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カペー朝


カペー朝


カペー朝(カペーちょう、フランス語: dynastie des Capétiens)は、中世フランス王国の王朝。987年から1328年まで続いた。

西フランク王国のカロリング朝の姻戚関係にあり、カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで15代の王が続き、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまでフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出ており、男系継承を長期に亘って維持した。現在のスペイン王家(スペイン・ブルボン家)の祖先(男系)であり、現在のルクセンブルク大公家も男系ではカペー家の流れをくむ。

歴史

成立

987年、西フランク王国の国王ルイ5世の死去によりカロリング朝は断絶した。このため、諸侯の推挙により、フランス公兼パリ伯で、ロベール家の出身者であるユーグ・カペーが国王として推挙され、フランス王として即位することとなった。

しかしカペー朝は国王の権力基盤が非常に弱く、各地に伯(コメス)と呼ばれる諸侯たちが割拠しており、さらに隣国・イングランドの王位を持つノルマンディー公家(後にプランタジネット家)による圧迫を受けてフランスの領土の大半を支配されていた。国王はパリを中心とするイル=ド=フランスを抑えるのみで、王としての権威の他にはほとんど実効的な権力をもたなかった。

王権の強化

そのような中で、12世紀前半のルイ6世の時代から王権の強化が始まり、1180年、カペー朝の第7代国王として即位したフィリップ2世(尊厳王)は、国王の権力を強化することに成功した。そしてリチャード1世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーやアンジューを奪い、一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。また、内政においても大学の設置や人材登用など、パリの発展に尽くすなどして、その後におけるフランス王国の基礎を作り上げた。

このような12世紀からの東フランク王国に並ぶ王権の強化はカペーの奇跡と呼ばれる。カペーの奇跡においてどのようなことがおきたかというと生物学的な要因で言うと「カペー朝の歴代の王は比較的長命で個人的資質もあり、そのうえ、すべて男子後継者に恵まれていたため、生前中に後継者を決めることができた」というもの、経済面で言うと「カペー朝の本拠地であったイル=ド=フランスが経済的に豊かなため、都市から貨幣を調達することが容易なこと」や政治面では「法曹家という新たな知識人を作りそれを王の側近に置いた」「巧みな政略結婚」や、「イングランド王室での内部抗争などを利用」することにより王権は発展した。また柴田三千雄は王権の強化で貢献した人物としてフィリップ2世、ルイ6世、フィリップ4世をあげている。

また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、第7回十字軍・第8回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。

14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図ったフィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。代わってフランス人のクレメンス5世を教皇に擁立すると、フィリップ4世はテンプル騎士団の資産に目をつけ、異端の濡れ衣を着せてこれを解散させ資産を奪った。

その後、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。

断絶

こうしてカペー朝は絶対主義への道筋を開いたが、第15代国王シャルル4世が1328年に死去すると、直系男児の後継ぎがいなかったことから王朝としては断絶し、ヴァロワ朝に道を譲った。

フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。しかし、フィリップ4世の娘イザベルとイングランド王エドワード2世の間に生まれたエドワード3世がカペー家の相続を主張してフランスへ侵攻し、ここに百年戦争が勃発することになる。

その後、フランス王位はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー家の男系支族である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続いているといえる。

また、1204年のコンスタンティノープル征服後に建てられたラテン帝国の皇帝家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国・ハンガリー王国・ポーランド王国を支配したアンジュー=シチリア家もカペー家の分家である。現在でもスペイン王家はルイ14世の男系の血を引くブルボン家であり、ルクセンブルク大公家は男系ではブルボン家の血筋であるので、その意味でカペー家はなおも存続しているといえる。

カペー家の嫡流の地位は、アンリ・ダルトワ(アンリ5世)没後はボルボン家(スペイン・ブルボン家)のカルリスタに継承され、その後はスペイン国王アルフォンソ13世(アルフォンス1世)の次男セゴビア公ハイメ(アンリ6世)の系統に引き継がれ、現在はアンジュー公ルイス・アルフォンソ(ルイ20世)が有している。ただし、これはレジティミストの主張による。

カペー朝と白百合の紋章

フランス王室の紋章として有名な白百合の紋章は、メロヴィング朝のクローヴィス1世がアラン族との戦いの際に、天使から百合を授けられたことに由来すると言う。本格的に使用されるようになったのはルイ9世の頃からで、以後ブルボン朝崩壊に至るまで使用された。フランス第二帝政崩壊後の王政復古模索の際、正統派とオルレアン派の折り合いが成功しなかった原因の一つに、白百合の紋章を巡る問題があったことはよく知られている。

また、上記のフランス王家以外のカペー家の分家でも白百合の紋章が使われていた。現在でも、ブルボン家を王家とするスペインの国旗に白百合の紋が描かれている他、フランス系カナダ人の住民が多いカナダ・ケベック州の州旗、かつてハンガリー・アンジュー家の影響下にあった国々であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国旗及びセルビアの国旗にも描かれている。

歴代国王

  • ユーグ・カペー(987年 - 996年)
  • ロベール2世(敬虔王 le Pieux 996年–1031年)
  • アンリ1世(1031年–1060年)
  • フィリップ1世(好色王 le amoureux 1060年–1108年)
  • ルイ6世(肥満王 le Gros 1108年–1137年)
  • ルイ7世(若王 le Jeune 1137年–1180年)
  • フィリップ2世(尊厳王 Auguste 1180年–1223年)
  • ルイ8世(獅子王 le Lion 1223年–1226年)
  • ルイ9世(聖王 1226年–1270年)
  • フィリップ3世(豪胆王 le Hardi 1270年–1285年)
  • フィリップ4世(端麗王 le Bel 1285年–1314年)
  • ルイ10世(喧嘩王 le Hutin 1314年–1316年)
  • ジャン1世(遺腹王 le Posthume 1316年)
  • フィリップ5世(長躯王 le Long 1316年–1322年)
  • シャルル4世(端麗王 le Bel 1322年–1328年)

脚注

出典

参考文献

関連項目

  • カペー家
  • フランス君主一覧
  • フランス王国
  • ナバラ君主一覧
  • ナバラ王国
  • フルール・ド・リス

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: カペー朝 by Wikipedia (Historical)



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