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1986年の全日本F3選手権


1986年の全日本F3選手権


1986年の全日本F3選手権(1986ねんのぜんにほんF3せんしゅけん)は、1986年(昭和61年)3月8日 - 9日に鈴鹿サーキットで開幕し、同年11月1日 - 2日に鈴鹿サーキットで閉幕した全9戦による1986年シーズンの全日本F3選手権である。

シリーズチャンピオンは森本晃生が獲得した。

概要

開幕前に発表されていたカレンダーでは全9戦の開催予定だったが、第7戦仙台ハイランドが悪天の為開催キャンセルとなり8レースでのシーズンとなった。

前年に登場したラルト・RT30とレイナード・853により各国のF3シリーズに参戦するシャシーは新世代へと入れ替わり、ラルトは基本部分を共通とする改善型RT30-86を1986年用にリリースした。前年チャンピオンの佐藤浩二(Le Garage COX Racing)はこの最新ラルトにフォルクスワーゲン・GXエンジンを載せ参戦する。

前年までは旧型も含め多数参戦していたマーチ・エンジニアリング製F3シャシー「793」「803」「813」ではラルトRT30との戦力差が大きいことは85シーズン中に明らかであり、対抗できなくなったマーチ製F3シャシーは姿を消していくシーズンとなった。代わって新興メーカーであるレイナードが自社のF3000シャシーと共通思想のカーボンファイバー製モノコックでヨーロッパ各国のF3で好結果を出し始めていた。日本でもノバエンジニアリングが前年最終戦でレイナードを全日本F3にデビューさせており、この86年シーズンには岡田秀樹にレイナード・863を託してフルエントリー。岡田は表彰台を二度獲得するなどランキング5位に食い込んだ。国産コンストラクターも依然奮闘し、ハヤシ・331での参戦者や、第6戦筑波では福山英夫がオスカー・トヨタで勝利を挙げた。他にも元童夢・安藤元晴の「ファーストモールディング」が製作した国産初のオールカーボンファイバー製F3シャシー・コラージュIIIも全日本F3参戦二年目を迎えるなど、同じ頃ほぼマーチ・86Jのワンメイクと化していた全日本F2よりもF3ではバラエティに富む参戦状況が見どころとなった。

タイヤはブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマの3メーカーが競う状況はこれまでと同じだったが、勢力図は開幕の時点でブリヂストン9台、ダンロップ7台、ヨコハマが5台と拮抗していた。ブリヂストンは他社に先駆けてラジアルタイヤの供給を開幕戦から開始し、ヨコハマも追ってラジアルの開発を開始。上位カテゴリーの全日本F2では1980年に同様の現象が発生していたが、6年を経てF3クラスのタイヤもラジアル時代に入った。

前年にNISMOによるワークス体制でF3ランキング2位を獲得した日産・FJ20型エンジンは前年の活躍によって良い出力特性を確認できていたが、サイズ的にライバルメーカーのエンジンより腰高で、重心が高くなるため、このシーズン中に新型CA18型の開発を急ぐ状況となっていた。NISMOのF3エンジン開発ドライバーは鈴木亜久里がツーリングカー選手権(JTC)およびグループCカー(JSPC)へと参戦カテゴリーを移したため、後任として中川隆正に引き継がれた。

上位を争う主なドライバーは、前年チャンピオンとなった佐藤浩二がゼッケン1をつけて連覇を目指し、その佐藤に王座を奪われた1984年王者の兵頭秀二も王座奪還を宣言。全日本F2にステップアップして1年間戦い入賞も記録していた森本晃生が「もう一度勉強し直したい」とチーム・ルマンからF3への再参戦が決まり、開幕からこの3人がチャンピオン候補と目された。このほか1980年の全日本F3チャンピオン佐々木秀六もフルシーズン・エントリー、佐々木は第8戦鈴鹿でポール・トゥ・フィニッシュで完勝し、6年ぶりのF3勝利を挙げランキング3位と健在ぶりを見せた。

最終戦・鈴鹿では、同年のドイツF3選手権でチャンピオンを獲得したばかりのクリス・ニッセンが来日しスポット参戦した。ニッセンは予選から格の違う速さを見せポールポジションを獲得し、決勝レースも完勝。ヨーロッパのレベルを結果で体現し、日本のF3ドライバーにショックを与えた。

エントリーリスト

スケジュールおよび勝者

シリーズポイントランキング

  • ベスト6戦の有効ポイント制
  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

脚注

外部リンク

  • Japan Formula 3 Official Web Site

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 1986年の全日本F3選手権 by Wikipedia (Historical)