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第一次世界大戦


第一次世界大戦


第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I、略称:WWI)は、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で行われた世界規模の戦争である。

7000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万人)が動員され、世界史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。

戦争が長引いたことで、各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年に第二次世界大戦が勃発した。

戦争は全世界の経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。

諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国は連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する。

名称

第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった。あるいは、欧州大戦 (War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end war) という表現もあった。主に第一次世界戦争First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降である。

このうち「世界戦争」 (ドイツ語: Weltkrieg) という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策」 (Weltpolitik) の存在などがあったという。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった。

「第一次世界戦争」 (First World War) という用語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争 (the first world war) 』となるだろう」と述べた時だった。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した。

一方、「大戦争」 (英語: Great War, フランス語: la Grande Guerre) という用語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌が「大戦争」 (Great War) とした。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという。

歴史家のガレス・グロヴァーは著書の『100の物が語るウォータールー』 (Waterloo in 100 Objects) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争とナポレオン戦争を意味した」と述べた。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』 (William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。

木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという。

略史

戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエボ事件)だった。

これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。

まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。

ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月のマルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。

ロシアでは1917年3月に2月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。

戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。

1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立された。

軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた(軍事技術も参照)。

背景

政治と軍事同盟

19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にプロイセン王国がドイツ統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の間での三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった。1882年にはチュニジアを巡るフランスとの対立から、イタリア王国が加入して三国同盟となった。またアジアにおいては、1902年に日本とイギリスが日英同盟を締結した。

ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後に、ロシアは三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟を締結した。またイギリスも、1904年にフランスと英仏協商を、1907年にロシアと英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた。

軍備拡張競争

普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した。

その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇した。

バルカン半島の紛争

オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を沸騰させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った。

1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャをルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった。

列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。

開戦

サラエヴォ事件

1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエヴォを訪問した。

ユーゴスラヴ主義組織青年ボスニアからの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチ、ガヴリロ・プリンツィプ、ムハメド・メフメドバシッチネデリュコ・チャブリノヴィッチ、トリフコ・グラベジュ、ヴァソ・チュブリロヴィッチ)はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。

フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエヴォ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公の妻ゾフィー・ホテクを射殺した。

オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマンは後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」と。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けて、怯えた。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの騒動

オーストリア=ハンガリー当局は、サラエヴォの反セルビア暴動を煽動した。その結果、サラエヴォではボスニア系セルビア人2人がボスニア系クロアチア人とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。

セルビア人に対する暴力はサラエヴォ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「保護団体」も設立され、セルビア人を迫害した。

七月危機

暗殺事件により、七月危機と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。

オーストリア=ハンガリーはセルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした。7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアへ犯人の黒手組を調査させるべく10点の要求を突き付けた。セルビアは25日に総動員したが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第五条と、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条除いて最後通牒の要求を受諾した。

その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。

7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。

ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。

8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した(午後11時に発効)。

1914年の戦闘

中央同盟国の緒戦での混乱

中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア侵攻を支援すると確約していた。今まで使われた兵力展開の計画は1914年初に変更されたが、新しい計画は実戦で使われたことがなかった。

オーストリア=ハンガリーはドイツが北側でロシア軍の対処にあたると考えたが、ドイツはオーストリア=ハンガリーが軍の大半を対ロシア戦に動員し、ドイツ軍はフランス軍の対処にあたると考えた。この混乱によりオーストリア=ハンガリー陸軍は対ロシアと対セルビアの両前線で軍を分割せざるを得なかった。

1914年のセルビア戦役

オーストリアは8月12日からセルビアに侵攻。ツェルの戦い、続いてコルバラの戦いでセルビア軍と戦った。侵攻開始からの2週間で、オーストリア軍の攻勢は大損害を受け撃退された。これは第一次世界大戦における連合国軍の最初の重要な勝利となり、オーストリア=ハンガリーの迅速な勝利への希望を打ち砕いた。

その結果、オーストリアはセルビア戦線に大軍を維持しなければならず、対ロシア戦役に投入できるオーストリア軍が弱体化することとなった。セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つといわれた。

セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった。

12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍のクラクフへの進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけてカルパティア山脈の冬季戦役が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した。

西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行

ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、ドイツ第10軍団はベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12要塞はすぐには陥落しなかった。

ドイツはディッケ・ベルタという攻城砲を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾がロンサン砦の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた。

第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くのヴィゼ、ダレムバティスで起きたことだった。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由はフラン=ティルールによるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナンタミーヌアンデンヌ、アールスホットで起きた。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり、またレーヴェンの破壊でドイツは国際世論の非難を受けた。これらの戦争犯罪はイギリスのプロパガンダで真偽まじりで宣伝され、「ベルギーの強奪」という語が生まれた。

ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、ロレーヌでの中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌの奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までにドラー川沿岸とヴォージュ山脈の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮したルイ・ボノーはジョフルに解任された。

