内藤 武敏(ないとう たけとし、1926年〈大正15年〉6月16日 - 2012年〈平成24年〉8月21日)は、日本の俳優、ナレーター。本名は同じ。
福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。旧制常磐中学校(現・常磐高等学校)、日本大学予科卒業。劇団民藝、其田事務所を経て、さいど事務所に所属していた。
血液型はAB型。身長165cm、体重60kg。
映画制作を志し、俳優養成所へ入所。当初は演出家希望だったが、指導者の勧めで演劇コースへ進む。
1950年、宇野重吉・加藤嘉・北林谷栄・鈴木瑞穂らと共に劇団民藝の創立に参画するも、1970年に退団。
1952年に公開された吉村公三郎監督の『暴力』でスクリーンデビュー。
大河ドラマへ多数出演したほか、山口百恵主演の赤いシリーズでは3作品でナレーションを担当していた。
武田泰淳『ひかりごけ』(1954年刊)を、壮年期に読み映画化を長年切望し、友人である三國連太郎が主演を快諾し、親交の深い熊井啓を監督に、1992年に公開を実現させた。同作品はベルリン国際映画祭に正式出品されるなど、高い評価を受けた。
ロバートの馬場裕之は縁戚にあたる。
2012年8月21日午前10時10分、悪性リンパ腫により神奈川県横浜市の病院で死去。86歳没。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou