アルノルド・ヴィオン(Arnold Wion または Wyon, 1554年5月15日 - 1610年頃)は、フランス出身のベネディクト会修道士。同会に関する歴史をまとめた最初の人物であるが、むしろ現在では、いわゆる『聖マラキの預言』を最初に公刊した人物として知られる。なお、名前はしばしばアルノルド・ド・ヴィオン(Arnold de Wion)とも綴られる。ほかにイタリア語式のアルノルド・ヴイオン(Arnoldo Vuion)、ラテン語式のアルノルドゥス・ウィオン(Arnoldus Wion)などの綴りもある。
1554年5月15日にドゥーエで領主代官の息子に生まれた。地元で学業を修めた後、宗教生活に入ることを決め、ベネディクト会士となった。ブルッヘ近郊のオーダンブール (Audembourg / Ardemburg) の大修道院で過ごしていたが、地理的に近いオランダの政治・宗教の状況悪化などが原因で、イタリアに移り住んだ。
1577年にモンテ・カッシーノの修道会に受け入れられ、その修道会が所有するマントヴァの修道院に入り、その地で歴史や文学の研究に明け暮れつつ、長年を過ごした。彼の研究成果はいくつかの文献にまとめられたが、そのうちの主著は、1595年にヴェネツィアで上梓した『生命の木』 (Lignum Vitae) 全2巻である。これはベネディクト会の歴史書であるが、現在では、専ら『聖マラキの預言』の初出として知られている(とはいえ、『聖マラキの預言』は、この本の中のわずか5ページ弱を占めるに過ぎない)。『聖マラキの預言』は実証的にはほぼ偽書であると見なされており、そのような偽預言に惑わされたヴィオンには、軽率な作家とか批判能力を欠いているといった評価がなされるが、他方で勤勉な学識者ではあったという評価もある。
その後ブレシアなどでも過ごし、パルマで没した。
このほかに、刊行されることのなかった七十人訳聖書とヴルガータの年代記を対照した草稿などが残されている。
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