ジョフルは当初プラン17の遂行に集中して、フランス兵170万を5個軍に編成、ドイツによるベルギー攻撃を顧みなかった。だがドイツ軍の行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、シャルル・ランレザック率いるフランス第5軍を北西部に派遣した。ちょうどフランスに上陸した、ジョン・フレンチ率いるイギリス海外派遣軍はモブージュの北でフランス軍と合流した。フランスの攻勢は8月14日に始まり、オーギュスタン・デュバイ率いるフランス第1軍エドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー率いるフランス第2軍は国境を越えてサールブールに進軍、ループレヒト率いるドイツ第6軍第7軍は戦闘を回避した。

8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くもブリュッセルとナミュールに押し寄せると、ベルギー軍の大半はアントウェルペンの要塞に退却、そこから2か月間にわたるアントウェルペン包囲戦が始まった。20日、フランス軍は本命となるロレーヌとザールルイ地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。

こうして、ザールブルク、ロンウィ、アルデンヌの戦い、マース川、サンブル川とマース川の間、モンスという長大な前線で国境の戦いと呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出した。死傷者の多くは機関銃によるものだった。

フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかし、フランス軍は紀律を保ち、ロレーヌではムルト川の後ろ、ナンシー周辺の要塞群に退却。フランス北部でもマース川の後ろにあるヴェルダン要塞を保持したため、大部隊がドイツに包囲されて失われるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンはシュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう小モルトケに求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった。

左翼の英仏軍は大撤退を開始、ル・カトーの戦い(8月26日)やサン=カンタンの戦い(8月29日)を間に挟んで撤退を続け、それを追撃するドイツ軍右翼はパリへと接近した。フランス政府は9月2日にパリからボルドーに疎開し、パリの守備は既に引退していたジョゼフ・ガリエニが現役復帰して担当した。フランス軍右翼と予備軍から兵士が引き抜かれてミシェル=ジョゼフ・モーヌリー率いるフランス第6軍 に編成され、ドイツ軍への側面攻撃でその進軍を脅かした。フェルディナン・フォッシュ率いる第9軍は中央部に投入された。ジョフルはマルヌ川を合流地点として撤退を停止、そこから反転してドイツ軍に攻撃するという計画を立てた。

迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍は進軍の速度を保ちながら南西と南に方向転換した。そのうち、アレクサンダー・フォン・クルック率いる第1軍は8月20日にブリュッセルを占領した後、フランス軍とイギリス海外派遣軍を追撃した。前線が拡大するにつれて、ドイツの攻勢の奇襲性が失われ、ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて、ドイツ軍の連絡線が伸び、フランス軍の連絡線が縮んだのだった。8月末にはドイツ軍の歪んだ前線が崩壊直前にまでなり、右翼も反撃を受けて南と南東に向けて方向転換した。そして、パリの包囲計画は8月30日に放棄され、その報せは9月3日にジョフルに届けられた。

当時ルクセンブルクにいたドイツ軍最高司令部には前線の情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線を使用した通信も技術が整っておらず、飛行隊からの報告はしばしば無視された。ドイツ第1軍32万人は強行軍してイギリス海外派遣軍を封じ込もうとしたが、その過程で自軍の西側の守備を無視してしまった。東部戦線に2個軍団を割いたこと、アントウェルペン包囲戦モブージュ包囲戦に軍を割いたこと、行軍と戦闘による損害、補給の不足により第1軍は停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた。

9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まった(第一次マルヌ会戦)。ドイツ第1軍は命令に違反して9月5日にマルヌ川の南側に進軍、パリ周辺のル・プレシ=ベルヴィルモルトフォンテーヌ、モーまで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由はドイツ第1軍と第2軍の間に40kmの隙間が生じ、英仏軍が9月8日の正午近くにそこに雪崩れ込んだためであった。ドイツ前線の連絡はおぼつかず、ドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威が増大したため、第1軍と第2軍の視察を命じられていたリヒャルト・ヘンチュ中佐は撤退を決定した。

撤退の必要性、特に第1軍の撤退は後に疑問視されたが、通説ではホルガー・アッフレルバッハが述べたように、「撤退は作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響は致命的だった」。シュリーフェン・プランは失敗に終わり、アルザス=ロレーヌでフランス軍を圧迫することも失敗した。9月9月、小モルトケは手紙でこう綴った:

モルトケは神経衰弱をきたし、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが後任の参謀総長となった。ドイツ第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ軍がエーヌ川の後ろに撤退したことで9月13日に第一次エーヌ会戦が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ軍はエーヌ川の後ろに撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス軍が反撃したが、戦況が膠着した。ドイツ軍の撤退はフランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判を受けた。ファルケンハインは帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに対し、シュリーフェン・プランが失敗した後の軍事情勢をドイツ国民に説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。

ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの海への競争において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から北海沿岸のニーウポールトまで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながらリール、ヘント、ブルッヘ、オーステンデを占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北のフランドルに移り、英仏海峡に面するカレーとダンケルクを経由するイギリスからの増援は中断された。

9月17日、イギリスの代表的作家53人が首都ロンドンにおいて声明『イギリスの戦争の擁護』を出した。10月4日、ドイツ大学人による『93人のマニフェスト(文化的世界へ訴える)』が出された。10月16日にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3千人が連名で『ドイツ帝国大学声明』を出して大戦を「ドイツ文化の防衛戦」として正当化した。イギリスなどの学者は10月21日に米紙『ニューヨーク・タイムズ』上でドイツ大学人への返答を出した。

