阪神タイガース(はんしんタイガース、英: Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場。
運営法人は株式会社阪神タイガース。親会社は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングスの子会社)。
略称は「阪神」、愛称は「タイガース」。「虎」「猛虎」と呼ばれることもある。日本に現存するプロ野球12球団の中では読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長く、1936年のプロ野球リーグ戦開始時からの球団の1つである。
創設直後の1ヶ月と太平洋戦争前後の約5年半を除いて、1961年3月まで大阪タイガースと称していた。フランチャイズ制度が導入された1952年から兵庫県を保護地域とし、二軍が1954年から阪神ジャガーズ、1957年から阪神タイガースと称していたこともあり、1961年4月に阪神タイガースと改称した。
球団の歴史においてリーグ優勝10回(1リーグ時代を含む)、日本一は2回と多くはないが、セ・リーグ創設(1950年)以降の通算勝率はリーグ2位であり、1987年から2001年にかけて経験した15シーズン中最下位10回という暗黒時代を除けば、安定してAクラス入りしており、特に暗黒時代を脱して以降は定期的に優勝争いに絡んでいる。
なお、本記事では前身球団時代についても述べる。
永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切ない。ただし参考記録として準完全試合の記録がある。田宮謙次郎が1950年3月16日に国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全(田宮はこの試合が投手としての最後の勝利)小山正明が1956年6月6日に大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた試合であった。
1947年に沢村栄治賞が制定後、阪神では合計6人が受賞。中でも村山実が史上3人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている。阪神の投手で複数回受賞しているのも村山のみである(他球団での受賞も合わせると小林繁が巨人時代に1回、阪神時代に1回で複数回受賞を達成している)。また、ジーン・バッキーが外国人投手として史上初の受賞をしている。歴代の阪神選手の受賞者で生え抜き選手では無いのは小林のみである。
2023年シーズン終了時点で達成者はいない。
阪神での三冠王の達成者は1人。ランディ・バースがが外国人打者として史上3人目の三冠王および外国人打者史上2人目の複数回達成している。
阪神の投手で最優秀選手を複数回受賞しているのは1人。また、若林忠志は日本人投手史上初の複数回受賞者でもある。
2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。
球団設立当初から、親会社が所有する阪神甲子園球場を使用しており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である(ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった)。1948年のフランチャイズ制仮導入以来一貫して専用球場としており、専用球場を変更していないのは、阪神のほかには2005年から新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスだけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪神甲子園球場以外に後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで開催していた。
阪神甲子園球場は元々高校野球開催のため、またそれ以外にも多目的にスポーツ行事で使用されることを前提に造られた球場であるため、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が最優先される。特に後者の大会の開催期間は2週間以上にわたるため、この時期の1ヶ月程度にも及ぶ長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、昔と比べて交通機関の発達で移動時間が短くなったことや宿泊施設のグレードが上がったこと、特に1990年代以降は長期遠征中でも比較的甲子園に近い空調完備の大阪ドームでも試合が組まれているため、それも死語になりつつある。ただ、大阪ドームはオリックス・バファローズの本拠地でもあるためオリックスに優先権があり、セ・パ両リーグ同時開幕を原則としている現状では、Aクラスを確保してもオリックスも同じく本拠地開幕権を有している年度では阪神が本拠地開幕権を放棄してビジターで開幕を迎えたケースも度々発生している(詳細は後述)。
二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場(神戸市)を、1979年から1994年までは阪神浜田球場(尼崎市)を使っていたが、1995年からは阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は同じ西宮市内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。なお、2025年から二軍の本拠地は日鉄鋼板SGLスタジアム尼崎(尼崎市)に移転する予定である。
