官等を除いて奏任官月俸100円以上は20分の1の割合とした。
1877年(明治10年)1月に官制の簡素化を図り、各省の諸寮及び大少丞以下を廃止して奏任官の官名を書記官とし、四等官は大書記官とし、五等官は権大書記官とし、六等官は少書記官とし、七等官は権少書記官とした。 このころから陸海軍の中尉・少尉等を先例として他の省や大審院にも八等・九等の奏任官を置き始め、司法省は奏任の判事・検事を四等官相当から九等官相当までとし、内務省は警視局の大警部は八等、権大警部は九等として以上を奏任とした。
このときに勅任官以上の禄税をすべて2割に増加しており 、奏任官の官禄税は従前の通りとしたが、六等以上の奏任文官の月俸は従前の1等下に、七等の奏任文官の月俸は従前の七等と八等の間にそれぞれ減額して 、等級改定後の八等の文官の月俸は従前の八等と九等の間の額とし、九等は従前と同額とした 。
1878年(明治11年)12月に官禄税を廃止して奏任官の俸給を元の水準に戻した。ただし、八等の月俸に上等給・下等給を設けて、上等給は明治10年改定の七等と明治10年改定前の八等の間の額とし、下等給は明治10年改定の八等の額とした 。
1883年(明治16年)1月4日に叙勲条例を定め、奏任官の初叙は勲六等とし、奏任官は勲三等まで進むことができるが、ただし七等官並びに七等相当官以下は勲三等に進むことができないとした。
1885年(明治18年)7月28日に叙勲条例を改正し、奏任官の初叙は勲六等とし、奏任官は勲三等まで進むことができるが、ただし六・七等官並びにその相当官は勲三等に進むことができず、八・九等官並びにその相当官は勲四等に進むことができないとした
1885年(明治18年)12月22日に内閣職権を定めて太政官制から内閣制に転換した後、1886年(明治19年)2月26日の各省官制通則(明治19年勅令第2号)を定め各省大臣は所部の官吏を統督し奏任官以上の採用・離職は内閣総理大臣を経てこれを上奏するとし、各省大臣は閣議の後に裁可を経るのでなければ定限の他新たに勅奏任官を増加することはできないとした。 秘書官・書記官・局長・参事官・局次長は奏任とし、書記官は總務局の中の各課の長を兼ねることができた 。 また、試補は奏任に准じた。 なお、局の中の各課に課長1人を置き判任官を以てこれに充てるところ、各省の中で特に奏任官を以て課長を兼ねさせるものは各省の部でこれを定めた。
同年3月12日に高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号)を定めて高等官を勅任官と奏任官に分け、奏任官を6等に分けた。
奏任官の任官は内閣総理大臣がこれを奏薦し、各省に属するものは内閣総理大臣を経由して主任の大臣がこれを奏薦するとした。奏任官の辞令書は内閣の印を押し内閣総理大臣が宣行するとした。なお、このときの内閣及び各省の中の局長は奏任一等または二等とし局次長は現任局長の次等以下としていた。
太政官制の下では勅任官・奏任官・判任官は同じ官等の枠組みの中にこれを充てており、八等・九等は奏任と判任が混在して、席次は官等に拘らず奏任官を上とするなど複雑化していたところ、このとき高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号)と判任官官等俸給令(明治9年勅令第36号)を別に定めることで、高等官と判任官は別の官等の枠組みをそれぞれ用いることになった。
奏任官の文官の年俸については、
である。
奏任官の武官の官等については、陸海軍大佐は奏任一等、中佐は奏任二等、少佐は奏任三等、大尉は奏任四等、中尉は奏任五等、少尉は奏任六等とし、佐尉官の相当官もまた同じとした。
