萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年〈昭和16年〉5月7日 - )は、日本のコメディアン、テレビ司会者。
1966年、相方の坂上二郎と結成した「コント55号」が絶大な人気を得て、60年代後半のテレビを席巻する。
70年以降は司会者としての単独活動も開始。特に80年代以降は彼の名前を冠したレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録、「視聴率100%男」との異名を取った。また、これらの番組から始まった様々なお笑いのスタイルは(後述)その後のバラエティー番組へ多大なる影響を与えた。
昭和のバラエティー番組黄金期を代表する人物である。
日本野球連盟に所属する野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。
浅井企画所属。浅井企画グループの佐藤企画と業務提携し、同じく浅井企画傘下に置く個人事務所・萩本企画にも所属している。
東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)出身の埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和地区)育ち。血液型はA型。
欽ちゃん、大将の愛称で広く知られる。
大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「萩」「欽坊」「欽様」など。
また、彼の番組や舞台から育った欽ちゃんファミリー等からは、「師匠」などとは呼ばせず「大将」と呼ばれている。ビートたけしが、弟子たちに「師匠」ではなく「殿」と呼ばせているのは、萩本と周囲のこうした関係性への憧憬や敬意によるところが大きい。また、ゴールデンゴールズの選手には「欽督(きんとく)」と呼ばせた。
1970年代〜1980年代に、「なんでそーなるの!」などのギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す芸能人の才能を開花させたり番組でユニットを作り曲を出すなど、現在のバラエティの基本を開発した人物で、お笑い界の革命児として一世を風靡した。本人によると「演技のボケは難しいから、素人を連れてくる方が簡単」。
「どっちらけ」「バンザーイなしよ」など、語り継がれるギャグも多い。後に普通に使われるようになった「ウケる」(ややウケ、バカウケなど)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったとされ、芸人言葉を一般に広めた。また、「天然ボケ」「天然」を初めて使ったのも萩本であるとされている。
1941年(昭和16年)、父・萩本団治、母・トミの三男として現在の東京都台東区稲荷町に生まれる。両親は香川県小豆島出身。父の実家は饅頭屋で、母はお嬢様で嫁ぎ先で洗濯をする発想が無く洗濯物を貯めこむ有様だった。稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売(戦時中に借金をして買い込んだ故障品を戦後ニコイチで粗製し、進駐軍に売りさばいた)が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居し、裕福な少年時代を送る。
父は都内に妾を囲っており、浦和へは週末しか帰宅しなかったが、母はそれを甲斐性として是認して子供達には立派な父だと教え、妾宅へ遊びに行く事を勧めたりしたという。父と愛人とで浅草へよく出かけ、それが芸能へ興味を持つ原点になっている。地元の市立高砂小学校では級長をしたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。遊びに行った家の親御さんにおべっかを使うのが上手で可愛がられたという。
1952年、小学5年の時に父の会社が倒産(低価格カメラを発売するも販売不振。ボルタフィルムを参照)し、家には借金取りが連日押し寄せる。かなりショックを受けて涙が出てきたという。その後、再び稲荷町の長屋に居を移し、中学3年の時に文京区丸山町に転居するが極貧生活を余儀なくされ、高校時代に一家で夜逃げ。その後家族は"解散"し両親は香川に帰った。父はその後、欽一の兄が開いた写真館で働いていた。
極貧の生活を抜け出したく、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”を見たことがきっかけで、中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られた。私立駒込高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で、再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。
東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼らの大師匠筋である深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられた。