実数発表となった2005年以降、2010年までは2008年を除き毎年公式戦での年間観客動員数は300万人以上を動員し続けてきたが、2011年以降は300万人に達しておらず、概ね260万 - 280万人台で推移している。ただ、2017年は最終的に2位となるなど好調な成績であったため、10月10日の公式戦最終戦で3万人の観客を集めて7年ぶりに年間観客動員数が300万人を超えた。なお、現在は甲子園でもグループ席の設置や座席間隔を広げるなどしたため座席数を以前と比べて大きく減らしたこともあり、300万人を超えることはなくなった。それでも、38年ぶりの日本一を達成した2023年でも主催71試合(大阪ドーム8試合、倉敷マスカットスタジアム1試合も含む)で291万5528人(1試合平均41,064人)を動員しており、12球団トップであった。
主に近畿地方を中心に、西日本で開催されることが特徴である。
年間試合数が144試合制であった2014年までのうち、2013年までは主催試合72試合のうち本拠地の阪神甲子園球場で60試合・事実上の準本拠地である大阪ドーム(京セラドーム大阪)を含む地方開催で12試合が組まれていた。なお、阪神としては大阪ドームは地方球場の扱いとなっている。この地方開催の内訳については、例年大阪ドームでの3カード・8 - 9試合と、倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合が必ず開催されてきたが、新型コロナウイルス感染症蔓延の影響もあり、倉敷マスカットスタジアムでは2020年から2022年まで組まれなかった(2023年より再開)。他に、かつてはほっともっとフィールド神戸を含むそれ以外の地方球場でも毎年2 - 3試合が開催されていたが、2014年は大阪ドームでの3カード・9試合と倉敷マスカットスタジアム1試合の計10試合のみとなり、2019年までこれが続いた。他球団が地方開催を減らす中で、年間試合数が143試合制となった2015年以降も2014年と同様、主催71ないし72試合のうち地方開催を9ないし10試合行っており、現状では試合数ベースでは阪神がセ・リーグで最も地方開催を行っている。但し、その内訳はほぼ大阪ドームのみであるため、開催する球場数ベースで言えば巨人が最も多い。
かつては京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合はない。それ以外では、1999年には香川県営野球場で、2005年・2006年・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行った。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。この他、2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。
大阪ドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の大阪近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、大阪ドームを準本拠地として使うことが認められていた。現在は甲子園での春・夏の高校野球の開催期間中における、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と、夏季の長期ロード中に当たる8月の2カード・5 - 6試合の計8 - 9試合の開催が基本である。原則ナイターで行われる(週末の開催であればデーゲームとすることもある)。夏季の長期ロード中は、基本的にビジターで2 - 3カードこなしてから大阪ドームで1カード、そして再びビジターで1 - 2カードをこなしてから大阪ドームで1カード、というパターンのほかに、年度によっては旧盆(8月15日前後)の1週間に大阪ドームで2カード・5 - 6試合を連続して開催する場合もある。
かつては梅雨時などにも行われたこともあった。交流戦を開始した2005年以後は原則として梅雨時の開催は行っていないが、2009年は例外で交流戦2試合を開催した。また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが大阪ドームで開催されている。2011年は東日本大震災による日程延期によって当初予定されていた4月上旬の大阪ドームでの対中日3連戦と甲子園での対ヤクルト3連戦が開催できなかったため、その日程の補填として10月に対ヤクルト3連戦が大阪ドームで行われた。
ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合(甲子園が改修工事で使用不可のため)を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した。ただ、2013年以降は開催がなく、同球場からは再び撤退している。
夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より大阪ドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。特に、1980年から1987年までは、甲子園が高校野球で使用できない期間、関西地方ではほかの球団(阪急=西宮球場、南海=大阪球場、近鉄=日生球場・藤井寺球場)の本拠地はその球団の試合に日程が抑えられており、使用許可が下りなかったのと、それ以外の球場もナイター設備や施設スペックなどの問題で開催することが事実上難しかったため、この間2試合を平和台球場で主催しながら、ほぼ3週間関西を離れざるを得なくなる「死のロード」という状態になっていた。