内閣賞勲局の書記官は奏任一等から四等までとしたが、奏任一等の上級俸・下級俸はそれぞれ高等官官等俸給令の奏任官二等の上級俸・中級俸と同じ額、奏任二等の上級俸は高等官官等俸給令の奏任官二等の下級俸と同じ額、下級俸は高等官官等俸給令の奏任三等の上級俸と同じ額、奏任三等の上級俸・下級俸はそれぞれ高等官官等俸給令の奏任三等の中級俸・下級俸と同じ額、奏任四等の上級俸・下級俸はそれぞれ高等官官等俸給令の奏任四等の上級俸・中級俸と同じ額とした 。 元老院の書記官の官等や年俸は内閣賞勲局の書記官と同様であった。
裁判所官制により裁判所の長・局長・評定官・判事及び判事試補を総称して裁判官といい、検事長・検事及び検事試補を総称して検察官ということになり、現任の裁判官・検察官の年俸は不利益処分とならないように旧に依り支給したが、新任または官等を陛叙する場合については、
とした 。
各府県の知事は勅任二等または奏任一等として奏任一等の知事の上級俸は高等官官等俸給令の勅任官二等の下級俸と同じ額、下級俸は高等官官等俸給令の奏任官一等の上級俸と同じ額とした 。
1887年(明治20年)に位階について叙位条例を定めたときの叙位進階内規では奏任官の叙位は初任官後満3年で一等は従五位、二等は正六位、三等は従六位、四等は正七位、五等は従七位、六等は正八位に叙すとし、奏任官の極位は正四位とした。なお非職の奏任官又は奏任の待遇を受ける者は叙位若しくは進階することはないとした。
1887年(明治20年)に文官試験試補及見習規則(明治20年7月25日勅令第37号)により奏任文官の任用資格を定め、法学博士・文学博士の学位を受け又は法科大学・文科大学等を卒業し又は高等試験を経て当選して高等官の実務を練習するものを試補とし、試補及見習ノ待遇並ニ任用ノ件(明治20年11月7日勅令第57号)により試補を奏任とし、試補を本官に任用するには奏任官四等以下とした。 試補及見習俸給支給方(明治21年3月16日閣令第2号)により試補を命じられたものには年俸600円以下その官庁の定額内において所属長官便宜これを給することができるとした。 ただし、技術官及び特別の学術技芸を要する者については、試補は年俸900円以下とした。
1888年(明治21年)に勲章について叙勲条例並びに附則を廃止して文武官叙勲内則を定めたときの規定では、奏任官の初叙は勲六等とし、奏任官一等・二等は勲三等まで進級するとし、三等・四等は勲四等まで進級するとし、五等・六等は勲五等まで進級するとした。
同年に枢密院を設置して枢密院の書記官は奏任とした。
1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法を発布すると、同年12月24日に内閣官制(明治22年勅令第135号)を定め、地方長官の任命及び採用・離職は閣議を経ることになる 。同年12月27日に各省官制通則を改正し、各省大臣は所部の官吏を統督し奏任官以上の採用・離職はこれを奏薦宣行するとし、地方高等官については府県書記官、警部長、島司、郡長の採用・離職は内務大臣、収税長の採用・離職は大蔵大臣がこれを奏薦宣行するとした。 また、同年5月に会計検査院法を定めて会計検査院の部長は勅任または奏任とし、検査官・書記官及び検査官補は奏任とした。
1890年(明治23年)3月24日に高等官官等俸給令を改正・追加し、従前は奏任官の官等は原則として5年を越えるのでなけれは陛敘することができないところ、改正後の奏任官の陛叙は奏任官二等・三等は毎等在職5年以上、奏任官四等・五等・六等は毎等在職3年以上と短縮した。この改正の主な趣旨は、例えば試補より出身する者は奏任四等以下に叙する制度であることから学識経験を具えていても10年以上を経過しなけれは奏任三等以上に陛敘することができないため、毎等在職3年以上とし学識経験ある者を陛敘させる便を与えた。 また、同月27日に各省官制通則を改正し各省局長を勅任二等または奏任三等以上としその官等は各省官制の部でこれを定め、局次長は奏任とした 。 参事官・秘書官・書記官は奏任とし、書記官は課長を兼ねることができた。 なお、局の中の各課に課長1人を置き判任官を以てこれに充てるところ、各省の中で特に奏任官を以て課長を兼ねさせるものは各省官制の部で定め、陸軍省・海軍省の中の課長は武官及び理事・主理を以てこれに充てた。
