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スペンサー・トレイシー


スペンサー・トレイシー


スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy, 1900年4月5日 - 1967年6月10日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の俳優。愛称はスペンス。

生涯

父は自動車工場の重役。喧嘩っ早さや気の強さはアイリッシュの父親譲りで、喧嘩に明け暮れた少年時代を過ごす。その結果、何度も放校処分になり、高校を卒業するまでは15回も学校が変わったという。

俳優のパット・オブライエンとは幼馴染で、1917年にアメリカ海軍に入ったときも年齢を偽って一緒だった。その後は実際に戦場に行くことはなく、除隊後は医者をめざしてウィスコンシン州のリポン大学で学ぶも、大学の弁論部で熱弁をふるううちに演劇に興味を持ち、学生演劇に参加。さらに卒業後はオブライエンと共同生活をしながらニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学ぶ。セールスマンや掃除人で生活費を稼ぎながら、1923年にブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役で舞台デビュー、その後は舞台『A Royal Fandango』でエセル・バリモアと共演して一躍注目を集めたのを初め、主にブロードウェイで活躍した。また、1923年には女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し、息子ジョン(後にディズニーでアニメ制作にかかわる)と娘ルイーズをもうけるが、親しい友人としてつきあいもしつつ晩年は別居していた。

1929年、死刑囚に扮したブロードウェイのヒット作『The Last Mile』で評判をとる。この年にはニューヨークで製作された3本の短編映画に出演、映画俳優になるため各スタジオのスクリーンテストを受けるが、当時のハリウッドとしてはお世辞にも美男子とは言えなかったスペンサーはお呼びではなかった。映画界入りの夢を果たせないままに見えたが、『The Last Mile』の舞台に出演していたところを監督のジョン・フォードに見出され、同年に映画『河上の別荘』に主役として抜擢。同時にフォックス社と契約するが、やはりその顔立ちから悪役ばかりやらされ、順調な滑り出しとは言えなかった。しかし、1933年の『春なき二万年』に出演した頃から演技が認められるようになり、『力と栄光』ではたたき上げの鉄道王役を評じる。特にロレッタ・ヤングと共演した『青空天国』では彼女との仲が話題にもなった。その後の5年間で25本もの映画に出演し、1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、1936年のフリッツ・ラング監督による『激怒』や、1937年のアカデミー主演男優賞に初ノミネートされたパニック映画『桑港(サンフランシスコ)』などに出演。そして1937年のポルトガル人漁師を演じた『我は海の子』と1938年の実在するフラナガン神父を演じた『少年の町』で2年続けてアカデミー主演男優賞を受賞。この2年連続受賞の快挙はこの57年後に『フィラデルフィア』と『フォレスト・ガンプ/一期一会』でトム・ハンクスが受賞するまで唯一の事だった。これを機に一躍人気スターとなり、マネー・メイキング・スターに仲間入りも果たす。またこの頃、ロス五輪の馬術金メダリストだった西竹一とも親交があった。

1941年にはキャサリン・ヘプバーンとの絶妙なコンビネーションで話題を呼び『女性No.1』がヒット。キャサリンとはこの共演がきっかけで交際するようになり、二人はスペンサーの遺作となった『招かれざる客』まで9本の映画で共演するが、トレイシーはカトリックであり、最初の妻と離婚しなかったため(ルイーズが障害のある息子を育て上げたことに、トレイシーは生涯申し訳なさを感じていた)二人は結婚しなかった。1940年代は映画会社の上層部と何度かトラブルを起こし、あまり作品に恵まれなかったが、1950年の『花嫁の父』がヒット、アカデミー主演男優賞にもノミネートされ、また翌1951年に続編『可愛い配当』が製作された。その後の主な作品に、1954年の異色ウェスタン『折れた槍』、翌1955年のカンヌ国際映画祭最優秀演技賞を受賞した『日本人の勲章』、1958年にはほとんど一人芝居で演じたアーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』と、全米批評家協会賞を受賞した『最後の歓呼』、1961年のナチ戦犯を裁く裁判長を演じた大作『ニュールンベルグ裁判』などが挙げられる。1963年の『おかしなおかしなおかしな世界』への出演以降、晩年は心臓を悪くし、ルイーズとキャサリンで交代に看病していたが、1967年に『招かれざる客』の撮影が終了した17日後に心臓発作で死去。スペンサーの死を看取ったのは晩年をパートナーとして過ごしたキャサリンだったが、「ルイーズに申し訳ない」との理由から葬儀へは出席しなかった。その緻密な演技は現在に至るまで多くの俳優の目標になっており、アカデミー賞は受賞を含めてノミネート回数9回という輝かしい記録を持つ(2010年現在、男優ではジャック・ニコルソンの主演・助演含めて12回が最高記録)。

