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松方正義


松方正義


松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日〈1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年〉7月2日)は、日本の政治家、財政家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東

明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。

経歴

生い立ち

薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目) に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。父・正恭は、谷山郷士・松田為雅の次男で鹿児島城下士の松方左衛門に養子に入った人物で、大島と鹿児島の貿易によって財を為した。しかし、松方が10歳の頃、叔父の田中清造に貸した金が返ってこなかったことで父は生活苦に陥り、幼い松方は貧困の中で育った。さらに、10歳の時に母を、13歳の時に父を亡くした。

弘化4年(1847年)、藩士の子弟が通う藩校「造士館」に入る。この時期に朱子学や水戸学などの学問を通じて尊皇思想を育んだ。

嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された。

薩摩藩士時代

文久元年(1861年)、27歳で御家老座御帳掛書助役となり、文久2年(1862年)に藩主・島津茂久の父・島津久光の出府に際して御先定御供を命じられ、名前を正作と改める。さらに同年6月に江戸藩邸において助左衛門と改名。

この時に久光の側近となったことが藩官僚として出世するきっかけとなった。この後の久光の薩摩への帰国にも同道したが、この際に久光の行列の間に割って入って通過した英国人3人に激昂した薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかって1名死亡、2名負傷させた生麦事件に遭遇した。騒然となって藩士たちが続々と現場にかけつけたので久光の駕籠の周りは無人となった。そのため松方が大声で供回りの者を呼び戻して警護に当たらせた。西郷隆盛は後にこの時の松方の冷静さを称賛していた。

文久3年(1863年)5月に御小納戸勤役となる。さらに6月に議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。これ以降常に久光・茂久の側にあって藩政の枢機に参与した。しかし、低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという。

京阪にあった大久保利通とは緊密に連絡を取り合った。彼は一貫して大久保を兄事していた。この大久保との親密な関係が明治以降松方が政府の中で大きな役割を果たすきっかけとなる。

慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。慶応3年(1867年)10月、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けに当たった。12月には乾行丸掛に任じられて小銃購入にもあたった。

この頃、長崎奉行・河津祐邦は配下の振遠隊を使って薩摩藩や海援隊に圧力を加えていたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗を喫したのを知るとフランス船に公金1万7000両を積み込んで逃亡を図ろうとした。これを阻止するため松方は、土佐藩の佐佐木高行と連携して長島奉行所を占領。公金を返還しない場合には断固たる処置が下されることをフランス船にいる河津に通告、怯えた河津は公金を返還した。この公金を元手に長崎在留各藩藩士の合議による会議所をトップとした長崎統治体制を整え、長崎の秩序維持と人心安定に努めた。また振遠隊の暴挙を防ぐため、松方は単身でその屯営に赴き、隊長に面会し、厳然たる態度で説諭して帰順させた。この後、長崎裁判所の設置まで長崎の統治は事実上、松方と佐佐木の合議によって行われた。

明治維新後

明治元年(1868年)1月に朝廷より沢宣嘉が九州鎮撫使として送られてきて、2月には長崎裁判所が設置され、沢がその総督を兼務した。松方と佐々木は鎮撫使参謀に任じられたことで新政府に出仕することとなった。松方は3月に長崎裁判所参謀に就任したのを経て、日田県が設置されると大久保の推挙でその知事に就任した(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)。

殖産興業に務め、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。また日田地方で横行していた堕胎や捨て子の悪習を断つため、養育館を創設して育児事業に乗りだしたり、私財を出して官民の寄付を募る基金を創設したり、捨て子や堕胎をやめさせるための様々なことに対して報奨金を与えたりした。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保の評価を得、その功績、推挙で明治3年(1870年)3月に民部大丞・租税権領に就任し、中央政府へ栄転した。

以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿である大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発で賄ったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。

松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス財務大臣レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)と交流し、彼の助言で、金本位制と中央銀行を中心とする統一的な近代的通貨信用制度の整備の必要性を痛感した。同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、紀尾井坂の変で暗殺された大久保の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。大久保の死は彼の股肱である松方にとって大きな衝撃があった。しかし同時に、松方の台頭を抑える大きな重石が無くなったことも意味した。これ以降松方は自らを財政経済政策面で大久保の遺志を継ぐものと自らを任じ、政府内外にそれをアピールするようになった。