また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪スタヂアム(大阪球場)でナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。
前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(要するに2年前。2021年と2022年は前々々年、2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高等学校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、甲子園では高校野球の開催が優先されるため、セ・リーグの開幕がこの時期に被ると甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。これにより阪神は21世紀になってからは通常の公式戦日程で本拠地での公式戦開幕を12球団では唯一行っていない。
選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行った年は1956年、1964年の2回であり、逆に選抜終了後に開幕戦を甲子園で行った年は1952年、1959年、1961年、1963年、1969年、1973年、1983年、1987年、1993年、2011年の10回である。このうち、2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった。
かつては選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたケースもあったが、2007年のクライマックスシリーズ導入後は日程面から開幕は例年3月下旬となっており選抜終了後に開幕する日程は設定されておらず、今後も選抜終了後に設定される可能性は少ない。なお、当年の開幕権を持ちながら甲子園で開催できない場合の対処として、以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降。大阪ドームでの開幕は除く)。
大阪ドームの完成後は、大阪ドームを本拠地とするパシフィック・リーグ球団が当年の本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになった。大阪ドームでの主催ゲームで開幕を迎えたのは、以下の年次が該当する。
なお、2010年と2017年、2024年は大阪ドームを本拠地とするオリックスも当年の開幕権を持っていたため、セ・パ両リーグで折衝した結果、2010年はパ・リーグが変則日程とし、2017年と2024年は阪神が開幕権を返上することで決着した。
プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜大会も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また前々々年(2003年から2019年は前々年)にBクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場での開催に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。
以下のほか、阪神甲子園球場、阪神鳴尾浜球場でもキャンプを行っている。
プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームは世界的にも極めて少ない。また、ユニフォームや球団シンボル・ロゴなどのデザインについても球団創設時より大幅な変更が為されないまま現在に受け継がれている(デザインの項を参照)。
幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。
また、1985年の日本一においては日本シリーズMVPを獲得したのはランディ・バースであり、セ・パ12球団では唯一日本人選手の日本シリーズMVP獲得者がいない球団でもあったが、2023年のMVPが近本光司になったため、この記録も途切れることになった。
なお、本塁打王も阪神からは1986年のバースを最後に出ておらず、2023年に千葉ロッテのグレゴリー・ポランコが本塁打王を獲得したことにより現存12球団でワースト、また2004年に消滅した大阪近鉄バファローズを含めた13球団でも唯一21世紀に本塁打王を輩出していない球団となっている。
1972年(昭和47年)3月12日にOB会が組織され、以降松木謙治郎、藤村富美男、梶岡忠義、田宮謙次郎、安藤統男、田淵幸一、川藤幸三が歴代会長を務めている。
大阪野球倶楽部創設の中心人物だった阪神電鉄取締役支配人の細野躋が社内から懸賞付きでチームの愛称を募集。その結果、1936年1月10日に「タイガース」と発表された。「タイガース」は応募中最多でもあったが、代表して運動課の松原三郎が金一封を受け取った。1935年のワールドシリーズ優勝チームであるデトロイト・タイガースを参考にしたとされているが、日本職業野球連盟関西支局長だった小島善平によると、1931年に竣工した大阪城天守閣の虎のレリーフに由来するとされている。
デトロイトと大阪市が工業都市つながりといった説も見られるが確証はない。都市のつながりで言えば、当時から第2の都市つながりだったシカゴと大阪市には先物取引や水運が発達した街という共通点もあり、1973年に姉妹都市提携を結んでいる。その数年後にそれぞれロサンゼルスと横浜市に抜かれて第3の都市になった点まで共通している。なお、1935年のワールドシリーズはデトロイト・タイガース(ア・リーグ)対シカゴ・カブス(ナ・リーグ)だった。