同年10月に行政裁判所を設け行政裁判所の評定官は勅任または奏任とした。奏任一等の評定官の年俸は高等官官等俸給令の奏任官一等の下級俸と奏任官二等の上級俸の間の額、奏任二等の評定官の年俸は高等官官等俸給令の奏任官二等の下級俸と同じ額、奏任三等の評定官の年俸は高等官官等俸給令の奏任官三等の中級俸と下級俸の間の額とし、奏任四等以下の評定官の年俸は高等官官等俸給令に依った 。
同年11月に裁判所構成法を施行して従前の裁判所官制で裁判官・検察官と総称してきた諸官はそれぞれ判事または検事となり 、判事・検事の官等・年俸は従前の裁判官・検察官の官等・年俸とほぼ同じ内容であったが、判事・検事の奏任六等には中級俸を設けずに下級俸は従前の裁判官・検察官の奏任六等の中級俸の額とした 。 裁判所構成法により判事・検事を官名とし地方裁判所の長や検事正などを奏任判事・奏任検事を以て補す職名としてこれらの任官と補職を区別するようになったことから、判事・検事の各職について定員・官等・年俸を限定し、大審院の判事は勅任二等ないし奏任二等としその年俸は勅任二等の中級俸ないし奏任二等の下級俸の額とし、大審院検事局の検事は勅任二等ないし奏任二等としその年俸は勅任二等の中級俸ないし奏任二等の下級俸の額とし、控訴院の部長は奏任一等・二等としその年俸は奏任一等の中級俸ないし奏任二等の下級俸の額とし、控訴院の判事は奏任三等・四等としその年俸は奏任三等の上級俸ないし奏任四等の中級俸の額とし、控訴院検事局の検事は奏任一等ないし四等としその年俸は奏任一等の下級俸ないし奏任四等の中級俸の額とし、東京・大阪地方裁判所の長は奏任一等としその年俸は奏任一等の中級俸の額とし、その他の地方裁判所の長は奏任一等ないし三等としその年俸は奏任一等の下級俸ないし奏任三等の上級俸の額とし、地方裁判所の部長は奏任三等・四等としその年俸は奏任三等の中級俸ないし奏任四等の中級俸の額とし、地方裁判所の判事は奏任四等ないし六等としその年俸は奏任四等の下級俸ないし奏任六等の上級俸の額とし、東京・大阪地方裁判所検事局の検事正は奏任一等としその年俸は奏任一等の下級俸の額とし、その他の地方裁判所検事局の検事正は奏任二等ないし四等としその年俸は奏任二等の上級俸ないし奏任四等の上級俸の額とし、地方裁判所検事局の検事は奏任四等ないし六等としその年俸は奏任四等の中級俸ないし奏任六等の上級俸の額とし、区裁判所の判事は奏任四等ないし六等としその年俸は奏任四等の下級俸ないし奏任六等の上級俸の額とし、区裁判所検事局の検事は奏任四等ないし六等としその年俸は奏任四等の下級俸ないし奏任六等の上級俸の額とし、予備判事・予備検事は奏任六等に叙し奏任六等の下級俸の額を給すとした。
1890年(明治23年)11月29日に施行した大日本帝国憲法の下で、1891年(明治24年)7月24日に高等官任命及俸給令(明治24年勅令第82号)を定めて従前の高等官官等俸給令(明治19年勅令第6号)を廃止する。文武官の官等を廃止しているが、高等官の任命については勅任官と奏任官に分けることには変更なく、奏任官の辞令書は内閣に属する者は内閣の印を押し内閣総理大臣がこれを宣行し、各省に属するものは省印を押し主任大臣ががこれを宣行するとした 。また、官等の廃止に伴い陛叙に関する規定を削除しているが局長は奏任官に在ること5年以上でなければこれに任ずることはできないとした。