その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」設立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、代わって参議兼大蔵卿に就任した。翌15年に日本に中央銀行である日本銀行を創設した。

松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税、醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。

なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである。

総理大臣および大蔵大臣として

明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任。

明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて内閣総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし、閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。その後、第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣の大命が下り第2次松方内閣(松隈内閣)を組閣し、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任するが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈率いる進歩党との連繋が上手くいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。

晩年

日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案通りに、山縣有朋、西郷従道らとともに日英同盟締結に賛成している。元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。ロンドンタイムズは「松方伯は伊藤侯に次ぐ大政治家であり、日本が政治・経済の面で列国と肩を並べるまでになったのは松方伯によるところが大きい」と論評している。

オックスフォード大学からは法学名誉博士号を授与されている。松方は「自分は横文字も読めず学問もしたことがない、人違いではないのか」と述べて初めは断ったが、オックスフォード大学は「学問は事業をする道を学ぶものなので、大事業を成し遂げた人に贈るのである」と趣旨を説明した。アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアでは皇帝ニコライ2世や外相セルゲイ・ウィッテと会見している。特にウィッテとの会見は5時間に及んだ。すでにシベリア鉄道が旅順まで全通している中、ウィッテは日露両国が共同して中国に圧力をかける必要があると述べたのに対し、松方は、日本はロシアとの親交を増進すること以外に関心はなく、日露両国とも産業の発展、国富の増強を図り、武力に訴える行動をとるべきではないと述べて牽制した。

また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から枢密顧問官。大正6年(1917年)から内大臣を務めた。内大臣時代は大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。宮中某重大事件においては婚約見直し派であり、事件後には責任を取るとして単独で辞表を提出しているが、これは却下されている。

大正11年(1922年)の山縣有朋の死後、元老は松方と西園寺公望のみとなったが、松方は高齢であったため西園寺が主導する形となった。しかし、西園寺が病中であった6月の高橋内閣崩壊にともなう首相選定では主導的立場となり、加藤友三郎内閣を成立に導いた。大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。東京府東京市芝区三田の自邸で国葬が執り行われた。墓所は東京都港区の青山霊園。

1934年(昭和9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が青山霊園で盛大に行われ、斎藤実首相以下、鈴木貫太郎侍従長、若槻禮次郎民政党総裁、牧野伸顕内大臣らが出席した。

松方は内閣総理大臣経験者の伊藤博文や黒田清隆、山縣有朋らより年上であり(1835年生まれ。大隈重信よりも年上である)、内閣総理大臣就任時より死去まで最年長の経験者であった。

評価

松方は財政的な業績については評価されることが多いが、政治家としての松方の評価はおおむね低い。松方を政治的無能とする評価は、第一次松方内閣における「選挙干渉」、および第二次内閣での「進歩党の意見を尊重せず」意見を変えたことが原因となっていることが多いが、松方の政党政治への貢献が少ない、あるいは冷淡だったことが背景にあると思われる。また松方が大久保利通の「番頭」然としていたことが他の維新の元勲と比して一段格の低い人物というイメージを形成した原因になっていると考えられる。その結果、「政治的無能にもかかわらず薩摩閥に所属していたが故に藩閥政治で重きを受けた」というようなイメージが形成されたのだ思われる。例えば尾崎咢堂の「公は重々しいところはあるが、感じの至って鈍い人で、公がもしも薩摩人でなかったら、総理大臣にはなれる人物ではなかったろうと思う」、大隈重信の「松方も薩摩に生まれていなかったならば、せいぜい知事ぐらい」、陸奥宗光の「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」といったように酷評をされることが多かった。

確かに松方は政党や政党政治の積極的意義はあまり評価していなかった。また自己が重要と判断した問題以外の課題のために政治的活動を行うことにあまり熱意をもたなかった。その辺が近代的な政治家としての資質にかけると評価される所以と思われる。しかし松方は、自分が国家のために必要だと判断した課題を実現するためには政党との妥協も辞さなかったし、自己の信念に基づき大局的な方針を立て、それを着実に、万難を排して実現した松方はやはり一級の政治家であると評価すべきであろうと松方正義の伝記を著した室山義正は論じている。