その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えず「阪神軍」を称していた時期を除き、一貫して使われてきた。因みに、「タイガーズ」との表記の方が「tigers」の本来の発音により近いが、この「タイガース」は日本語の固有名詞であるため「タイガーズ」とするのは誤りとなる。
「阪神」は、大阪市と神戸市を結ぶインターアーバンを営む親会社の略称であるとともに、両市および両市に挟まれた「阪神間」のダブル・ミーニングでもある。設立当初は、球団事務所を大阪市に置いたことから「大阪タイガース」という球団名であったが、球団事務所を阪神間に所在する甲子園球場内に移転したことに前後して1961年4月1日より「阪神タイガース」と改称した。ただし、改称以前から略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた他、1950年に創設した二軍チームが1954年の新日本リーグ加入に際してチーム名を独自に「阪神ジャガーズ(はんしんジャガーズ、Hanshin Jaguars)」としており、ウエスタン・リーグ加入後の1957年からは一軍に先んじて「阪神タイガース」を正式名称としていた。
略称について、英字での略称は「T」、漢字の場合は「神」が用いられる。本来の頭文字「阪」が用いられないのは、同じく頭文字が「阪」となる阪急ブレーブスとの重複を避けるためであったが(阪急は「急」としていた)、阪急が球団を手放し球団名を改めた後も慣例的に「神」が継続されている。
虫明亜呂無はタイガース創設は中等野球の甲子園大会の影響があると論じ、「昭和の初めから甲子園の中等野球が阪神地帯を中心に盛んになっていったのは、山陽・四国・九州地方の出身者が、阪神地帯で商店の丁稚や中小工場の工員などで働いていたとき、たまたま8月のお盆休みに、甲子園球場に来て、故郷の学校の活躍を見て、激しい応援を送ったからである。自分と小学校で同窓だった者が、あるいは隣村の誰それが野球の選手として甲子園に来ているという親近感が甲子園の野球を支えた。甲子園の野球は望郷と流浪の野球に他ならない。『いつの日か 故郷に帰らん 流離の泪』が甲子園野球の花である。野球が故郷を離れた者同士を堅く連帯させた。観客の想いはひたすら故郷に向かった。こうした人たちの関心は、当然、中等野球出身選手を中心とした職業野球『阪神タイガース』に向けられた。この意味では、阪神が阪神地区の庶民に果たした役割は、戦前は圧倒的に六大学野球が人気の中心だった東京地区で巨人が果たした役割に比較すると雲泥の差があった」等と論じている。
阪神タイガースは、現在セ・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり、関西圏において圧倒的な人気を誇る。スポーツ新聞各紙の関西版では専らタイガース関連の記事が1面を飾り、1面以外のページに至るまで大きく扱われることも多く、在阪局制作のテレビ・ラジオ番組では、情報番組内でのスポーツコーナーはタイガースについての情報が多くを占め、プロ野球中継でもタイガース応援色を打ち出している(ABCの「虎バン主義。」、MBSの「with Tigers」など)。1985年10月16日に関西テレビが中継した、阪神が21年ぶりの優勝を決めた対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)は関西地区で視聴率56.7%を記録(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率記録である。しかし、その人気は始めから不動のものという訳ではなかった。
球団歌の正式名称は「阪神タイガースの歌」であるが、歌詞の冒頭をとって「六甲おろし」の愛称で親しまれている。1936年に「大阪タイガースの歌」の表題で発表され、1961年の球団名変更とともに改題された。
1936年3月25日に甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)で開催された球団結成披露宴で初披露された。現存するNPB12球団の球団歌においては最古の楽曲である。
タイガースは、デザインに関して歴史的に一貫したスタイルを持っている球団であり、球団旗に始まり各種ロゴやマーク、ユニフォームに至るまで、球団創設当初にデザインされた基本型を現在も守り続けている。プロスポーツチームがデザインについてこのような一貫性を保持していることは珍しく、特に日本球界ではタイガースのみである。これらのデザインを手掛けたのは当時阪神電気鉄道の宣伝課デザイン室に勤務していた企業内デザイナー・早川源一(1906年 - 1976年)。阪神球団には、本人の手によるものと思われるデザインの原画が数点残っている。
イタリック体を模した「Tigers」ロゴは、球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれており、1960年に書体の細部が調整されたのみで創設以来一貫して変更せずに使用されている。
この「Tigers」ロゴは、ローマン体を模した「HANSHIN」ロゴと合わせて使用されることも多い。1962年6月15日に商標登録されており、1982年にはさらに調整が加えられた上で登録されている。
また、英字ロゴの様式を踏襲した明朝体風の「阪神タイガース」ロゴも使用されており、これについても1983年に登録されている。
シンボルマーク(ペットマーク)は、右を向いて咆哮する虎をやや下から見上げた構図で描いた似顔絵で、通称「虎マーク」と呼ばれる。球団創設時より変わらず使用されていることから、日本球界を代表するペットマークとされる。なお、ユニフォームの左袖にあしらわれている虎マークは顔が左向きとなっている。