10月20日から11月18日まで、イーペルで激しい戦闘が起こり(第一次イーペル会戦)、大急ぎで投入されたドイツの予備部隊はランゲマルクとイーペルで大損害を受けた。訓練も経験も不足していた予備軍の士官が若い兵士(15歳の兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害を出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、ランゲマルクの神話が作られ、軍事上の敗北を道徳上の勝利として解釈する、第一次世界大戦における初の事例となった。同盟軍はイギリスの補給港であるブローニュ=シュル=メールとカレー、および鉄道の中心地であるアミアンをドイツ軍から守ることに成功した。

行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な塹壕線を掘り、戦闘は塹壕戦に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海からスイス国境(第一次世界大戦下のスイスも参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた。

ファルケンハインは11月18日にベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、三国協商との戦争は勝ち目がなくなったと通告して、外交を通じた終戦を求めた。彼はイギリスとの講和は不可能と考え、それ以外の交戦国と単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。ベートマン・ホルヴェークが拒否したのは占領地を手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。パウル・フォン・ヒンデンブルクもエーリヒ・ルーデンドルフも敵を全滅させるという立場を崩さず、勝利の平和を可能であると判断した。結局、首相と軍部は世間からマルヌ会戦とイーペル会戦の敗北を隠蔽して戦闘を継続したため、政治と軍事情勢が政治と経済のエリート層の戦争目標への望みと乖離していき、戦中と戦後の社会闘争につながった。

11月、イギリス海軍は北海全域を交戦地帯と定め、海上封鎖を敷いた(ドイツ封鎖)。中立国の旗を掲げる船舶でもイギリスに警告なしで攻撃される可能性が出たが、イギリス海軍のこの行動は1856年のパリ宣言に反するものだった。

1914年の東部戦線

ロシアの2個軍はシュリーフェン・プランの仮定と違って、開戦から2週間で東プロイセンへの侵攻を開始したため、東部戦線の情勢はドイツにとって厳しいものだった。ドイツはシュリーフェン・プランにより西部戦線に集中したため、東部戦線では守備態勢をとった。そのため、ドイツはロシア領ポーランドとの国境地帯にあるいくつかの町を占領したに留まり、1914年8月のカリシュの破壊がその一環となった。8月20日のグンビンネンの戦いの後、東プロイセンを守備するドイツ第8軍は撤退、東プロイセンの一部がロシアに占領された。

その結果、東部戦線のドイツ軍は増援され、新たにパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が司令官、エーリヒ・ルーデンドルフ少将が参謀長に就任した。2人は8月末のタンネンベルクの戦いに勝利、アレクサンドル・サムソノフ率いるロシア第2軍をほぼ全滅させて東プロイセンを確保した。続く9月の第一次マズーリ湖攻勢でもパーヴェル・レンネンカンプ率いるロシア第1軍が敗北したため、ロシア軍は東プロイセンの大半から撤退した。

8月24日から9月11日までのガリツィアの戦いの後、ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領ガリツィア・ロドメリア王国を占領した。オーストリア=ハンガリー軍はガリツィアの首都レンベルクを攻撃した後、ロシア軍が人数で圧倒的に優位にあったため撤退を余儀なくされた(レンベルクの戦い、8月26日 - 9月1日)。ロシアによる第一次プシェムィシル包囲は9月24日から10月11日まで続いた後、一旦解かれた。オーストリア=ハンガリー軍を救うべく、新しく編成されたドイツ第9軍ポーランド南部攻勢を開始したが失敗した。11月1日、ヒンデンブルクがドイツ軍総指揮官に任命された。11月9日、第二次プシェムィシル包囲が開始、オーストリア=ハンガリーの駐留軍は1915年3月22日まで耐えた末に降伏した。ドイツのウッチ地域における反攻は11月11日に開始、12月5日まで続き、その後はロシア軍が守備に入った。

オスマン帝国の参戦

ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団とバグダード鉄道の建設により、オスマン帝国はドイツに接近した。さらに、オスマン帝国はイギリスに戦艦スルタン・オスマン1世とレシャディエを注文しており、代金も支払っていたが、イギリスは開戦直後の1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権を握っていた青年トルコ人には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないことが明らかだった。最終的にはエンヴェル・パシャによりオスマン・ドイツ同盟、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟が締結されたが、この同盟は内閣でも賛否両論だった。

ヴィルヘルム・スション率いる、ドイツの地中海艦隊の巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウがイギリスの地中海艦隊による追跡を振り切り、8月16日にオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに逃げ込んだ(ゲーベン追跡戦)。両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日に出撃して黒海沿岸のロシア都市を襲撃した(黒海襲撃)以降も両艦に残った。9月27日、ダーダネルス海峡が正式に封鎖され、国際船舶の航行が禁止された。