人物

誠実で温厚な人格者の役柄を数多く演じたのとは対照的に、スペンサー本人は大変な自信家で、気も強く、荒々しい気性の持ち主だったことから映画会社の首脳部と衝突することも多かった。実際に、フォックス社を退社した時もその気性の荒い性格から「こんな愚作に出られるか!」と新人であったにもかかわらず、『舗道の殺人』の企画に平気で文句をつけて、監督のティム・ウィーランと殴り合いの喧嘩をするわ、暴れてセットを壊すわ、酔っ払って喧嘩しては逮捕される事も珍しくなかったため、手を持て余したFOXに助演格に落とされたのにスペンサーが怒り、結局は出演拒否したのが原因で解雇されたからであった。

またその一面を象徴するエピソードとして、キャサリンが『女性No.1』の撮影中にスペンサーと初めて会った際、「私ちょっと背が高すぎるわね、って言いましたら、心配するな、じきに僕に合うように小さくしてやるよ、と言うんですよ」とキャサリンはのちに語っている。また仲が良かったものの、同じMGMのトップスターの座を巡っては、敵愾心を見せる仲だったライバルでもあるクラーク・ゲーブルも、スペンサーに対し「あいつはいいやつだ。この世界で彼にかなう奴はいないよ。彼と競争しようという奴はバカだ。あいつはそのことを自分でも知っているんだ。だから彼の謙遜した口ぶりにだまされちゃいけないよ」と語っている。

自信家の一方、演技者としての実力も誰もが認めるところで、その自然体の演技は内外を問わず多くの俳優に影響を与えた。親友のハンフリー・ボガートも「スペンスの演技は最高だった。彼がどう演じているのか、その仕掛けはまるで見えなかったからね」とコメントを残している。

晩年に『風の遺産』、『ニュールンベルグ裁判』、『おかしなおかしなおかしな世界』、そしてスペンサーの遺作となった『招かれざる客』などでコンビを組んだスタンリー・クレイマーは、荒々しいスペンサーを『レイジング・ブル(怒れる雄牛)』とまで呼んだ。

スペンサーの死後、キャサリンは彼との思い出を次のように語っている。「スペンサーはいつでも、男が生活費を稼ぐための仕事としては、俳優というのはちょっと馬鹿げた仕事だって考えてたと思うわ。彼は古い樫の木のような人、あるいは夏の風のような人。いずれにしろ男が男だった時代の人だった」。また、お互いの関係について、「アメリカで理想の男性といえばスペンサーよ。私は意地悪いことを言ったり、彼をじらしたり、一杯食わせてみたり、女そのものを演じていたわ。でも、彼がホンキで怒ればすぐ降参。男と女のロマンチックで理想的な関係というのはこういうものなのよ」と語っていた。

出演作品

受賞歴

参照

参考文献

外部リンク

  • スペンサー・トレイシー - allcinema
  • スペンサー・トレイシー - KINENOTE
  • Spencer Tracy - IMDb(英語)
  • Spencer Tracy - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: スペンサー・トレイシー by Wikipedia (Historical)