桜島駅(さくらじまえき)は、大阪府大阪市此花区桜島一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)桜島線(JRゆめ咲線)の駅。駅番号はJR-P17。桜島線の終着駅である。
桜島駅の元になった天保山駅(てんぽうざんえき)を建設したのは、大阪駅から西九条駅を経由して天保山駅へ至る鉄道を建設した、私鉄の西成鉄道であった。
しかし、日露戦争に伴う軍事輸送の増大などもあり、安治川口駅から天保山駅へ至る区間を建設中の1904年(明治37年)12月1日に、西成鉄道の全線を国有鉄道が借り受けて運営するようになった。この借受後、1905年(明治38年)4月1日に安治川口 - 天保山間1.0マイルが開業するが、開業と同時に国有鉄道借受となって営業された。日露戦争後、1906年(明治39年)12月1日に正式に国有化されて、国有鉄道西成線の駅となった。なお、駅所在地は当時すでに築地改め桜島町という町名になっていたが、駅名は安治川対岸にある著名な天保山から採られた。
天保山駅は現在の桜島2丁目、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのラグーンのあたりに位置しており、安治川岸からやや離れる天保山駅は船車連絡上不便であった。安治川岸に大阪鐵工所(のちの日立造船)がすでに立地していたためこのような位置での開業となったが、天保山駅開業時はまだ埋立造成中であった現在の桜島3丁目の造成が成ると、天保山駅の側線上約0.3マイル先の地点に新たに桜島駅を1910年(明治43年)4月15日に開設し、天保山駅は廃止となった。
頭端を桜島岸壁へ向けた桜島駅の開設後は、岸壁から陸揚げされる石炭・塩・輸入石油類・穀物・木材・肥料などの貨物を発送する拠点として利用されるようになった。1930年(昭和5年)1月には、鉄道省自身が付近に石炭専用岸壁を設置し、国鉄用の配炭基地とした。これにより石炭の輸送量も急増した。この頃には,辺りの岸壁や工場などに多くの専用線が張り巡らされ、一大貨物輸送基地となっていった。大阪港の特性上、各地から大阪港へ到着する貨物を後背地の工場や市場へ送り出す輸送が多く、戦時期をのぞいては, ほぼ一貫して発送量のほうが圧倒的に多い駅であった。
第二次世界大戦においては軍事輸送の増大から貨物輸送量が急激に増大したが、戦況の悪化に伴い、1944年(昭和19年)頃からは一転して激減するようになった。1945年(昭和20年)7月24日には空襲を受け、職員16名が死亡し、駅舎などが大きく損壊した。この復旧作業には1947年(昭和22年)5月までかかった。
旅客輸送においても、付近の軍需工場への通勤客の増大により、一時は1日5万人を超える乗降客を数えた時期もあった。大戦後は付近の日立造船への通勤客や港湾関係者などが利用し、これによりラッシュ時と閑散時の差が激しい駅であった。
こうして大阪港に関する貨物輸送で大きな役割を果たしてきた桜島駅であったが、モータリゼーションが進むにつれて鉄道貨物の凋落が顕著になり、1973年(昭和48年)3月には国鉄貯炭場も廃止となった。桜島駅における貨物取り扱いの廃止は、1986年(昭和61年)9月に国鉄から大阪市に打診され、10月一杯で貨物扱いを廃止した。跡地は日本国有鉄道清算事業団が引き継いで施設の撤去作業を行い、1988年(昭和63年)3月までにすべての用地を大阪市に返還した。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎は1番線の線路を挟んでホームの反対側に位置しており、ホームへは跨線橋で連絡している。また、2009年まで設定されていたユニバーサルシティ駅発着の北陸方面臨時特急は当駅まで回送電車として折り返す形式をとっていた。朝方を除く時間帯は1番のりばの折り返しであり、2番のりばにはシャトル列車が1編成留置している。
JR西日本交通サービスによる業務委託駅(西九条駅の被管理駅)で、自動券売機・自動改札機が設置されている。2015年3月にみどりの窓口が営業を終了し、みどりの券売機プラスが稼働した。
ICOCA利用可能駅。また、当駅発着の長距離乗車券に際するJRの特定都区市内制度における「大阪市内」に属する駅である。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は13,072人である。
近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
大阪シティバス・北港観光バスの路線が発着する。
桜島駅前(大阪シティバス)
JR桜島駅前(北港観光バス)
関西空港交通・大阪バスの路線が発着する。
リーベルホテル エントランス(関西空港交通)
桜島駅(大阪バス)
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