チーム創設メンバー・若林忠志のマッキンレー・ハイスクールでの同窓生・保科進が同校のマスコットをもとに描いた原画が若林を通して早川に渡り、その後早川の手によって仕上げられマークが完成したとされる。具体的な誕生時期については詳細不明だが、1936年のシーズン前に公開された球団創設記念ポスターや、1936年3月25日の球団結成披露宴での球団歌披露に際して配布された歌詞カードに虎マークがデザインされていた。1970年代後半頃に目の形や毛並み表現など細部が整えられている。
これ以外にも、「Hanshin Tigers」の頭文字をとり「T」の縦棒と「H」の横棒が交差するように重ね合わせてデザインされた「HTマーク」も存在する。このマークは1961年の球団名改称に際して帽子マークとして取り入れられたものだが、その後シンボルマークや簡易的なエンブレムとしても使用されている。このマークについても、何度かに渡って細部が変更されている。
1980年代前半頃から、虎マークが入った赤円を黒の輪で囲み、輪の上部にアーチ状で「HANSHIN」、下部に逆アーチ状で「Tigers」の白字ロゴを入れたマーク(通称・丸虎マーク)が使用されており、グッズや各メディアなど様々な場面においてエンブレム、プライマリーマークなどとして使われている。
球団旗は、黒と黄の横ストライプ柄(上から、黒四本・黄3本を交互に構成)をベースに、左上角に虎マークが入った赤円、一番下の黄ラインの右寄部に黒字で「HANSHIN Tigers」のロゴがそれぞれ配されている。虎マークのデザイン、ロゴの有無など時期によって細部がわずかに異なるものの、虎マークに黒と黄の横ストライプ柄という基本デザインは球団創設時より一度も変更されていない。
タイガースのユニフォームは、球団創設当初から現在に至るまでピンストライプに左袖の虎マーク・「Tigers」ロゴというデザインパターンが採用されている。
ユニフォームの最大の特徴であるピンストライプは虎のイメージから「縦縞(タテジマ)」とも呼ばれる。メディアなどにおいて「縦縞に袖を通す(タイガースに入団することを意味する)」などといった慣用表現も見られるなど、「縦縞のユニフォーム」はタイガースの代名詞となっている。
創設当初は薄いグレー色のピンストライプであったが、マイナーチェンジを経て徐々に色は濃く、線も太いものとなり、現在では一般的なピンストライプとは一線を画す「縦縞」としてのデザインが確立されている。
なお、縦縞のデザインを採用した理由は諸説あるが、1930年代当時のデトロイト・タイガースのユニフォームデザインを参考にしたとする説が有力とされる。
2005年、セ・パ交流戦が新たに開催されるにあたり期間中に着用する専用ユニフォームが作成された。これは、2005年が球団創立70周年という記念年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで『週刊ベースボール』で連載していたコラム「ユニフォーム物語」にて歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。これを機として、復刻ユニフォーム企画は他球団へも波及していった。2012年以降、交流戦専用ユニフォームの企画は行われていないものの、限定・専用ユニフォーム企画はその他様々なイベントに継承されている。
なお、選手が着用した専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。
2010年、2012年にセントラル・リーグ主催で行われた期間限定プロジェクト。セ・リーグ6球団がそれぞれ歴代のユニフォームの中から選んだものを復刻ユニフォームとして着用した。
2013年より、夏イベントとして開催。2022年時点でも毎年恒例といわれるほどの人気を持つ。毎年「ウル虎の夏(西暦)」と銘打たれ、期間中の阪神主催試合では期間限定ユニフォームが使用される。また、イベント開始前にユニフォームのお披露目としてゴールデンウィーク期間にも着用する。
2016年から始まった阪神・巨人による相互展開プロジェクト。詳細は「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」の項を参照。
2020年から始動した「ファンともっと!プロジェクト!」の一環として、2022年より開始。
球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。
公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:「六甲おろし」「六甲颪」)のみであるが、その他に球団応援歌も多数ある。
タイガースの中心選手にファンが与える称号である。本来は藤村富美男に対する呼称であったが、藤村の引退後に村山実、田淵幸一、掛布雅之らが後継者として同様の称号で呼ばれた。
タイガース打線の代名詞。タイガースの打線が特に強力である場合にメディア上などで使用される。過去に1940年代後半、1985年、2003年頃、2010年にダイナマイト打線が形成された。
1985年4月17日の対巨人戦(甲子園)において、タイガースのクリーンナップ(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布)が3者連続でバックスクリーン方向へ本塁打を打った出来事。「伝説の - 」と呼ばれることもあり、タイガース史上のみならず日本プロ野球史上に残る名シーンとして取り扱われる。
「代打の切り札」として試合展開を左右する局面で勝負強さを発揮するタイガースの選手は、ファンの間やメディア上などにおいて「代打の神様」と表現されることがある。
1990年代中頃より代打の切り札として活躍し1997年には代打成功率4割超を記録するなどした八木裕が「代打の神様」と呼ばれたことに始まり。その後、桧山進次郎、関本賢太郎、狩野恵輔など代打の切り札に定着した選手に「代打の神様」の称号が受け継がれている。
なお、八木の活躍以前にも、複数年にわたり代打として活躍した選手は複数存在しており、遠井吾郎、川藤幸三、真弓明信などが挙げられる。
NPBにおいて長い歴史を持つ2球団であり、東西の人気球団でもあることから、主にメディアなどでは、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。阪神と巨人が優勝争いを展開するシーズンも多く、特に阪神にとってライバル意識の高いカードで、2021年5月15日の東京ドームでの試合が通算2000試合目の直接対決となった。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。
上記以外にも巨人戦にて阪神にとって印象的な場面が多く生まれている。主なものとして以下が挙げられる。
1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。
こうした一連の経緯から、他球団では投手の着用例が少ない「1」以外の一桁の背番号を投手が着用した例や、その逆に、エースナンバーとして扱われることが多く、投手以外の着用例が少ない「18」などを野手が着用する例が散見されていた。
村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。
11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度徴集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更。3代目の御園生崇男(1950年)は15から変更したが、前年より優れなかった体調がさらに悪化したため翌年15に戻している。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。
このような背景から、11番の歴任者でかつ村山の大学の先輩にあたる御園生は「(御園生自身がつけていた)背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけたという。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。
1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間がわずか55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。
逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では現在でも日本プロ野球史上最長である6時間26分という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕が放った打球がスタンドに入ったため一旦は本塁打と判定され阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、実際の打球はレフトフェンス最上部の水平ラバー部に当たったあと、バウンドしてその上の金網フェンスへと当たり、さらに半円を描くような軌道で上に上がったあとスタンドインしたものだった。ヤクルト側からの抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正されたが、阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。試合は結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えてしのいだというエピソードも残っている。
2018年9月20日に行われた、対広島21回戦(マツダスタジアム、5-4で勝利)では、試合終了が翌21日の深夜0時3分であった。過去、二日がかりの試合としては、上記のプロ野球史上最長試合も含めて13度あったが、いずれも延長戦にもつれたものであり、9回で決着がついた試合としては史上最も遅い試合終了時刻となった。当日は試合開始前から雨模様で、試合開始が1時間9分遅れの19時9分となっただけでなく、2回裏終了時に雨脚が強くなり1時間2分中断し、さらに5回裏終了後も同様に12分中断したことで、試合時間としては中断時間も含めて4時間54分であったが、試合終了時点では日付が変わっていた。中止ないしノーゲームにしてもおかしくない状況であったが、当年の阪神タイガースは前半から中盤にかけて中止が相次ぎ試合消化のペースが例年より遅く、これ以上の中止は全日程消化させる上で更なるスケジュールのタイト化が懸念されたため、強行したという事情がある。なお、当年のセ・リーグは8月28日から「連盟管理節」に入っており、試合挙行の可否や試合開始の時刻の変更などを、セ・リーグ統括または当該試合の球審が代行することになっていた。
偵察メンバーを多用した監督としては三原脩が有名だが、プロ野球で初めて考案したのは藤村富美男で、助監督兼内野手だった藤村の助言を受け松木謙治郎監督が初めて試合で使用した。1950年4月22日に熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発が左腕の清水秀雄か右腕の服部受弘か迷ったため、1番左翼手を投手の干場一夫とした。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7 - 9で敗れた。