入団当時、極度のあがり症などでうまくセリフが言えず、演出家の緑川士朗から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込んだが、池が説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と引き止めた。その後、緑川から「才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が説得したことを知らされ、「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起し、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返した。
父の家が火災になり、助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を渡した。これには、感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した。
系列の浅草フランス座へ出向した後は、ストリップの幕間コントに出演していたが、当時、漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合う。当初の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。
その後東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、浅草松竹演芸場で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げ。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事し、お笑い作りに本格的に取り組んでいたが、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始し、向井の手掛ける公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用された。
CM収録で19回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。一度はテレビ進出を諦め、生涯舞台役者で生きていくことを決意し、浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。
後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。
熱海の営業で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎から電話が掛かってきて会うことになり、その際、「机」のあらすじを語ったところ坂上から「そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは」と提案されたのがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成。
なお帰京後すぐにそのまま劇場にコントを売り込むつもりでおり、帰京直後というタイミングで坂上からの電話がなければコント55号の結成はなかったと後年語っている。
前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年〜1971年)で人気に火がつき、『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!』(TBS)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(いずれもNETテレビ・現:テレビ朝日)など数多くのレギュラー番組を抱え、テレビを席巻した。
その後もコンビ活動は続いたが、70年代後半以降はコンビでのコントやテレビ出演の機会が減少し、次第に個々の活動を中心とするスタンスに変わっていった。
1971年、日本テレビ『スター誕生!』の初代司会者として単独での活動を始め、1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始された。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇し、1975年にニッポン放送と同じフジサンケイグループのフジテレビにて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となった。
当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年〜1986年、ただし1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み、その後テレビ界で主流となった。
『スタ誕』のオファーがあった際に「俺は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望した(断ったら「アシスタントをつける」と局側から申し出られたとも)ことが、アシスタントの走りとされる。