同月27日に各省官制通則を改正して各局の局長は勅任または奏任として各省官制の部でこれを定め局次長は奏任とした。また、従前は各省の中で特に奏任官を以て課長を兼ねさせるものは各省官制の部で定めていたところ、大臣官房及び局の中の各課に置く課長は奏任官または判任官を以てこれに充てるとした。
俸給については従前の官等に応じた等級俸から職給俸に改めたことから、初任奏任官に支給することができる俸給額は年俸1200円 を超過することができないとするとする上限や、1か年内における昇級回数の制限、一度に昇級できる級数の制限などを内規で定めた 。
奏任文官の年俸については、局長は高等官任命及俸給令(明治24年勅令第82号)の一号表に依り個別の官職名毎に指定されており、
内閣書記官・法制局参事官・各省参事官・内閣総理大臣秘書官・各省大臣秘書官・各省書記官・大蔵省主計官・大蔵省主税官は二号表に依り
恩給局審査官の一級俸は従前の奏任三等の下級俸と同じで二号表の六級俸と同じ額、二級俸は従前の奏任四等の上級俸と同じで二号表の七級俸と同じ額、賞勲局の書記官の一級俸は従前の奏任二等の上級俸と同じ額、二級俸は従前の奏任二等の下級俸と同じで二号表の三級俸と同じ額、外務省翻訳官・文部省視学官・逓信事務官は三号表に依り、外務省翻訳官・文部省視学官は、
逓信事務官は、
内務省警保局主事の年俸は従前の奏任三等の上級俸と同じで二号表の四級俸と同じ額、農商務省特許局審判官の年俸は従前の奏任四等の上級俸と同じで二号表の七級俸と同じ額、農商務省特許局審査官の年俸は技術官俸給令(明治24年勅令第84号)で高等官任命及俸給令の二号表に依るとしているので各省書記官等と同じ、逓信監察官の年俸は従前の奏任四等の下級俸と同じで二号表の八級俸と同じ額である 。 枢密院の書記官の年俸は高等官任命及俸給令の第二号表によるとした。 会計検査院の検査官の一級俸から八級俸まではそれぞれ高等官任命及俸給令の第二号表の一級俸から八級俸までと同じ額とし、書記官の一級俸は高等官任命及俸給令の第二号表の三級俸と同じ額、二級俸は高等官任命及俸給令の第二号表の五級俸と六級俸の間の額とした 。 行政裁判所の奏任の評定官の一級俸から七級俸まではそれぞれ高等官任命及俸給令の第二号表の一級俸から七級俸までと同じ額とした 。
奏任の判事・検事の年俸は
とし、予備判事・予備検事は奏任とし従前の予備判事・予備検事と同じで従前の判事・検事の奏任六等の下級俸と同じ額を給した 。
同年11月14日に文武高等官官職等級表(明治24年勅令第215号)を定めて高等官の官職を10等の等級に分け、奏任は四等から十等までとした。 文武官の官等を廃止してからわずか3カ月で文武高等官官職等級表を設けたのは11月3日の天長節を多分に意識したものであり、宮中席次の秩序を保つために必要とされていたからである。
奏任文官の官職等級については、各省官制の部で奏任とした局長は四等とし、内閣書記官・法制局参事官・各省参事官・内閣総理大臣秘書官・各省大臣秘書官・各省書記官・大蔵省主計官・大蔵省主税官は俸給に依り、二号表の一級俸は四等、二級俸・三級俸は五等、四級俸・五級俸は六等、六級俸・七級俸は七等、八級俸・九級俸・十級俸は八等とし、賞勲局書記官の一級俸・二級俸はそれぞれ四等・五等とし、恩給局審査官の一級俸・二級俸はそれぞれ六等・七等とし、 外務省翻訳官・文部省の視学官も俸給に依り、三号表の一級俸・二級俸は六等、三級俸・四級俸は七等、五級俸・六級俸・七級俸は八等、八級俸は九等とし、逓信事務官も俸給に依り、三号表の一級俸は七等、二級俸・三級俸・四級俸は八等、五級俸は九等とし、内務省の警保局主事は六等とし、農商務省の特許局審査官は俸給に依り、二号表の一級俸は四等、二級俸・三級俸は五等、四級俸・五級俸は六等、六級俸・七級俸は七等、八級俸・九級俸・十級俸は八等とし、特許局審判官は七等とし、逓信省の逓信監察官は八等とした 。