11月初頭、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。11月14日朝、シェイヒュルイスラームのウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディはスルタンのメフメト5世による勅令に従い、コンスタンティノープルのファティフ・モスクの前で敵対国に対するジハードを宣言した。しかし、宣言に呼応したのはイギリスのアフガニスタン部隊の一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 (Singapur))であった。バーラクザイ朝アフガニスタン首長国でのイギリスに対する反感にも影響したが、それは1919年の第三次アングロ・アフガン戦争以降のことだった。

宣戦布告直後の11月6日、イギリスとインド軍はアングロ・ペルシア石油会社の利権を守ろうとしてペルシア湾でアル=ファオ上陸戦を敢行、これによりメソポタミア戦役が開始された。イギリス軍はオスマン軍を蹴散らした後(バスラの戦い)、11月23日にバスラを占領した。

カフカース戦役ではロシア軍が11月にベルグマン攻勢を開始した。ロシア軍の攻勢を撃退すると、オスマン第3軍は反撃に転じたが、真冬の中で行われたサリカミシュの戦いで大敗した。アルメニア人義勇軍がロシア側で戦ったため、オスマン帝国に残っていたアルメニア人に対する目が冷たくなったが、アルメニア人の大半はオスマン側についたままだった。ロシア軍は長らく占領していたペルシア北東部から進撃した(ペルシア戦役)。一方、シナイ半島とパレスチナ戦役は1914年時点では大きな戦役はなかった。

アフリカ戦役

欧州諸国により植民地化されていたアフリカ各地では、戦争初期よりイギリス、フランス、ドイツの植民地勢力が戦闘を行った。

8月6日から7日、フランスとイギリス部隊はドイツ領トーゴラントとドイツ保護領カメルーンに侵攻した。10日、ドイツ領南西アフリカのドイツ軍が南アフリカ連邦を攻撃して以降、終戦まで散発的ながら激しい戦闘が続いた。

ドイツ領東アフリカのパウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐率いる植民地軍はゲリラ戦を行い、1918年のヨーロッパでの停戦から2週間後まで降伏しなかった。

日本の参戦と太平洋戦役

東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。

なお、首相である大隈重信は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。

また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモアを占領した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。

ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府と、同じく近隣に植民地を持つアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。

このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって、ドイツ領の南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、当然日本の国民感情的には期待があった。

開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、先に日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊に恐れをなし逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り(ドレーク海峡経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。

日本をはじめとする連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った。本国帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。

日本海軍のアメリカ西海岸派遣

また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」、同「出雲」に、輸送船や工作船などからなる支隊を「遣米支隊」としてカリフォルニア州南部からメキシコにかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリスの連合国と、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。

日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開した。また、「出雲」はその後第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。

青島の戦い

11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。

オーストリア=ハンガリーの防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが青島からの退去を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。カイゼリン・エリザベートは青島を守備した後、1914年11月に自沈した。

これらの中国戦線で連合国の捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員日本に送られ、その後徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所の日本国内の俘虜収容所に送られ、終戦後の1920年まで収容された。

特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。

北欧の中立宣言

北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。12月18日にスウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク・ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。

スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。

クリスマス休戦

12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部でクリスマス休戦と呼ばれる非公式な休戦が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる。

1915年の戦闘

Uボート作戦

1915年2月4日、ドイツは2月18日以降に商船に対する潜水艦作戦を開始すると正式に発表した。ドイツは中立国の抗議をはねつけてイギリスとアイルランド周辺の海域を交戦地帯と定めたが、イギリスを海上封鎖するには潜水艦(Uボート)が足りなかった。潜水艦を対商船作戦に使用したことで、ドイツは軍事上でも国際法上でも「新しい道」を歩み出した。イギリスの商船が武装を強化したため、Uボートは安全が脅かされ、捕獲物に関する戦時国際法を完全に順守することができなかった。さらに、潜水艦の指揮官への指示が不明確で、海軍は中立国船舶の航行を妨げるために無警告で攻撃する無制限潜水艦作戦であると仮定した。しかし、ドイツの発表に中立国が抗議したため、Uボート作戦は中立国の船舶を攻撃しないよう限定された。

5月7日、ドイツの潜水艦U-20がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈、国際世論による抗議の波を引き起こした。ドイツ駐ワシントン大使館は新聞に警告文を掲載したが、ルシタニア号が5月1日にニューヨークを出港した時にはアメリカ人200人以上が乗船していた。「戦争物資と弾薬を載せた」というルシタニア号が5月7日に撃沈されると、子供100人近くとアメリカ人127人を含む合計1,198人が死亡した。アメリカの世論は憤慨した。米独間で覚書が交換され、ヴィルヘルム2世は6月1日と6日にドイツ最高司令部の支持を得た首相の要請を受け、潜水艦が中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しないことを約束した。しかし、この決定を聞くと、アルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥とグスタフ・バッハマン提督が辞表を出した(2人の辞任は拒否された)。U-24が客船のアラビックを撃沈、再びアメリカ人の死者を出してしまうと、ドイツ駐アメリカ大使ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフがアメリカ政府にヴィルヘルム2世の決定を通知した(アラビックの誓約、Arabic pledge)。8月末、ヴィルヘルム2世の決定がエルンスト・ツー・レーヴェントローゲオルク・ベルンハルトなどドイツの新聞編集長に告知された。彼らは軍部の指示を受けて無制限潜水艦作戦と反米のキャンペーンを直ちに停止した。