1981年には月曜9時にフジテレビ『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズが放送開始し、1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)『欽ちゃんのどこまでやるの!』(欽どこ)は、最高視聴率42%を記録する。1982年に始まったTBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』、さらにはTBS『ぴったし カン・カン』、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』と、レギュラー番組が高視聴率となった。特に冠3番組(欽ドン・欽どこ・週刊欽曜日)の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取り、これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。
一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)や、1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)でメインパーソナリティを務め、番組の顔となった。
1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組を全て降板し、半年間程休養する。ただし『欽ちゃんの仮装大賞』の司会だけは、日本テレビプロデューサー・斉藤太朗の説得により続行し、『24時間テレビ』にも例年通り出演していた。
降板の理由について、「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していくことに自信が持てなくなった」と説明し、当時人気のあった『オレたちひょうきん族』など、アドリブ主導(出演者の技量、機転に依存、丸投げにする番組作り)のテレビ番組が嫌になったとも言われる。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり、嫌気が差したとも本人は後に述べている。
テレビ復帰後は低視聴率に陥り、次々と打ち切りの憂き目に遭い、レギュラー番組を多数持つ一線からは退いている一方、舞台公演や「欽ちゃん劇団」のプロデュースなどに傾倒した。
1996年(平成8年)、NHK連続テレビ小説「ひまわり」のナレーターを担当。1998年(平成10年)、長野冬季オリンピック閉会式の総合司会を担当する。この閉会式では全世界同時中継で同時通訳が付くため、予定の台本通りの進行が求められたが、フィナーレが近づいて来たところでアドリブを入れている(後述、#アドリブについての見地の節を参照)。この閉会式の後、母親と兄から電話があった。母親はコメディアンのことを「笑われるから恥ずかしい仕事」などと思い込んでおり、やっぱりどこかで理解してほしかったと思っていたが、母親は長野五輪で初めて息子の仕事を認めたということで、「ごめんね、ごめんね」と泣いて喜んでいたという。萩本もこれを「親孝行ができたたった一つの仕事だった」と振り返っている。
2005年(平成17年)に野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、初代監督に就任した。詳しくは下記「#野球との関わり」を参照。
2007年8月18日 - 19日に放送された『24時間テレビ30「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーになる。66歳という年齢などを考慮して走行距離は通例より短い70kmとした。残り900m余りを残したまま放送時間内(20時52分30秒)でのゴールはできなかったが、引き続き生放送された『行列のできる法律相談所』内にてゴール。瞬間最高視聴率はゴール直前の20時52分に43.9%を記録、ゴールの模様を放送した『行列〜』の平均視聴率は35.3%に達した。66歳でのマラソンランナーは最年長記録となっていたが、2011年の第34回で当時70歳の徳光和夫が担当し、更新された。
2008年10月に「ちょんまげワールド伊勢」の名誉村長に就任。1993年にも同所でプロデュースしているが、劇場が閉鎖されていたことを役者から聞いたことがきっかけで再興に乗り出したという。当時は劇場の役者への演技指導や、施設のプロデュースを行っていた。なお、ノーギャラでこの仕事を引き受けており、交通費も自費で通っていた。この縁で2010年12月には三重テレビ放送の名誉局長にも就任した。なお名誉村長については、時期は不明だが、既に辞任している。
2010年(平成22年)12月12日の試合を最後に、茨城ゴールデンゴールズの監督を勇退した
2011年(平成23年)3月10日、コント55号の相棒であった坂上二郎が死去。詳しくは下記「#坂上二郎の死と東日本大震災」を参照。
2003年からは不定期に明治座での座長公演を行うなど、舞台公演に力を入れていたが、「大きなステージでは動けない」として2014年3月の公演を最後に大劇場での公演から引退する方針を明らかにした。
一方で、認知症対策のために受験勉強を始め、2015年4月に駒澤大学仏教学部に入学 するも、2019年5月に自主退学した。