薩摩閥の元勲たちの中では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道・大山巌は軍人然としていて政治的野心に乏しく、年齢やキャリアや財政政策の明るさから薩摩閥の中核となったのは松方だった。「松方閥」と呼ばれる人脈を政府・宮中内に形成して大きな影響力を持った。ただ、彼は元勲の中では維新前の勤皇志士としての功労が最も少ない人物で、実質的にはほぼ維新後の功労のみで元老・公爵にまで立身した人物だった。維新の功臣に挙げられているものの、大政奉還時に九州の一隅におり、その後九州の治平や地方官としての功績はあれど、それは大局に影響するものではなかったので、自ら軍馬の間を往来して時の政治を左右した元勲には大きく見劣りする面はあった。

しかし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。金本位制導入の際には、明治天皇から「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」とまで言わしめた。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。

日清戦争の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。

松方は天皇の直臣として自らの役割や進むべき道はどうあるべきかを大きな座標軸として人生を歩んだ。松方が不退転の覚悟で実行していった財政経済政策にはほとんど例外なく天皇の強い支持が与えられた。大久保の財政経済部門の「番頭」から天皇の財政経済部門の「番頭」に自らの立場を再定義した。松方が政党政治に違和感を持っていたのはそのためである。一君万民の天皇中心体制を確固とした基盤に置くことが松方の主要関心事であり続けた。晩年に内大臣として皇太子の欧州歴訪と摂政就任に熱意を注いだのは皇室への最後の御奉公であった。

人物

  • 奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(1902年(明治35年)5月8日)によると身長は172cm、体重は78kgとある。
  • 松方は女好きで、早世した2男も含めて15男11女の26子をもうけた。ある日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが、咄嗟に思い出せず「いずれ帰宅、調査の上、奉答仕りまする(後日、調査の上、報告申し上げます)」と奏上した逸話もある。
  • 松方と接したことのある尾崎行雄は松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎないと記している。
  • 歴代内閣総理大臣経験者では、一番生年月日が早く(1835年3月23日生まれ)、山縣有朋が死去した1922年(大正11年)2月1日から自身が死去する1924年(大正13年)7月2日までは存命中の最古参の総理大臣経験者となっていた。また、西園寺公望に抜かれるまで歴代総理大臣の最長寿記録を保持していた(現在の記録は東久邇宮稔彦王の102歳)。

栄典

  • 1874年(明治7年)2月18日 - 正五位
  • 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵
  • 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位
  • 1888年(明治21年)4月9日 - 銀製黄綬褒章
  • 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章
  • 1896年(明治29年)6月20日 - 正二位
  • 1899年(明治32年)10月31日 - 勲一等旭日桐花大綬章
  • 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章
  • 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵
  • 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)
  • 1916年(大正5年)7月14日 - 菊花章頸飾
  • 1922年(大正11年)9月18日 - 公爵
  • 1924年(大正13年)
    • 7月2日 - 従一位
    • 7月5日 - 国葬(葬儀執行:7月12日)
外国勲章等佩用允許
  • 1892年(明治25年)7月28日 - ハワイ王国:カラカウア第一等勲章
  • 1902年(明治35年)9月30日
    • ロシア帝国:神聖アレキサンドルネウスキー勲章
    • ベルギー王国:レオポール勲章グランコルドン
  • 1903年(明治36年)2月23日 - イギリス帝国:聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス

家族・親族

  • 妻:満佐子(1845–1920) - 薩摩藩士・川上助八郎の長女。荒田村(現・鹿児島市)に生まれ、1860年に結婚。4男1女の子を産み、妾の子供たちも一緒に養育した。1877年上京、自邸とした三田邸(現・三田二丁目)は、政府から払い下げられた伊予松山藩久松松平家中屋敷跡の7000坪の土地で、敷地内には沢庵禅師作庭の庭もあった。1887年の明治天皇行幸時には新館「恵露館」を建設して迎え、天皇より子供の数を尋ねられた正義は子沢山のため即答できなかったという。
  • 長男:巌(1862–1942) - 実業家、銀行家。十五銀行頭取。父・正義没後に公爵位と資産を相続したが、銀行破綻の責任を取り三田の本邸など私財の大半を放出。三田の邸宅は1932年よりイタリア大使館用地となった。養嫡子に弟・松方幸次郎四男の勝彦(1904年生)を迎えるが1936年12月18日に没し、未亡人(吉川重吉の四女)は獅子文六と再婚。勝彦没後、末弟・松方三郎を養子にし家督を譲る。
    • 妻・保子(1872–1957) - 医学者・長與專齋の長女、長與稱吉妹。娘婿に黒木三次。
  • 次男:正作(1863–1945) - 外交官。ブリュッセル大学留学、外務省を経て猪苗代水力電気取締役。
    • 妻・繁子は三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の弟で第2代総帥・岩崎弥之助(元日本銀行総裁)の長女。父より与えられた麻布竹谷町(現・南麻布一丁目)の4000坪の土地に新居を構えた(同地は戦後在日韓国人の手に渡り、1965年より韓国大使館敷地となる)。1男2女をもうける。
  • 三男:幸次郎(1865–1950) - 実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員。
    • 妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義の娘、幸次郎の長女・花子は松本重治夫人。孫の操は槇文彦に嫁す。
  • 四男:正雄(1868–1942) - 実業家。浪速銀行頭取、福徳生命保険、阪神電鉄社長、大阪ガス社長、大阪タイガース〔大阪野球倶楽部〕初代取締役会長・オーナー、日本職業野球連盟初代副総裁、1986年に野球殿堂入り。
    • 正雄の長男・義男は大同生命保険取締役。
      • 義男の長男・清は第一ホテル常務、第一ホテルトラベル社長。
      • 義男の次男・康は、三井住友海上社長。
        • 清の長男・純は旧華族の徳川冬子と結婚。日本のインターネット草創期に関わり国立情報学研究所准教授を勤めた。
      • 正雄の長女・富子は中上川彦次郎の六男・小六郎と結婚。小六郎は京都大学理科卒。三井生命保全部長、福岡製紙監査役を務めた。
    • 正雄の次男・鉄雄の長女・信子は、弘世現の長男・源太郎と結婚。
    • 正雄の三男・三雄は、白洲次郎の妹・宣子と結婚。
  • 長女:千代子(1869–1893) - 武笠清太郎夫人。清太郎は文久2年に滋賀県士族(彦根藩士)武笠資節の子に生まれ、東京帝国大学工科大学土木科を卒業して九州鉄道に入社、鉄道院技師のほか、母校の教授を務めた。
  • 五男:五郎(1871–1956) - 実業家。東京帝国大学法科卒業後英独に留学し、川崎造船所勤務を経て、東京瓦斯電気工業社長、東京自動車工業(現・日野自動車)社長などを歴任。
    • 妻のカメ(1883–1941) - 弁護士で法学者の渋川忠次郎次女で、2男2女あり。
  • 次女:幾姫(?–1873)
  • 三女:廣子(1874–1951) - 銀行家の川上直之助(1865–1950)に嫁ぎ、3男4女をもうける。川上は鹿児島県の士族に生まれ、東京帝大法科卒業後米独に学び、横浜正金銀行に入行、日本勧業銀行理事、日本銀行監事を務めた。
  • 六男:虎雄(1876–1898) - 陸軍砲兵見習士官在職中に病死。
  • 七男:金熊(1878–1880)
  • 四女:津留子(1878–1956) - 海軍少佐・谷村愛之助(?-1900)夫人
  • 八男:乙彦(1880–1952) - 実業家。日本活動写真社長。学習院を経てハーバード大学卒業、在米10余年ののち帰国し、日本石油、新潟鐵工所などの重役を務める。
    • 妻は山本権兵衛元首相の五女・登美(1888–1962)。2男2女あり、プロフィギュアスケーター八木沼純子は玄孫にあたる。
  • 五女:光子(1881–1975) - 松本枩蔵夫人。1男1女をもうける。
    • 長男・松本重治は幸次郎の女婿。孫の操は槇文彦に嫁す。
  • 九男:正熊(1881–1969) - 実業家。十勝鉄道会長。東京帝大農科大学林学科実科を出て米国で3年暮らし、帝国製糖の重役などを務めた。ヴォーリズ設計の麻布の自邸は、三女の松方種子が創立した西町インターナショナルスクールの校舎として戦後使われ、東京都選定歴史的建造物として保存されている。
    • 妻は新井領一郎の長女・美代(1891–1984)で、1男5女をもうける。
      • 正熊の次女・ハル(1915–1998) - 旧名は春子。エドウィン・O・ライシャワーに嫁す。両祖父を研究した『絹と武士』の著書がある。
  • 十男:義輔(1883–1972) - 実業家。三光紡績取締、日本特殊陶業監査。学習院、東京帝大法科中退後、米国で3年遊学し、1909年に日本銀行入行。
    • 妻の辰子は井上勝子爵の三女。
  • 十一男:金次郎(1886–1906) - 1906年6月にアナポリスの海軍兵学校へ入学。ポーツマス海軍兵学校在学中病死。
  • 十二男:十一郎(?–1888)
  • 十三男:虎吉(1890–1973) - 松本重太郎の養子
    • 妻の鞠子は稲畑勝太郎の次女。
  • 六女:梅子(1892–1978) - 明治の豪商として知られる日本橋呉服商の4代堀越角次郎(1885–1951)夫人。裏千家流の女流茶人・堀越宗円としても知られる。
  • 十四男:義行(1896–1970) - 森村市左衛門の婿養子
  • 十五男:三郎(1899–1973) - 登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。
  • 七女:文子(1903–1956) - 野坂三枝夫人

