福留 功男(ふくとめ のりお、1942年(昭和17年)1月28日 - )は、日本の男性フリーアナウンサー、タレント、総合司会者、ニュースキャスター、エグゼクティブ・プロデューサー。元日本テレビ エグゼクティブアナウンサー。
高知県香美郡香北町(現:香美市)生まれ。大阪市育ち。血液型はA型。愛称は「トメ」。「トメじじい」と自称したこともある。
大阪市立五条小学校、大阪市立天王寺中学校卒業。中学生時代の部活は最初は演劇部だったが、後に自分で放送部を作って転部。また、同じ頃アイスホッケーにも力を入れていた。
追手門学院高等学校卒業後、医師を目指して大阪大学医学部など何度も医大受験をするも失敗し、2浪の末入った明治大学文学部演劇学科を卒業。大学在学中から日本テレビ報道局でアルバイトを続け(一時は朝日放送東京支社でのアルバイトも掛け持ちしていた)、1966年日本テレビ入社。
報道記者を経て、喋りの上手さを買われ1970年アナウンス部へ異動。初めて顔出しで出演した番組は『新春コロムビア歌謡大行進』。1971年からスタートした『まんがジョッキー』の出演者として知名度を得る。しかし、「このまま子供向けのキャラクターになってしまうのではないか」と危惧を抱き、降板を申し出たところ、会社命令に背いたという名目で、表舞台での仕事を一切剥奪されるというペナルティーを課され、内勤業務へ回される。なお、この間は矢島正明、山田康雄ら有名声優を見習って話術の向上のためのトレーニングと勉強も積んでいたという。
ペナルティーが解かれてからもレギュラー番組を任せられることはなく、単発スペシャル番組のリポーターやバラエティ番組のナレーション程度しか出番がない状態が続いた。当時は麹町の日テレ本社には(シフトの確認、郵便物の受け取り等で)たまに顔を出す程度で、赤坂の東北新社で編集室に缶詰になる毎日だったため、本人は「飼い殺し状態だった」と語っている。
しかし、1977年、特別番組として『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ!!』の企画が社内で持ち上がる。収録の日程上、長期間海外出張できる余裕のあるアナウンサーが必要になり、レギュラーを持っていない福留にお鉢が回ってきた。1986年、ウルトラクイズの司会が評価され、第23回ギャラクシー賞・選奨を受賞。ウルトラクイズがレギュラー化した後に、高校生から「アメリカ横断ウルトラクイズに参加したい」という手紙 を多くもらい、その手紙に応えて福留が企画・誕生させた番組が『全国高等学校クイズ選手権』(高校生クイズ)である。
『アメリカ横断ウルトラクイズ』が年一回のレギュラー番組となり、人気番組に成長するとともに福留の知名度もさらに上昇、先輩である徳光和夫の後を継いで1988年より『ズームイン!!朝!』の第2代総合司会にも就任。自らが災害・事故・事件現場に積極的に赴き、また、番組制作・進行・構成にも深く関与、全国の系列各局との密接な連携などを行った。『ズームイン!!朝!』の視聴率が20%を超えたのも、福留時代だった。日テレアナウンサー時代は、徳光との「トクさん・トメさん」コンビで、バラエティ番組から報道番組、選挙特別番組まで数多くの番組に出演。
福留は徳光を目標、そして鑑として見習って来たが、プロデューサーの佐藤孝吉に「無駄な喋りが多い」と指摘され、そこから、軽妙でバラエティ色が強かった徳光に対し福留は、無駄な言葉や放送中の冗長な演出を一切排し、事実だけを伝えていく道を歩み始める。後年語ったところによれば、佐藤は福留を喫茶店に呼び出し、「調子はどうだ?」と問いかけ、やり取りを繰り返した。帰ろうとしたところ、佐藤は足元にちぎられた紙ナプキンを指さし、「これを拾え」と指示。福留が疑問に思って問うと、「おまえが俺(佐藤)との会話で発した無駄な言葉だ。『そして』『しかし』『えーっと』とか言った言葉だ。それだけ無駄な喋りが多いんだ」と返されたという。1978年12月14日、マーシャル諸島で見つかったゼロ戦を題材とした1時間半の『緊急特報 南の島にゼロ戦15機発見!!』を任された。これはわずかな資料映像をもとにして制作され、本編は福留がカメラに向かって語り続けるというものであった。本番3日前に原稿用紙400枚もの原稿を手渡され、丸暗記して挑んだ。佐藤からは「俺が書いた台本を一字一句間違えずに暗記しろ。そしてそれをお客さんの胸にまっすぐ語り掛けろ。チラッとでも原稿に目を落としたら容赦しない」とも言われていた。ノーミスで乗り切った福留は佐藤から「ぐっと伸びた」と評価される。
担当番組の中には生放送中、台本を一切見ないで2時間単独で喋りっぱなしというものが多いが、福留は毎回、台詞を全て完璧に覚えていたという。