東部戦線決着への試み

東部戦線において、ドイツ軍は新しく到着したドイツ第10軍の助力で2月7日から22日までの第二次マズーリ湖攻勢に勝利、ロシア軍をようやく東プロイセンから撤退させた。

1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。

ロシア軍はカルパティア山脈の冬季戦役を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍はイゾンツォ川とカルパティア山脈の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアからサン川方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春にアウグスト・フォン・マッケンゼン率いるドイツ第11軍が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、クラクフの東でゴルリッツ=タルヌフ攻勢が行われた。この攻勢において、ドイツとオーストリア=ハンガリー第4軍は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった。

6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いてブク攻勢を開始した。6月4日にプシェムィシルを、22日にレンベルクを再占領した後、ロシア領ポーランドに突起部を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画がドイツ最高司令部(実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった)から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までのナレフ攻勢はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退を強いることができた。

大撤退の結果、ロシア軍の前線が1,600kmから1,000kmに短縮された。中央同盟国は9月までにワルシャワ(8月4日)、ブレスト=リトフスク、ヴィリニュスなど重要な都市を続々と占領した。ロシア領ポーランドではルブリンを首都とするオーストリアのルブリン総督府とワルシャワを首都とするドイツのポーランド総督府が成立、中でもドイツの東部占領地では経済的搾取を行う占領政策がとられた。9月末、ルーデンドルフ率いるドイツ第10軍がミンスクに、オーストリア=ハンガリー軍がリウネに進軍しようとしたが失敗した。損害ではロシア軍の方が上だったが、1915年9月に大撤退が終結した後でも数的優位を維持したため、ドイツ軍の大半を西部戦線に移すという計画は実施できなかった。

1915年の西部戦線

西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールとヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで第一次シャンパーニュ会戦で消耗戦が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型弾幕を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威であるサン=ミーエルへの攻撃(イースターの戦い (Osterschlacht) または第一次ヴェーヴル会戦 (Erster Woëvre-Schlacht))も試みたが失敗に終わった。

第二次イーペル会戦の初日である4月22日に毒ガスが使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている。第一次世界大戦の化学兵器の使用は連合国軍が催涙剤を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある塩素ガスであり、ハーグ陸戦条約に違反した行動であった。そのため、この行動はプロパガンダに使われた。ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月にイーペル近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45アルジェ師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、第一次世界大戦の塹壕戦ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい(7万対3万5千)という現象が起こった。

5月9日、英仏は第二次アルトワ会戦で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の砲兵は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った。

1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた第二次シャンパーニュ会戦第三次アルトワ会戦だった。シャンパーニュ会戦とローの戦いはともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。「連合国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」。

ガリポリの戦い

一方、英仏両軍はオスマン帝国に対しては本土侵攻を企図した。2月19日、連合国軍のダーダネルス作戦が始まり、英仏艦隊がダーダネルス海峡の沿岸要塞(オスマン帝国領)を艦砲射撃した。連合国軍の目的は首都コンスタンティノープルを脅かすことによってオスマン帝国を戦争から脱落させ、黒海を経由するロシアの補給路を回復することだった。3月18日、イギリスのジョン・デ・ロベック提督率いる艦隊が突破を試みたが、戦艦3隻を喪失、ほか損傷した戦艦もあった。その結果、連合国は上陸作戦でダーダネルス海峡を開かせることを決定した。イギリスは既にアレクサンドレッタに上陸してオスマン帝国の南部地域を中枢のアナトリア半島から切り離すことを計画していた。

連合国軍はギリシャ王国の中立を侵犯して、エーゲ海のリムノス島をオスマン帝国攻撃の拠点として占領していた。そして、4月25日にはリムノス島から出撃して連合国軍はガリポリ半島とアジア側の対岸にあるクンカレに上陸した。戦艦11隻が援護についた船200隻がイギリスの地中海遠征軍78,000人とフランスの東方遠征軍17,000人を運んだ。イギリスの遠征軍にはオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) も含まれ、この戦闘がANZACの初戦となった。結局攻撃は失敗したが、その理由はオスマン軍の予想以上の抵抗であり、オットー・リーマン・フォン・ザンデルス率いるオスマン第5軍が活躍した。中でもムスタファ・ケマル・ベイ率いる第19歩兵師団が頭角を現し、ムスタファ・ケマルが国民的英雄としての名声を得るきっかけの一つとなった。連合国軍50万人以上が投入されたこの戦役は1916年1月9日に連合国軍が撤退したことで終結、死者は両軍の合計で11万人となっている。