長きにわたって機械やインターネットには疎かったが、不定期で放送される冠番組『欽ちゃんのアドリブで笑』の企画で、番組スタッフから「Twitterを始めて下さい。学校で面白い事があったら、撮って投稿して下さい」と依頼され、番組放送の7月7日までに“55万リアクション(リツイート・いいね・返信の3つの合計)達成”という目標を決められたのがキッカケで、「Twitterは反応を見るのが楽しいし、学生と近くなれる不思議な機械。Twitterのおかげで、毎回授業の前に女の子にネタもらったの。青春時代、忘れた何かを思い出させる良い気分だったよ。あれを使ったことで、日に日に感激しているわけ。この機械を1台出すだけで、会話が成立する。いい懸け橋になってくれる」と、学生仲間や松井玲奈などの番組共演者にも気兼ねなくネタ提供の相談をしている。
2021年2月6日、この日放送された『欽ちゃんの仮装大賞』内で、「今回で私、この番組終わり」と言い、番組から退くと示唆した。
2021年9月からはYouTubeに自身のチャンネル「欽ちゃん80歳の挑戦!」を開設、80歳にしてYouTuberとなり、さまざまなことに挑戦、2022年1月からは平日の配信企画「帯欽」も行う。
特別映画賞『欽ちゃんのシネマジャック』
2005年までの主としてデータは『なんでそーなるの! - 萩本欽一自伝』(日本文芸社、2007年、pp.268-269)収録の「萩本欽一バイオグラフィ」を元に、自伝本文の内容を加えて作成。
萩本の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた関根勤、小堺一機、はしのえみ、柳葉敏郎、勝俣州和らは、その後も各方面での芸能活動を続け、また「パジャマ党」「サラダ党」と称した鶴間政行、君塚良一、大岩賞介といった放送作家を育成するなど、芸能界、放送界における萩本の影響力は強い。
東京進出する前で、関西でも「4時ですよーだ」(毎日放送)で人気者になる前のダウンタウンを1986年、「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」(フジテレビ)に起用した。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンの持ち味は全く生かされず、着ぐるみを着て相撲対決等を行っていたダウンタウンも内心嫌がっており、低視聴率が続き3ヶ月で打ち切りとなった。しかし萩本はダウンタウンに「この番組は終わるが、君達はこの番組以外の所から必ずブレイクするから、心配しなくていい」と直接伝え、実際にその直後に関西で人気が爆発し、3年後の東京への本格進出に繋がった。この件もあり、ダウンタウンは萩本に他の先輩芸人とは別格の念を持っており、ラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも、浜田雅功が「萩本さんの悪口言わんといてくれ」と述べている。松本人志は著書で「あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて、他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに、OKを出していた大将はやっぱりすごい」と評している。
ダウンタウンとの繋がりでは、1990年10月7日放送の「欽ちゃんの第31回全日本仮装大賞」にダウンタウンが出場し、浜田は萩本の物真似を行った。第30回出場分は予選敗退となっており、両回共にノーギャラ、楽屋も一般出場者と共同と、特別扱い無く出場している。
また、ダウンタウンと同じく「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」に起用していたジミー大西を見て、「あれが意図的な芸であれば、チャップリン以来の天才芸人だ」と大変評価し、2人きりで楽屋にて対話した。しかし楽屋から出てきた萩本は一言「天然だったんだね…」と言葉を残し落胆する。この言葉が「天然ボケ」の言葉を定着させることとなる。
くりぃむしちゅーの有田哲平は、斜に構え尖っていた芸風の若手時代に出演した舞台にて、普段の稽古ではふざけていたものの演出を務めていた萩本が見学に来た際は真面目に演技を行ったところ、萩本に呼び出され「なんで君は真面目にやるわけ?あなたはレールひいたものを壊したい人でしょう?」とアドバイスを受け、それを機にクールさを捨て全力で自由かついい加減なキャラクターで舞台に臨んだところ大ウケしレギュラー番組が次々に決まっていった、という経験をした。このことについて有田は萩本の慧眼を称えるとともに、「ぶっちゃけ師匠なのよ、実は」と自身が大きく影響を受けたと語っている。
1998年には長野オリンピック閉会式の司会に起用される。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する欽ちゃん劇団の舞台などでは演出家としても活動している。
「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」などで披露した、萩本の発案による冗談やネタは多く、音曲に合わせ踊りながらじゃんけんをして、負けた者が服を脱いでいく野球拳は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感から、当時はこの役を相当嫌っていた部分がある。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は、『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。