1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。
2002年2月、阪神タイガースや阪神電鉄とは無関係の千葉県の個人が「阪神優勝」を商標登録し、そのロゴが描かれたTシャツなどのグッズを販売していたことが、当時18年ぶりの優勝を目指して快進撃を続けていた2003年に話題となった。商標を出願した個人は「『阪神タイガースの優勝』ではなく『阪神地区の優勝』の意味」などと釈明したが、グッズのロゴは黄色と黒のストライプが描かれているなど阪神タイガースを連想させるものであり、阪神タイガースとしては「球団公認のグッズと誤解される恐れがあり商標権の侵害に当たる」と判断、その個人とは商標権の譲渡とグッズの販売中止を求めて交渉を行うも決裂した。のち球団側は特許庁に商標登録無効の審判を請求し、特許庁もこれを認め商標無効の審決が下されたため、「阪神優勝」グッズの販売は差し止められた。
2005年の日本シリーズでセ・リーグ優勝の阪神は、パ・リーグ優勝チームのロッテと対戦したが、ロッテに4連敗を喫して敗れた。しかも各試合のスコアが「10-1」「10-0」「10-1」「3-2」と第4戦以外は大敗しており、4試合のスコアが合計33-4と大差がついてしまったことから、それ以降、「33と4」という数字の組み合わせや334という数字の並びが、阪神ファンにとっては一種のトラウマとして、他の野球ファンにはインターネットスラングのような形で定着している。阪神とは関係がない試合であっても大差がつきそうな場面で茶化すような形で話題に出たり、野球以外を含めてその数字自体が登場すると一部の野球ファンが過剰に反応してネット上などで話題となることがある。一例としては阪神が18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした2023年9月14日は岡田彰布が監督就任(復帰)してから334日目であったことが話題になってSNSでトレンド入りした。
村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、さらに牧田俊洋球団社長(当時)も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。
2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。
経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングスとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。
この他、かつては株主優待として、阪神電鉄の株式を9月30日時点で5,000株以上保有する株主に対して、翌年度の阪神甲子園球場でのタイガース主催試合のうち1試合2名を内野席(アイビーシート)に無料招待していたが、経営統合による阪神電鉄の上場廃止でこの無料招待も廃止された。なお、現在は阪急阪神ホールディングスの株主に対し、半年ごとに甲子園歴史館の招待券(無料入場券)を贈呈している。
2020年、新型コロナウイルスの世界的流行により、日本政府からの緊急事態宣言が4-5月にかけて発出され、プロ野球もシーズンの開幕が延期となるなど大きな打撃を受ける。そんな中、3月26日にプロ野球界初の新型コロナウイルス感染者として藤浪晋太郎の陽性が判明し、翌日にもさらに2選手の感染が判明。彼らの感染経路は不明ながら、感染が確認されなかった他の4選手とともに球団外の人物らと不特定多数で大阪市内の知人宅で会食しており、同席していた20代女性2人も感染したことから、来たるべき開幕に向けて感染対策の徹底を図りたい球界関係者のみならず、日本国民全体が外出の自粛や「三密」回避など多くの制約を求められる社会情勢の中での軽率な行動に多くの批判が集まった。球団は一時活動停止となり、感染した選手が対中日2軍戦に出場していたナゴヤ球場は消毒を行うなど他球団にも影響が波及する事態となった。
また、9月25日に2軍にて浜地真澄の感染が確認され、直後のPCR検査でキャプテンの糸原健斗ら1軍4選手とスタッフ2人の感染が判明。同日、感染した4選手と保健所から濃厚接触者として認定された2選手、球団独自の濃厚接触者扱いとなった4選手の計10選手が出場選手登録を外れ、2軍から緊急昇格した9選手と合わせて19選手が出場選手登録を入れ替わる事態となり、同日開催予定だった2軍の対中日戦は中止となった。10選手や浜地らの行動経路から、同月19日に名古屋にて糸原やチーム最年長の福留孝介らによる8人での会食と、同日に別の場所で浜地ら中継ぎ投手4人による会食をそれぞれ行なっていたことが発覚した。感染対策として遠征時の外食を全面的に禁止としている球団もある中、阪神は選手の息抜きの必要性を考慮して名古屋、広島での遠征時に設けた指定日に限り「4人まで」「同ポジションは極力控える」などの条件付きで外食を許可していたが、彼らの行動はこの内規に反していたことから多くの批判が集まった。球団も10月11日に該当の選手らに制裁金を課す処分を発表した。
これらに関し、2度にわたり選手らの不用意な行動から感染者を出してしまった球団もその管理体制の甘さを問われるところとなり、阪急阪神ホールディングスの角和夫代表取締役会長グループCEOも10月7日のサンケイスポーツなどの取材に対して「球団の管理責任と、けじめが必要」と進退問題を示唆する発言をした。
一連の流れを対し、10月9日に揚塩健治球団社長が「混乱を招いた最終的な責任は私にあります」として、同年シーズン限りで辞任することを発表。そのうえで、以後は遠征先での外食を一切禁止にするなどの感染防止対策を徹底する考えを示した。