1991年3月31日、日本テレビを退社。クレージーフォーを設立(同事務所は2004年6月30日に解散)。
フリー転身のきっかけは、知り合いの番組制作会社社長から会食に誘われたことである。福留はいつもの2人きりでのざっくばらんな食事の席かと思っていたところ、場違いとも思える座敷に通され中に入ると、既にTBSの役員クラスの人物が2人ほどいたといい、その席で「ブロードキャスター」の司会就任の打診を初めて受けたという。
しかし番組開始までもう時間がなく、日本テレビを退社するにもその後の残務整理などを行うには十分な時間がなかったことから、福留は即答できずいったん持ち帰りとし、局に帰って生みの親ともいえる当時日本テレビの取締役であった佐藤に相談したところ、「俺はそっちのほうがいいと思うよ」と背中を押す返事を貰った。そして佐藤は、「ちょっと待ってろ」と福留に告げると急いで局の全役員に連絡をして 福留の退社に関する話を取り付け、最終的に「ズームイン」の出演もフリーの立場で継続することを条件に円満退社が認められる運びとなったという。福留の「ブロードキャスター」初登場が放送開始から半年遅れなのはこのためである。 以後人気総合司会者として数多くの番組を育て上げてきたが、視聴率の低下や自身の高額ギャラがネックとなり2008年9月をもって全て打ち切りとなった。加えて、1991年に腹腔鏡による胆石手術を受けたことや、心臓の持病の悪化(ペースメーカーが入っており、身体障害者1級認定を受けている)、顔面の左側がベル麻痺になるなど自身の体調不良が続いたこともあり、一線を退く覚悟を決め、身体の負担が少ない単発の仕事を散発的に行うスタンスへ移行していった。
2011年3月3日、全日本空輸(ANA)の国際線25周年とボーイング747-400国際線機材の引退フライト(成田→グアム間)を記念して、サプライズゲストとして機内アナウンスに登場。機内では福留のアナウンスが流れたため、「『アメリカ横断ウルトラクイズ』風の機内ペーパークイズが行われ、ブーブーゲートによる結果発表で敗者になったら、そのまま成田へ強制送還されるのでは?」と、ほとんどの搭乗客は不安がっていたという。実際に福留は、25年前のグアム線初便フライトに搭乗していた。
2011年12月、ニコニコ生放送への初出演を果たし、東日本大震災の震災孤児の実状に迫る番組を放送した。同じく12月19日の『人生が変わる1分間の深イイ話』では、歴代『ズームイン!!』(『ズームイン!!朝!』『ズームイン!!SUPER』『ZIP!』)総合司会者である徳光・福澤・羽鳥・桝太一と共演した(5人が共演するのはこれが初めて)。
体調面での回復と家族の後押しに、自身の心境の変化から2013年からは再び活動を活発化させつつあり、BS朝日で不定期に放映されていた「日本焼き物紀行」で旅人を務めていたが、2013年4月に「留さんのニッポン焼き物紀行」としてリニューアルされ毎月1回の放送となった。2013年10月から2014年10月まで「ザ・スター」(BSフジ)の司会を担当した。
近年はメディアへの登場機会は減少しているが、明治大学の後輩にあたり、『ズームイン!!朝!』で共演をしていた元福岡放送アナウンサーで参議院議員の古賀ゆきひとの後援会名誉顧問を務めており、古賀のYouTubeチャンネルにも出演したりしている。
局アナ時代より多くの発展途上国を取材。その縁で「なんとかしなきゃ!プロジェクト」著名人メンバーでもある。
1990年から東京都と福島県猪苗代町で「二地域居住」を実践している。2005年12月に出演の『ザ!情報ツウ』でその暮らしぶりをホームビデオで紹介したほか、2008年には二地域居住の素晴らしさを紹介する番組『活き活き田舎暮らし』の司会を担当した。
福留が故郷の高知県香美市に2001年から続けた寄付をもとに、2009年4月11日、「香北の自然公園」がオープンされ、開園の式典には福留も出席した。市が香美市立やなせたかし記念館(通称「アンパンマンミュージアム」)に隣接して整備したもので、公園には福留のキャラクターが入った記念碑もある。広さは約3ヘクタールで、市花のアジサイなど約70種類1万4000本が植栽されている。歩道の舗装を市が850万円かけて今後行うほかは、用地取得から植栽まで全て福留の寄付金で賄ったが、寄付額は福留本人の意向で非公表である。
このように福島県と高知県になじみ深いことから、福島県のしゃくなげ大使(2009年3月 - )、高知県の観光特使(2009年4月 - )に任命されている。
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