萩本は長江健次などの一般の素人(芸人)や、芸人以外の著名人などを積極的に番組に起用し、コメディーの才能を見抜いて引き出すことに長けていた。自身の経験から、その応用として素人にはプレッシャーをかけてわざと失敗するよう仕向けていた。これは「二郎さんのようにプロとして失敗する芸を身に着けるには、10年かかるから。若い人が出られなくなるから」として、素人にそのチャンスを与えたという考えからだという。またエキストラの活動をしていた時代の挫折の経験がこの下地になっていることもある。
志穂美悦子(女優)、前川清を始めとする内山田洋とクール・ファイブのメンバー、中原理恵(歌手)、真屋順子(舞台女優)、志賀勝(俳優)など、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、世間に新たな側面を見出させた。さらに「欽どこ」で若原一郎を、「オールスター家族対抗歌合戦」で近江俊郎を人気復活に導き、タレントとしての才能を発揮させ、歌手時代を知らない若い世代にも知名度を広げた。また萩本は「おしゃれカンケイ」に出演した際に、かつて司会を務めた「スター誕生!」の裏話として、「山口百恵が実は不合格だったが、他の出場者の出番の間、身動き1つせずじっと他の出演者のオーディションを見ていた姿勢を見た萩本が、『百恵ちゃんは必ず大物になる』とプロダクション側に訴えた結果、不合格が合格になった」と話した。その後山口百恵は1970年代を代表するアイドルへ成長することになる。久米宏については、1974年頃久米がラジオ番組でレポーターをやっていたとき見かけてテレビ向きだと感じて、当時企画中の「ぴったし・カンカン」の司会者に起用した(久米はそれまでもテレビに出演していたが、いずれも不成功だったという)。
「視聴率100%男と言われたのも運の力」というほどの運の持論があり、「運を貯めるのや使うのが上手い人が『運のいい人』」「運で一番大事なのはよく寝ること。(欽ドン・欽どこ・欽曜日の)3番組同時期にやっていた頃も、朝10時起きて夜3時に寝るサイクルがきちんと出来ていた」「がっついてる奴は運が逃げている。逆に間抜けな奴ほど運を持っている」と言う。そのことから、オーディションの時も「運を持っているかどうか」を重視する。また「パジャマ党」「サラダ党」の放送作家たちにも、運を貯めさせるために自分から何も教えず、不安を我慢させながらも5年は辛抱させたという。
欽ちゃんファミリーの勝俣州和は、2008年12月27日放送の「人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデン」で披露 したところによると、自身のデビュー当時に萩本から「お笑いは、ネタを振る・ボケる・ツッコむの繰り返しなんだ。ネタを振ってウケたらもっとネタを振れ、ボケてウケたらもっとボケろ、ツッコミがウケたらもっとツッコめ。それがどんどん回りだして大きな波になったら、お前はスターだよ」と教わったという。しかし、それを真に受けた勝俣は、萩本に対してフラフラになるまで激しく叩きツッコミをしてしまい、番組の収録が一時中断するハプニングに至ったとも語っている。
他方、萩本は自番組で人気と知名度が高まった面々について、ファミリーよろしく他の番組でも無条件に使い続けるということはなかった。
萩本は後にインタビューでアドリブの重要性について「どうして台本どおりやっちゃいけないかというと、台本には間がないんですよ」「どんなにいい台本でも、ひとたび間を入れると微妙にセリフが変わってくるものだから」と語り、舞台上で重要な間の取り方との関係から、アドリブはコントにおいて必要不可欠であるとしている。また、アドリブについて「台本をやらないんじゃないんだよ。台本どおりやって外すんで、急遽それをカットして取っ替えるんです。でも、取っ替えてでもお客さんに笑ってもらわないと、衣装も小道具もみんな無駄になるし、見てるお客さんもつまらないですから」と語っており、コント演者にとって客を楽しませることこそが最も重要であり、そのためにはアドリブも辞さない姿勢を示している。
萩本は、稽古無しでいきなり本番だった東洋劇場などの浅草の舞台での修行が、台本通りの動きを求められたテレビの世界で全く役に立たず、馴染めなかった経験から来ているといったことを話している。なお、吹替を担当した『ウォレスとグルミット』シリーズでは、原語版を殆ど無視したアドリブを連発するなど、独自のアレンジを加えており、アドリブで持ちネタを披露したものの、編集でカットされてしまった事もあった [4]。
前述、長野冬季オリンピック閉会式の総合司会を務めていた時には、台本通りの進行が求められたことで、前述のように若い頃にCM収録でNGを連発したことで降板を余儀なくされた苦い経験もあって「100%失敗する」と思って最初は断ろうとしていたが、この大役を引き受けた。フィナーレ前までは台本通りに進行していたが、フィナーレが近づいて来たところで「皆さんも選手たちに『ありがとう』と言おう。せーの」と会場へマイクを向けるという、台本には無かったアドリブを入れた。
2017年より、台本無し・リハーサル無し・アドリブ主体のバラエティ番組「欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)」をNHKで開始した。