系譜

松方家は12世紀に島津家に従って東国からやって来た家である。

  • 松方正義の次男・正作の妻・繁子は三菱財閥の第2代総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。
  • 松方正義の次男・乙彦の妻・登美は元内閣総理大臣・山本権兵衛の五女。乙彦・登美夫妻の長女・米子は外交官の樺山資英(同姓同名の元貴族院議員とは別人)と結婚し1男1女をもうけた。樺山資英・米子夫妻の長女が八木沼純子の母である。
  • 松方一族は現在数百人の会員からなる「海東会」という一族会を形成している。

関連作品

小説

  • 坂の上の雲(司馬遼太郎)
  • 海は甦える(江藤淳)

映画

  • 明治天皇と日露大戦争(1957年、演:武村新)
  • 天皇・皇后と日清戦争(1958年、演:鳥羽陽之助)
  • 巨人 大隈重信(1963年、演:夏木章)
  • 二百三高地(1980年、演:須藤健)

テレビドラマ

  • 熱い嵐(1979年2月26日、TBS 演:横内正)
  • 夜会の果て(1997年、NHK 演:森山周一郎)
  • 坂の上の雲(2009年11月29日~2011年12月25日、NHKスペシャルドラマ 演:大林丈史)
  • 前田正名 龍馬が託した男(2019年、鹿児島テレビ 演:池畑慎之介)

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社カッパブックス、1965年 158-163頁
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(松方家 十九人もの子だくさん)』 角川書店、1983年 216-219頁
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧 別冊歴史読本』 新人物往来社、2003年 280-281頁
  • ハル・松方・ライシャワー 『絹と武士』 広中和歌子訳、文藝春秋 1987年
  • 『松方正義関係文書』(全18巻別巻1補巻1、大東文化大学東洋研究所)
  • 室山義正『松方正義:我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年(平成17年)。ISBN 978-4623044047。 

関連項目

  • 河越氏
  • 岩崎家
  • 本山白雲(戦前建てられていた松方正義の銅像の作者)
  • 鹿児島県出身の人物一覧
  • 三国名勝図会
  • 高橋是清 - 財政における後継者
  • 吉田清成
  • 明治十四年の政変

外部リンク

  • 松方正義 | 近代日本人の肖像
  • 明治宰相列伝 : 松方正義 | 国立公文書館
  • 国立国会図書館 憲政資料室 松方正義関係文書(寄託)
  • 国立国会図書館 憲政資料室 松方家文書(松方正義)(MF:財務総合政策研究所財政史室蔵)
  • 歴代総理の写真と経歴 第4・6代 首相官邸サイト
  • 『松方正義』 - コトバンク

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 松方正義 by Wikipedia (Historical)



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