上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - 1972年11月3日)は、日本の俳優。本名は上田 貞夫(うえだ さだお)。
アクの強めな演技で知られ、300本以上の映画に出演。愛称は「上吉(うえきち)」。
悪役・敵役を得意とし、弱者を痛めつけ、自分より強いものには平身低頭するような悪役が多く、独特なダミ声は、よしもと新喜劇の島田一の介や林家木久扇らによって度々声帯模写で取り上げられた。
1904年(明治37年)3月30日、兵庫県神戸市三宮に生まれる。旧制第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)在学中の1918年(大正7年)、神戸中央劇場で観た新国劇の舞台『新朝顔日記』での澤田正二郎の演技に感動し、彼に弟子入りを頼んで新国劇に入団する。1921年(大正10年)、『カレーの市民』の給仕役で初舞台を踏み、端役から次第に澤田に次ぐ役を演じる。後に新国劇の二枚看板となる島田正吾・辰巳柳太郎よりもはるかに先輩にあたる。
1925年(大正14年)、新国劇がマキノと提携して東亜キネマ等持院撮影所で製作した『国定忠次』『恩讐の彼方に』『月形半平太』の3作に沢田一党と共に出演する。1926年(昭和元年)、一身上の問題から新国劇を退団し、東洋座という一座を組織して旅回りをする。時には蛇を全身に巻きつけて大蛇劇と称する芝居までやっていた。1934年(昭和9年)、京都・太秦発声映画で早川雪洲主演の『荒木又右衛門 天下の伊賀越』に出演。これがきっかけで映画に脇役出演するようになり、1939年(昭和14年)に『荒木又右衛門 天下の伊賀越』での演技に感心した稲垣浩監督の推薦で日活京都撮影所に入社。ドスのきいた声とふてぶてしいマスクに加え、彼一流の芸熱心で注目を集める。1942年(昭和17年)に日活が大映に合併されてからは大映の所属となった。
戦後は東宝と契約し、黒澤明作品に常連出演する。大げさなジェスチャー・独特の声色と言い回しでユーモラスな悪役としても人気を博した。
後にフリーとなり、大映・東映・松竹の作品やテレビドラマにも出演する。稲垣浩によると、亡くなる数年前ごろから唸るような喋りかたが人気を呼び、テレビの影響もあってその一色の演技に固まってしまったという。また、上吉プロダクションを設立して短編映画を撮ったりもした。
1971年(昭和46年)、喉頭癌の手術を受けて声帯を切除し、独特の声を失う。翌1972年(昭和47年)11月3日、喉頭癌のため東京都調布市小島町の自宅で死去。68歳没。養女は林成年と結婚した。
稲垣浩によると「個性的な、というよりもアクの強い演技で特異な存在だったから、色々な映画に出演して、様々な役を演じて評判が良かった。リアルなものからアチャラカまで、時代劇でも現代劇でも注文に応じて何でも来い、という芸達者だった」と、上田を評価している。
稲垣が上田を認めたのは勝見庸太郎の監督映画『荒木又右衛門 天下の伊賀越』での桜井甚佐衛門の演技で、「戦国武士を忍ばせるような風格と演技と声とエロキューションに魅せられた」と評し、将来日本映画に役立つ俳優だと思って日活に上田を推薦した。しかし、当時の大スターである大河内傳次郎を新国劇の後輩だからといって「大河内君」呼ばわりして周囲のひんしゅくを買うなど、入社した上田の評判はひどく悪かった。
稲垣は上田について、時代をとらえる敏感な所もある一方、間抜けなこともあったといい、稲垣の『宮本武蔵』(1940年)で演じた秩父の熊五郎の演技が評判となると「あの演技を考案するため岡崎の動物園に日参して熊の動作を研究した」などと至る所で自慢して歩いていたという。稲垣は「彼には奥ゆかしさとか、控えめというものがない。そこがいい所でもあったし、また人から嫌われる短所もあった」とし「だが、彼の演技研究が熱心だったことは認めなければならない。それを彼自身が口に出して売り込むから安っぽくなるが、その安っぽさも実は彼らしい所でもある」と評している。黒澤明の『羅生門』がグランプリを取ると「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷した葉書半分ほどの大きな名刺を作って話題となった。このように上田は「赤ちょうちん的な脇役」だった。
台詞覚えが良くなかったため、台本やプロンプター用紙に漫画を描いて暗記していた。台本の「貧乏」というセリフには一文銭の絵に「×」を描く、驚いた声を出す場合は火山が噴火した絵をプロンプター用紙に添えるなど独特な覚え方をした。また小道具やセット・カメラの死角になる部分に自分の台詞を書き入れることも行った。小沢重雄によれば生放送テレビドラマの際、上田が台詞を書いた地蔵のセットを誰かがいたずらで裏返して本番を迎えたが、フレーム・インした上田は慌てることなく「む、村のわらべが悪さをしよって」とアドリブで地蔵を元通りにし、演技を続けたという。
絵が好きであり、常に画帖と鉛筆を手放さなかった。暇があるとスケッチし、唾を指に着けて彩色した。ある時黒澤明が冗談で「セザンヌの画のようだね」と言うと、すっかり真に受けて100枚程のスケッチを黒澤の家に持ち込んで来た。黒澤は困り果て「大した野郎だな」と十枚ほど見てシャッポを脱いだといい、これ以来画伯づいた上田はアンデパンダン展に大作を出品した。娘の若いころの写真を模写した「舞妓種子の像」は高値が付けられたが、稲垣が後で聞くと買主は上田本人だった。
1936年(昭和11年)ごろ、高堂国典が結成した日本映画人禁酒聯盟の副会長になったが、会は3ヶ月を待たずして解散となった。この頃妻は子宮ガンを患っていた。30歳代の上田に対し妻は「辛抱できないでしょうから、内緒で浮気をしてもいいわ」と公認したが、妻は外泊した晩に息を引き取ってしまった。娘から「お父ちゃんの馬鹿」と泣かれた上田は「お母ちゃんは死んだけど、お父ちゃんの腹の中にちゃんと納めてやるから」と言って、遺骨をボリボリ齧りながら酒を飲んで夜を明かしたという。
亡くなる前にはポケットに発声器を忍ばせ、喉にマイクを当てて「コレカラハ、絵ヲカイテ、クラシマス」と話したといい、ポケットから聞こえる機械音声は哀れだったが、稲垣は「それはいかにも上吉らしく、微笑ましかった」とこれを偲んでいる。
小型の機械が好きで、万年筆型の懐中電灯やピストル型ライター、電池式の手持ち扇風機を鞄から取り出して得意然としていた。8ミリカメラが一般的でないころに上吉プロダクションの作品を作っていた。
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