イタリア王国の参戦

5月23日、イタリア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。1月以降、ドイツはオーストリア=ハンガリーに要請して、トレンティーノなどの割譲に同意してイタリアを少なくとも中立に留まらせようとした。5月4月に三国同盟が解消された後もイタリアへの提案は段々と拡大し、10日にはトレンティーノ、イゾンツォ川沿岸の割譲、アルバニア公国における自由行動権などが提案された。一方、イタリアは連合国と交渉して4月26日にロンドン条約を締結した。条約ではイタリアが連合国側で参戦した場合、未回収のイタリアの獲得を約束した。イタリア首相アントニオ・サランドラと外相シドニー・ソンニーノは数か月かけて国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の同意を取り付け、対オーストリア宣戦を決定した。宣戦を支持したのは国民の間でも議会でも多数派ではなかったが、対オーストリア主戦派が遥かに活動的だったため、あらゆる政治路線の世論主導者を団結させることができ、宣戦の決定はこの世論に押された結果だった。政治面でのイッレデンティズモ(失地回復主義あるいは未回収地回復運動)は、例えばチェザーレ・バッティスティが支持していた。作家で後にファシズムの先駆者となったガブリエーレ・ダンヌンツィオは首都ローマで戦争を支持するデモやイベントなどを組織、当時は社会主義者ジャーナリストだったベニート・ムッソリーニも1914年10月以降参戦を訴えて、イタリア社会党から除名処分を受けていた。ムッソリーニは(おそらくフランスからの資金援助を受けて)新聞の『イル・ポポロ・ディタリア』を創刊して、連合国側で参戦することを求めた。主戦派はフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティら未来派の支持も受けた。宣戦直前のイタリア議会は多数派の長で元首相のジョヴァンニ・ジョリッティの中立路線を支持した(ダンヌンツィオがジョリッティの暗殺予告を出したほどであった)が、実際に政治上の決定を下したのは議会ではなかった。5月20日に議会が戦争借款を審議したとき、借款に反対したのは社会主義者だけだった。ジョリッティ派やカトリック教会などは戦争に反対したが、愛国的であると証明しようと借款を受け入れた。

イタリア戦線の前線はスイス国境のステルヴィオ峠からドロミーティ山脈、カルニーチェ・アルプス、イゾンツォ川、そしてアドリア海岸まで続く。オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア、ロシア、イタリア)を強いられ、中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった。しかも、イタリアが参戦した直後、オーストリアは十分な兵力でイタリアとの前線を守備することができなかった。一部地域では民兵、ラントヴェーアシュタントシュッツェン3万人を含むラントシュトルムなどに頼っていた。イゾンツォ川沿いの戦闘は宣戦布告直後に行われ、第一次イゾンツォの戦いは6月23日に開始した(7月7日まで)。イタリアは人数で大きく優勢で、広大な領土を占領したにもかかわらず、第一次イゾンツォの戦いも第二次イゾンツォの戦いも(7月17日 - 8月3日)大きな突破にはならなかった。第三次(10月18日 - 11月3日)と第四次(11月10日 - 12月2日)は人命と資源が大量に失われたが、大局は全く変わらなかった。第一次ドロミーティ攻勢(7月5日 - 8月4日)はアルプス山脈の戦役の始まりとなったが、軍事史上でも画期であった。すなわち、標高の高い山上で長期間戦闘が行われる初例となったのであった(オルトレス山の標高は約3,900mだった)。

アルメニア人虐殺

サリカミシュの戦い以降、オスマン帝国の青年トルコ人政権はアルメニア人による妨害工作が行われていることを疑った。ロシア軍が4月中旬にヴァン湖に接近すると、オスマン帝国は現地のアルメニア人首領を5人処刑した。4月24日、コンスタンティノープルでアルメニア人知識層が多数逮捕された。ロシア外相セルゲイ・サゾーノフは5月24日に(4月27日に準備された)抗議文を発表、アルメニア人の100集落以上でアルメニア人がオスマン政府によって系統的に虐殺されたと主張した。

翌日(5月25日)、オスマン内相タラート・パシャはアルメニア人を戦域からシリアとモースルに強制移送すると発表した。27日と30日にはオスマン政府が強制移送法を発表、系統的なアルメニア人虐殺とアッシリア人虐殺が始まった。ドイツ大使ハンス・フォン・ヴァンゲンハイムは6月にドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに報告を行い、「世界大戦を利用して内部の敵、すなわちキリスト教徒を外国の外交介入なしに廃除する」というタラート・パシャの考えを伝えた。エルズルムにいたドイツ駐オスマン帝国副領事マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターも7月末に「アルメニア人に対する行動の最終的な目的はトルコにおける絶滅である」と報告した。ヴァンゲンハイムの後任パウル・ヴォルフ・メッテルニヒは1915年12月にアルメニア人側で介入しようとし、ドイツ政府にアルメニア人の強制移送と虐殺を発表するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは「戦争の最中、公的に同盟者と対決することは前代未聞だ。私たちの唯一の目的は、アルメニア人が滅ぶか滅ばないかにかかわらず、終戦までトルコを味方につけ続けることだ。」と拒否した。ローマ教皇ベネディクトゥス15世もオスマン帝国スルタンのメフメト5世に手紙を書いたが、時既に遅しであった。アルメニア人虐殺により終戦までに約100万人が死亡、同時代では1894年から1896年までのポグロムの虐殺や1909年のアダナ虐殺と比べてホロコーストと呼ばれた。

ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役

1915年10月14日にブルガリア王国が中央同盟国側で参戦した。その背景にはブルガリアがバルカン戦争で「ブルガリア民族の国」を建国するための領土拡張に失敗したことがあった。ブルガリアが第一次バルカン戦争で勝ち得た領土は1913年のブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリアは一連の戦争で弱体化した。1914年8月1日、ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ率いるブルガリア政府は厳正中立を宣言したが、中央同盟国も連合国もどちらもブルガリアに働きかけて各々の陣営に引き込んで参戦させようとした。交渉が開始された時点では中央同盟国の方が有利であった。というのも、ブルガリアの領土要求はセルビア、そして(連合国側での参戦が予想される)ルーマニア王国とギリシャ王国の領土を割譲させることによって容易に達成できるからであった。結果的には中央同盟国がブルガリアにマケドニア、ドブロジャ、東トラキアの獲得を約束。また1915年秋には情勢が中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリアは中央同盟国に味方した。セルビアを攻撃することで、オスマン帝国と陸路での連絡を成立させたかった中央同盟国に対し、ブルガリアは9月6日に協力に同意した。ブルガリアの参戦は賛否両論だったが、政府が参戦を決意すると、反対派は社会民主主義者の一部を除いて戦争遂行に協力した。10月6日、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いるセルビア攻勢が始まり、10月14日にはブルガリアがセルビアに宣戦布告した。これにより、セルビアは数的には劣勢になり、連合国がテッサロニキの北で部隊を上陸させた後でも劣勢が覆らなかった。ギリシャは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが(ギリシャ・セルビア同盟)、連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した。ベオグラードが10月9日に、ニシュが11月5日に陥落すると、ラドミル・プトニク率いるセルビア軍(開戦時には36万人いたが、この時点では15万しか残っていない)は捕虜約2万人を連れてアルバニア公国やモンテネグロ王国の山岳地帯に撤退した。セルビア軍はケルキラ島で再編された後、マケドニア戦線に投入された。占領されたセルビアはオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された。

その他の戦線

カフカース戦線サリカミシュの戦いは1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった。シナイ半島とパレスチナ戦役ではフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン率いるオスマン軍が1月末にスエズ運河に向けて攻勢に出たが失敗した(スエズ運河襲撃)。

1915年7月にはドイツ領南西アフリカの植民地守備隊 (Schutztruppe) が降伏し、南西アフリカ戦役が終結した。

メソポタミア戦役ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までのクテシフォンの戦いで(実質的にはコルマール・フォン・デア・ゴルツ率いる)オスマン軍に阻止された。また、イギリス領インド軍の海外派遣部隊が12月7日にクートで包囲された。

1915年の社会と政治

12月にフランス軍の総指揮官に就任したジョゼフ・ジョフルは12月6日から8日まで連合国間のシャンティイ会議を開催した。中央同盟国の内線を有利に利用すべく、1916年中に全ての前線で共同して攻勢に出ることが計画された。イギリスではガリポリの戦いの失敗により、ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣は5月に改造してそれまで野党であった保守党の入閣に同意せざるを得なかった。このアスキス挙国一致内閣では1915年春の砲弾危機に対応するために軍需大臣が新設された。

10月と11月にはドイツでのグロサリー、配給所やフライバンクに対する食料制限の引き締めにより、まず暴動が起き、続いて主に女性によるデモが行われた。11月30日、女性58人が首都ベルリンのウンター・デン・リンデンでデモを行った時に逮捕されたが、この逮捕には報道管制が敷かれた。また1914年11月には既に穀物、パン、バター、ポテトの値段が大幅に上昇し、農民も都市部には供給したくなかった。供給問題の原因は当局が戦争の長期化を予想せず全く準備しなかったこともあったが、戦争により食料品と硝酸塩(化学肥料の生産に必要)の輸入が止まり、戦争に馬と兵士が動員され、農業をする人手が足りなくなったことにもよる。1914年末、参議院がパン、ポテト、砂糖の最高価格を定め、1915年1月には他の基本食料品にも同じ措置がとられたため、ドイツの農民は闇市で取引するようになった。1915年末には「インフレが脅威になってきた。より厳しい食料制限が始まり、最近数週間の雰囲気が変わってきた。特に女性の間で『食料をくれ!それから、私の夫も!』という怒りの叫びをするようになった。」という観察もあったという。闇市の隆盛により、ドイツではイギリスの海上封鎖のみが食料不足の原因であるとする政府のプロパガンダを信じる者が減少した。食料供給の政策に失敗した結果、1915年末までに「市民は国から疎遠になり、国の『非正当化』が始まるほど」となった。

ドイツ社会民主党の国会議員と党首は11月27日に国会でベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、いつ、どのような条件で講和交渉をするかを質疑することを決定した。ベートマン・ホルヴェークは質疑を取り下げさせることに失敗し、12月9日には国会で喚問された。彼はフィリップ・シャイデマンの質問に対し、東部と西部の「安全」(併合)が平和に不可欠であるとしたが、外国では「覇権主義の演説」として扱われた。その結果、国会では12月21日に社会民主党の代表20名が戦争借款の更新を拒否。ベートマン・ホルヴェークを「併合の主導者」としてこき下ろした声明を出した。

