フィル・リード(Phil Read)ことフィリップ・ウィリアム・リード (Phillip William Read、1939年1月1日 - 2022年10月6日)は、イングランドのルートン出身の元オートバイレーサーである。ロードレース世界選手権で活躍し、通算7度の世界タイトルを獲得した。
同時代に活躍したマイク・ヘイルウッドらの影に隠れがちであるが、グランプリ史上初めて125cc、250cc、500ccの3クラスでワールドチャンピオンになるという偉業を成し遂げたライダーである。
1964年、ヤマハのマシンで250ccクラスに参戦し、自身初のタイトルを獲得すると、翌年も続けて250ccクラスチャンピオンとなる。1966年はヤマハが新たに開発した4気筒エンジンのマシンの熟成が進まず、マシントラブルに悩まされてマイク・ヘイルウッドにタイトルを譲ることになった。そして1967年、リードとホンダの新型6気筒マシンに乗るヘイルウッドの熾烈なタイトル争いはお互い一歩も譲らず、最終戦終了時点で両者とも50ポイントと全く同点で並んでいた。結局、リードのシーズン4勝に対してヘイルウッドが5勝を挙げていたことが決め手となり、この年のタイトルはヘイルウッドのものとなった。
1968年は大きな物議を醸したシーズンとなった。この年のヤマハ・ファクトリーの戦略は、リードには125ccクラスタイトルに専念させ、250ccクラスではチームメイトのビル・アイビーのタイトル獲得をサポートさせるというものだった。ところがリードは、順当に125ccクラスのタイトルを獲った後、チームオーダーを無視して250ccクラスのタイトルも手にすることを決心した。これは、ヤマハがこの年限りでワークス活動を撤退することを察知したリードが、タイトル獲得の最後のチャンスであるかもしれないと考えての行動であった。その結果リードとアイビーは全くの同ポイントでシーズンを終え、レースタイムの合計で勝敗を決するという判定によりタイトルはリードのものとなったのである。この一件に憤慨したアイビーは4輪レースに転向し、ヤマハは予想通りこの年をもってワークス活動を休止すると同時にリードに対するサポートを打ち切った。
レギュレーションの変更によって多気筒マシンが締め出され、結果として日本の有力ファクトリーがグランプリから撤退した1969年と1970年、リードはイギリス国内選手権に活動の場を移し、グランプリにはスポット参戦するにとどまった。そして1971年、ファクトリーのサポートを全く受けない完全なプライベーターとしてグランプリに帰ってきたリードは、ヘルムート・ファスによる徹底的なチューニングを受けたヤマハの市販マシンで通算5度目のタイトルを獲得するという快挙を成し遂げた。
1972年、MVアグスタのファクトリーに迎え入れられたリードは、1973年、長年MVアグスタのエースとして君臨していたジャコモ・アゴスチーニを打ち破ってついに最高峰500ccクラスのタイトルを獲得する。そして続く1974年もタイトル防衛に成功し、この数々の栄光を打ち立てたイタリアのメーカーに最後の栄冠をもたらした。これは同時に4ストロークエンジンのマシンによる500ccクラス最後のタイトルでもあった。これ以降4ストロークのマシンによるタイトル獲得は、2002年のMotoGPクラスの開始まで待たなければならない。
1975年は前年にヤマハに移籍したアゴスチーニと熾烈なタイトル争いを最後まで繰り広げたが、ランキング2位に終わった。もはや4ストロークのマシンでは太刀打ちできないことを悟ったリードはMVアグスタと袂を分かち、1976年はスズキの市販マシンでプライベーターとして参戦する。しかしスズキワークスのバリー・シーンにポイントで大差をつけられたリードは、シーズン半ばにして突如グランプリからの引退を発表した。
グランプリから身を引いたリードは、イギリスの国内レースや耐久レース、そして自身が先頭に立ってその危険性を糾弾していたマン島TTレースなどに出場した。しかしマン島レースの出場は大きなブーイングを受けた。中には「転倒しても救助しない」と彼を嫌うオフィシャルもいた。リードの現役最後のレースは1982年、43歳で挑戦したマン島であった。
2002年、MotoGP殿堂入りを果たした。
2022年10月6日、息子のフィル・リード・ジュニアにより死去が公表された。83歳だった。
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