詳しくは「カーネル・サンダースの呪い」を参照
2017年のゴールデンウィーク期間中(5月5-7日)の対広島戦で開催されたイベント「タイガースゴールデンウィークこどもまつり」にて当日の出場選手名がひらがなで表示された。これは、5月5日がこどもの日であることから、観戦に訪れたファンの子供らが、少しでも選手たちを覚えやすく、また言葉としても発しやすくしたいということでの施策で、ビジター球団の選手や審判団を含めて実施された。これ以降も毎年ゴールデンウィーク期間中の特定の主催試合3連戦を対象に実施されており、2022年からは7月に開催される「夏休みこどもまつり」でも同様に選手名のひらがな表示が実施されている。この阪神の取り組みがきっかけとなり、他球団でもゴールデンウィークなどで同様にスコアボードのひらがな表記を実施する例が増えている
なお、ひらがな表示の際の甲子園での選手名表記は、外国人選手(韓国・中国・台湾人選手を除く)と日本人であってもカタカナの登録名の選手はカタカナ表記のまま(ただし、2022年の夏休みこどもまつりのみ外国人もひらがな表記された)。また同姓の選手が複数いる場合、例えば佐藤輝明は「さとうて」というように、姓に加えてひらがな一文字を加える形で表記されている。
2023年に15年ぶりに監督に復帰した岡田彰布は、2022年10月の就任会見で「『優勝します』とかよう言わないですけど、ずっと優勝は『アレ』しか僕は言ってなかったんで。はっきり『優勝します』とかよう言わないですけど、シーズン終わる頃には楽しみにしてもらったら僕はいいと思いますね」と発言し、以降も敢えて「優勝」という言葉の明言を避けて「アレ」という指示語に言い換える言い回しを多用した。それに倣い、選手もインタビューにて「アレ」を使用するなど浸透を見せ、2023年のチームスローガンは「アレ」に掛けた「A.R.E. (Aim! Respect! Empower!)」(読みは「エー・アール・イー」)となった。2005年以降、優勝争いを展開しながらも勝負弱さが目立って僅差で優勝を逃すシーズンが続いていたこともあって、過度に優勝を意識しすぎない効果を図ったこの表現はファンからも支持を集め、シーズン終盤に阪神が首位を快走しリーグ優勝が近づくと、在阪メディアを中心としたマスコミでも大きく取り上げられ、さらなる広がりを見せた。そのまま18年ぶりのリーグ優勝、さらに38年ぶりに日本一を達成したこともあって大きな話題となり、12月1日には「アレ(A.R.E.)」として2023年の新語・流行語大賞の大賞を受賞。岡田は流行語大賞を受賞した壇上で「アレ」である理由について「『コレ』はすぐ手が届く。『アチラ』は遠い。『アレ』はもう少しでたどりつく」と解説し、就任前は2、3位が多かった阪神にとって「ちょうどいい」とした。なお、「A.R.E」に続く各単語は英語に堪能な岡田の妻が考案している。
球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる。
2013年、上新電機株式会社とミズノ株式会社の2社が球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結され、その後2014年度からは株式会社ローソン、2018年度からはアサヒビール株式会社、2021年にはauじぶん銀行株式会社がそれぞれ加入している
セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告の掲載を解禁している。なお、2002年に掲出していたあしなが育英会のマークは、スポンサー契約等によるものではなく球団がボランティアで掲出していたものである。
カンザイとは、HUNTER×HUNTERの登場人物で「十二支ん」のメンバーの一人。作者の冨樫義博は、熱狂的な阪神ファンとして有名であり、2003年の阪神優勝後に刊行された第196話・キメラアント編の扉絵には「祝・阪神タイガース優勝おめでとう!!」という冨樫のコメントが添えられた上で、阪神の本拠地ユニフォームを着たゴンやキルアが描かれていた。なおカンザイは、スパイクや阪神のユニフォームに似た縦縞の衣装を身に着けており、十二支の「寅」を代表する人物である。またカンザイは「関西(かんさい)」を連想させるネーミングであること、そして前述した作者の嗜好も加味すれば、カンザイが阪神タイガースをモチーフにした人物であることが推定される。
エレブーズとは、アニメ「ポケットモンスター金銀編」に登場する架空の野球チーム。チームカラーは黄色と黒で、ユニフォームは縦縞である。ポケモン金銀の舞台はジョウト地方と呼ばれており、その地理は現実世界の関西地方を模したもの。エレブーズが本拠地とするのは大阪の位置に相当するコガネシティで、六甲おろしをモデルにしたと思われる「スリバチやまの、風に乗り〜」に始まる応援歌も存在する。なお、この球団に関連して登場するのが関西弁のナナコという人物で、メガホン片手にエレブーズを応援する熱烈なファンである。主人公のサトシと初めて出会った際、サトシに「エレブーズって万年最下位のチームじゃん」とバカにされたことに腹を立て、サトシにバトルを挑むも経験の差と手持ちポケモンのレベルの差で完敗。放映時(1999年)は阪神の暗黒時代であったため、当時の阪神の状況を作中に反映したのだろう。その後のエピソード(2002年)でサトシと再会した際には「熱血監督77が就任したから優勝間違いなしや!」と宣言した。恐らく星野仙一の監督就任を指しているのだが、この宣言通りに阪神は翌年リーグ優勝を果たすことになる。
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