また、文武高等官官職等級表(明治24年勅令第215号)の十等の指定がある官職については、陸軍省の陸軍教授・陸軍編修および海軍省の海軍教授は一級俸・二級俸を六等、三級俸・四級俸を七等、五級俸・六級俸・七級俸を八等、八級俸・九級俸を九等、十級俸を十等とし、農商務省の大林区署技師は一級俸を八等、二級俸・三級俸を九等、四級俸を十等とし、逓信省の商船学校教授・東京郵便電信学校教授は一級俸・二級俸は七等、三級俸・四級俸・五級俸は八等、六級俸・七級俸は九等、八級俸は十等とし、北海道庁の札幌農学校舎監は十等とし、裁判所の奏任の判事・検事は一級俸は四等、二級俸・三級俸は五等、四級俸・五級俸は六等、六級俸・七級俸は七等、八級俸・九級俸・十級俸は八等、十一級俸・十二級俸は九等、予備判事・予備検事は十等とし、文部省直轄諸学校教諭は一級俸は七等、二級俸・三級俸・四級俸は八等、五級俸・六級俸は九等、七級俸・八級俸は十等とし、文部省直轄諸学校舎監は十等とした。
この高等官の官職の等級は叙位進階内則では叙位の規準として用いられ、四等官の初叙は従五位相当とし、五等官の初叙は正六位相当とし、六等官の初叙は従六位相当とし、七等官の初叙は正七位相当とし、八等官の初叙は従七位相当とし、九等官の初叙は正八位相当とし、十等官の初叙位は従八位相当とし、相当位以上2階を極位とした。なお奏任官待遇で満7年以上の勤労がある者は、特に従六位以下に叙せられることもあるとした。
また、叙勲内則でも叙勲の規準として用いられ、奏任の官職の初叙は勲六等とし、陸海軍大佐並びに相当官・文官高等官四等、中佐並びに相当官・文官五等は勲三等まで進級するとし、少佐並びに相当官・文官六等、大尉並びに相当官・文官七等は勲四等まで進級するとし、中尉並びに相当官・文官八等、少尉並びに相当官・文官九等は勲五等まで進級するとし、文官十等は勲六等に止まるとした。
しかし、高等官任命及俸給令(明治24年勅令第82号)で官等を廃止したため、等級を定めるにあたっては俸給だけを基準にせざるを得ず本来の精神は却って失われることになる。 文武官の官等を廃止した際に陛叙基準の規定も失われたため俸給の増加に伴い自然と等級が進むことになるが、これが望ましくないことと認識された。
1892年(明治25年)11月12日に高等官官等俸給令(明治25年勅令第96号)で再び官等を定めて、従前の高等官任命及俸給令(明治24年勅令第82号)及び文武高等官官職等級表(明治24年勅令第215号)を廃止した。
「親任式を以って任ずる官」を除き他の高等官を9等に分けて三等官から九等官までを奏任官とし、奏任官の任官及び昇叙は内閣総理大臣がこれを奏薦し各省及び各省所属の官庁に属するものは内閣総理大臣を経由して主任大臣がこれを奏薦するとし、奏任官の辞令書は内閣の印を押し内閣総理大臣が宣行するとした。
官等と俸給とはその基準は必ずしも同じではないことから、高等官官等俸給令(明治25年勅令第96号)では官等・俸給は各自その当然の基準によって発達させることを目的として、俸給に於いては明治24年の制度を受け継ぎ官等に於いては明治24年の改革以前の官制を基準にした。 初めて奏任文官に任ぜられた者の官等は六等以下とした。
これに伴い、文武官叙位進階内則を改定して官等を叙位の規準とし、三等官の初叙は従五位相当とし、四等官の初叙は正六位相当とし、五等官の初叙は従六位相当とし、六等官の初叙は正七位相当とし、七等官の初叙は従七位相当とし、八等官の初叙は正八位相当とし、九等官の初叙は従八位相当とし、相当位より昇叙2階を極位とした。