萩本が「尊敬するコメディアン」としてチャールズ・チャップリンの名を挙げていたことから、1971年1月にフジテレビの番組企画「拝啓チャップリン様 コント55号只今参上!」で、当時スイスに隠棲していたチャップリンに面会している。実のところ、萩本は「世界で一番有名な人だから」という程度の意識で彼の名を出していたに過ぎず、このときはチャップリン映画も2本しか見たことがなかったという。
当時のチャップリンは、誰にも面会しないと言われており、企画した側も実現するかどうか危ぶんでいたが、萩本は「むしろそういう相手だからこそ会ってくれるだろう」とスイスに出かけた。萩本に与えられたスケジュールは4日間で、初日は予想通り警護の人間から「チャップリンはいないから会えない」と謝絶を受ける。翌日は車で帰宅するチャップリンと窓越しの対面を果たすが、邸内にはやはり入れなかった。3日目には、かつてチャップリンと関わりのあった人物からの「日本人、特に女性が好きなので女性を連れて行けば会えるだろう」とのアドバイスに基づき、土産の博多人形を携えていくが、マネージャーから「預かりはするが、日本からの客人が置いていったとだけ伝える」という冷たい対応を受ける。そして最終日、せめて敬意を持っているという気持ちだけでも伝えたいと粘ったものの、マネージャーはやはり会わせないという返答であった。萩本が怒りと失望から、日本語で「あの(ヒューマニズムにあふれた)映画は嘘だ」などと大声で叫んでいると、それを聞いたチャップリン本人が「何事か」と出てきて暖かく迎え入れ、面会を果たした。萩本によると、いろいろとたかりに来るような訪問者がいたため、マネージャーが来客を会わせないようにしていたという。
萩本のチャップリンに対する印象は「すごい優しい目をして、優しい気持ちを持った、想像もつかない、すごくいい小父さんっていう感じ。」というものだった。チャップリンは萩本を迎え入れ室内を案内したり一緒に写真を撮るなどして40分ほど応対した。チャップリンは萩本が持っていたカメラを見て「写真を撮らなくていいのか?」と写真を撮れるよう水を向け、数枚撮ったところで「景色を変えた方がいい」と場所を変えてくれたりした。
この面会以降、萩本はチャップリンに対して心からの敬意を抱くようになり、作品も全てきちんと見ることとなった。1977年12月、ニッポン放送『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の生出演中にチャップリンの訃報を伝えられると、萩本は思わず泣き出した。
NHKで「ワースト脱出大作戦」シリーズに出演したこともあり、公共キャンペーンCMに出演することも増えた(#坂上二郎の死と東日本大震災も参照)。
テレビの「欽ドン!」のヒットで時代の寵児となっていた頃に結婚を発表したが、相手が浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったストリッパーだったことから名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出している。
妻との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されなかったが、2007年に刊行された自伝『なんでそーなるの!』(日本文芸社 ISBN 978-4537254686)において実名入りで紹介された。2014年12月に日本経済新聞で連載された「私の履歴書」でも、結婚に至る詳しい事情や家族のことが実名入りで紹介されている。
2020年10月、『週刊文春』の取材の中で、妻ががんで4年前から闘病し、8月28日に82歳で死去したことを明かしている。
2011年3月10日午前9時40分にコント55号の相棒だった坂上二郎の死、そして翌3月11日に日本を襲った東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と、萩本は2日連続で大きな出来事に見舞われた。その際において、以下のようなエピソードがある。
高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。
プロ野球・読売ジャイアンツの長年のファンであり、長嶋茂雄の大ファンでもある。2015年の原辰徳の巨人監督退任時には次期監督に高橋由伸の就任を予言し、的中させた。
1975年頃には「欽ちゃんず」というチームを持ち、雑誌社などのチームと交流試合も行ったこともある。当時は背番号の代わりに女優の名前を入れたりしていた。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」では、元プロ野球選手の尾崎行雄や“ヒゲ辻”こと辻佳紀らの3人チームがアマチュアチームと対決する「欽ドン!野球」のコーナーもあった。
2004年12月26日、2005年度からの日本野球連盟加盟を目指し、関東を本拠(後に茨城県桜川村〔2005年3月22日に平成の大合併に伴い稲敷市になる〕を本拠地に制定)とした野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ(以下、茨城GG)」(愛称:欽ちゃん球団)を結成した。
萩本は、独自のマイクパフォーマンスや、女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させた。また、宮崎県においても、姉妹チームの宮崎ゴールデンゴールズが活動を開始した。