叙勲内則を改定して官等を叙勲の規準とし、奏任官の初叙は勲六等とし、陸海軍大佐並びに相当官・高等官三等、中佐並びに相当官・高等官四等は勲三等まで進級するとし、少佐並びに相当官・高等官五等、大尉並びに相当官・高等官六等は勲四等まで進級するとし、中尉並びに相当官・高等官七等、少尉並びに相当官・高等官八等は勲五等まで進級するとし、高等官九等は勲六等に止まるとした。
1893年(明治26年)に各省官制通則を全部改定し、各省大臣は所部の官吏を統督し奏任官の採用・離職は内閣総理大臣を経てこれを上奏するとし、地方官庁奏任官の採用・離職は内閣総理大臣を経て内務大臣がこれを上奏し、ただし収税長の採用・離職は内閣総理大臣を経て大蔵大臣がこれを上奏するとした。局次長の規定は無くなった。
同年に文官任用令(明治26年10月31日勅令第183号)で奏任文官の任用資格を定め、文官試補及見習規程(明治26年10月31日勅令第186号)により奏任文官に任用することができる資格を有する者は試補として各庁の事務を練習させることができるとし、試補は奏任官の待遇とするがただし俸給は支給しないとした。
1898年(明治31年)10月22日に各省官制通則を改定し従前は各局の局長は勅任または奏任としていたところ、各局局長は勅任と定めて奏任の局長をやめた。
1900年(明治33年)に文武官叙位進階内則を改定し、三等官の初叙は従五位、極位は正四位とし、四等官の初叙は正六位、極位は従四位とし、五等官の初叙は従六位、極位は正五位とし、六等官の初叙は正七位、極位は従五位とし、七等官の初叙は従七位、極位は正六位とし、八等官・九等官とも初叙は正八位、極位は従六位とした 。
1910年(明治43年)に文官試補及見習ニ関スル件(明治43年6月20日勅令第275号)を定め、奏任文官に任用することができる資格を有する者は試補として各庁に属させてその庁又は他の官庁において事務を練習させることができるとし、試補は奏任官の待遇として、試補の任免・奏薦及び宣行は奏任官の例によるとし、試補には1年600円以内の俸給を給することができるとした。
1920年(大正9年)に各省官制通則を改正し、従前は大臣官房及び局の中の各課に置く課長は奏任官または判任官を以てこれに充てるとしていたところ、大臣官房及び局の中の各課に置く課長は高等官を以てこれに充てるとした。
1945年(昭和20年)の敗戦の後、1946年(昭和21年)4月1日に官吏任用叙級令(昭和21年勅令第190号)を公布・施行したときに、高等官官等俸給令の廃止等が行われ「奏任官」を「二級官吏」に改めた。
文官は採用形態や勤続期間、職務により分類は多岐に亘る。判任官から昇進する者もいれば、高等文官試験に合格して採用されたキャリア組もいた。技官では、奏任官は技師と呼ばれており、主に判任官である技手から昇任した者、帝国大学を卒業したものが任じられた。
文官の場合、どの官名が高等官何等に相当するかといった基準は高等官官等俸給令で一定の範囲を定めた上で条件によりさらに陛叙できるとする規定を設けていたり、個別の勅令で規定しているものがあり全体像を把握しづらい。そのため、軍人のように官等と官名を完全に対応させることは難しいが、明治から戦中までの官記(任命書)などから調べると、各等級に相当する役職は大まかには以下のようになる(ただし、奏任官二等の事務官や技師、勅任官の府県部長が存在するなど、以下に当てはまらない事例も少なからずあるため、注意が必要である)。
高等官官等俸給令(明治43年3月28日勅令第134号)に於いて規定されている高等官三等から九等までの奏任文官の官等には次のよう例がある。
武官は大佐から少尉までの士官に相当した。それぞれ階級ごとに、
に相当するものとされた。少尉に任官する者は、概ね次の者であった(公務中の死亡による昇進を除く)。
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