以降、森田健作や山本譲二、森口博子ら著名人が監督となってクラブチームを設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。
2006年7月16日夜から7月18日にかけて、遠征先の北海道にて、タレントで所属選手だった山本圭一(極楽とんぼ)の17歳女性への性的暴行が発覚し、吉本興業から契約を解除される騒動が起こった。7月19日、集まった報道陣に『山本氏に何か一言』と求められると、『山本、球団なくなっちゃったよ。ことがことだけに山本だけが責められる問題ではない。この野球を始めたのは僕なので、大好きな野球だけどやめることにしました。ごめんなさい。みんな、ごめん。申し訳ございませんでした』と涙ながらにゴールデンゴールズ球団を解散することを発表した。事件については一切語らず、『野球、大好きだった』とのみ語った。日本野球連盟に球団解散の意思を伝えたのは、会見の8時間前であった。7月21日に球団は山本の登録を抹消し、除名処分にしたと発表した。事件の夜に山本と同席し事情聴取を受け、事件性なしと判断された2選手も当面、謹慎処分とした。
だが解散発表直後から、地元市民による存続署名活動が展開されたことや、各メディアのアンケートなどで存続要望が高かったことなどを受けて、7月22日新潟県でのセガサミーとの試合前に、球場で解散の撤回を発表した。
球団解散の撤回発表の際に、山本に対して「背番号をとったユニフォームを着て、お客さんのいない夜に普通の山本で遊びにおいでよ」と温かい言葉を送り、『ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)のインタビューでは、「問題が解決したら背番号0のボール拾いからやり直しさせる」と山本の更生に関わることを示唆する一方で、チームの大幅なリストラを提示し山本の復帰は無いと発言するなど、山本の球団復帰に対する萩本の考えは流動的と当初見られていた。山本は2007年1月に宮崎県日向のキャンプにアポイントなしで突然訪れ、スタンドから萩本ら球団関係者に謝罪した際は、萩本はグラウンドへ降りる許可は与えたが、優しい口調ながらも困惑の色は隠さずに「今はまだ(復帰には)早いから、帰りなさい」と取り合わなかった。球団関係者の中には「(山本さんが来たことは)記事にもしてほしくない」と激怒する声もあった。
なお、2015年1月に山本が芸能生活復帰ライブを開催した際に萩本が山本に会いに劇場を訪れ、祝いの花を贈ったという報道が一部でされたが、ライブ中の山本の発言を基にした誤報であり、佐藤企画はどちらも否定した。しかし、萩本本人の話により、事務所に山本を呼び、祝儀を渡したことが明かされている。
2010年12月12日に監督を勇退し、後任に片岡安祐美を指名した。
茨城GG監督としての最後の試合は同日平塚球場にて、松坂大輔(MLB・レッドソックス)率いるチーム「サムライ」とのチャリティーマッチ「欽ちゃん・松坂大輔のドンとやるの!」として行われ、約12,000人の大観衆が見守る中、茨城GGは15-12で勝利して有終の美を飾った。
萩本は試合後「本当に幸せでした。野球がこんなに楽しいということを、改めて気づきました。いろんな経験ができました。そして今日、この平塚で、みなさんとさよならできたことも、深く深く思い出に残ります。本当にみなさん、ありがとうございました」と涙ながらに挨拶し、茨城GGナインから胴上げをされた後、平塚球場に集まったファンと触れ合いながら、グラウンドを一周し6年間にわたる監督生活に別れを告げた。
2011年4月12日に行われたプロ野球開幕戦「横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)対中日ドラゴンズ」戦(横浜スタジアム)にて、横浜市長の林文子とともに始球式に登場。萩本は背番号55が付いた横浜のユニフォームを着用し、おなじみの欽ちゃん走りで登場するなり、集まったファンの爆笑と拍手喝采を誘った。
同日、横浜ベイスターズ応援団長の就任を宣言した(こちらも参照)。
2011年4月より、横浜球団と萩本の共同による『欽ちゃん!!横浜ベイスターズ応援プロジェクト』が立ち上げられた。第一弾として、4月の横浜公式戦で特別観戦チケット『欽ちゃんチケット』を販売された。始球式を務めた4月12日の中日戦は横浜が勝利し、以降横浜が健闘したことで、萩本が自ら販売を申し出たという。
(コント55号の出演作はコント55号#映画を参照。)
(コント55号の舞台出演は「コント55号#舞台」参照)
パジャマ党 は、萩本欽一の番組に関わる構成作家集団で、「欽ドン!」などのヒットにも貢献したブレーンでもある。大岩・永井・詩村・鶴間・大倉は『オレたちひょうきん族』の構成にも名を連ね、これをきっかけに萩本以外のタレントの番組にも関わるなど、日本のテレビバラエティ全体に影響力を持つ存在となっていった。構成員のうち、鶴間・大倉・益子・君塚の4名は次世代の集団として「サラダ党」と称していたこともある。萩本自身も「秋 房子(あき ふさし)」の筆名で番組構成にも関わっていた。
秋 房子(あき ふさし)というペンネームについて「番組を女性が書いているものと思わせたかった」とテレビ朝日の開局記念番組である『超大ヒット人気番組ぜ〜んぶ見せます!スペシャル』内で語っていた。実際に視聴者から届いたハガキは女性と思っていた人が多かった。
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