1916年の戦闘

モンテネグロとアルバニアの占領

1月4日、オーストリア軍がモンテネグロ王国に侵攻。23日にはモンテネグロ王ニコラ1世が降伏し、フランスへ逃亡した(モンテネグロ戦役)。アルバニア公国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していたドゥラス(アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていたケルキラ島(元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの東方軍とともにテッサロニキに移った)。ニコラ・パシッチ率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍捕虜約2万4千人も含まれたが、この捕虜たちはサルデーニャ北西部のアジナーラ島に移送され、うち約5千人が死亡した。イタリア軍はアルバニアの港湾都市ヴロラを維持することに成功したため、アルバニア南部での勢力を維持、拡張することができた。降伏したモンテネグロでは1916年2月26日から1917年7月10日までヴィクトル・ヴェーバー・エドラー・フォン・ヴェーベナウが軍政府を率いた。一方、アルバニアはオーストリア=ハンガリーと積極的に戦わなかったため、オーストリア=ハンガリーの外交官アウグスト・リッター・フォン・クラルの指導下ではあるものの文民による統治委員会の成立が許された。オーストリア=ハンガリーはアルバニア人の統治への参加を許し、学校とインフラストラクチャーを建設したことでアルバニア人の支持を得ようとした。

ヴェルダンの戦い

西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフがその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエルと西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた。

ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ(現代では消滅集落)で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路(神聖街道と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムはノリアと呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した。

第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」(Hölle von Verdun) の象徴とされている。

第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた。

ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦

1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ海軍参謀総長も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強(警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし無制限潜水艦作戦は不可)を決定した。

3月初、ドイツ帝国海軍省がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった。ドイツ潜水艦による客船サセックス攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月にサセックスの誓約を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。

5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外のユトランド沖海戦が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家のゴルヒ・フォックもいた)。ドイツの大洋艦隊は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは北海の制海権を保った。

ブルシーロフ攻勢とソンムの戦い

シャンティイ会議での決定に基づき、連合国軍は1916年中に3つの攻勢を計画した。すなわち、ソンム会戦、ブルシーロフ攻勢、次のイゾンツォ川の戦いの3つだった。7月1日のソンム会戦は元はフランス主導の作戦だったが、ヴェルダンの戦いによる消耗があったためイギリス軍が大半を占めるに至った。イタリア戦線では2月のヴェルダンの戦いにより連合国はイタリアに要請して3月11日に攻撃を開始(第五次イゾンツォの戦い)、オーストリアも5月15日から南チロル攻勢を開始(6月18日に終結)したためロシアのブルシーロフ攻勢が6月4日に始まった。その後はイタリアによる第六次イゾンツォの戦いが8月4日に始まった

6月4日、ブルシーロフ攻勢が始まり、この時点の連合国にとって最大の勝利となった。3月にロシア南部軍の総指揮官に就任したアレクセイ・ブルシーロフはそれまでの失敗から戦術を反省した。まず、攻勢が最短距離400kmという長い前線で行われ、敵軍に一点突破を許さなかった。そして、ロシア軍は秘密裏にオーストリア軍の防衛線に忍び寄り、50m程度の距離まで近づいた(それまでの攻勢では両軍間の無人地帯が1,600mもあったため、大きな損害が出てしまう)。ブルシーロフの数的優勢は少なかった(一般的な攻勢に必要な数的優勢に及ばなかった)が、ロシア第8軍は6月8日にコーヴェリでオーストリア=ハンガリー第4軍をほぼ全滅させ、ロシア第9軍も南部のドニエストル川とカルパティア山脈の間でオーストリア=ハンガリー第7軍を撃破、チェルニウツィーやコロムィーヤなど重要な都市(いずれも現ウクライナ領)を占領した。オーストリア=ハンガリーの損害は624,000人だった。ブルシーロフはルーマニア国境近くで最も多く前進(約120km)、ルーマニア王国が連合国側で参戦する決定的な要因となった。しかし、補給の問題でさらなる進軍ができず、前線のごく一部にあたるピンスク湿原やバラーナヴィチで試みられた攻撃も交通の要衝コーヴェリ占領の試みも失敗した(コーヴェリの戦い)。「それでも、ブルシーロフ攻勢は、わずかな領土でも争われる第一次世界大戦の規模からすれば、エーヌ会戦で塹壕戦が始まった以降の連合国軍が勝ち取った最大の勝利であった」。

ヴェルダンの戦いによりフランス軍の派遣軍が40個師団から11個師団に減ったため、ダグラス・ヘイグ率いるイギリス海外派遣軍が代わってソンムの戦いを主導した。連合国軍は8日間にわたって大砲1500門以上でドイツ軍の陣地を砲撃した後(合計で砲弾約150万発が発射された)、1916年7月1日にソンム川沿岸でドイツ軍の陣地を攻撃した。大規模な砲撃の直後にもかかわらず、ドイツ軍の塹壕は無事に残っており、ドイツ兵士は機関銃の砲火でイギリス軍に対抗した。ソンム会戦の初日だけでイギリス軍は19,240人の死者を出し、うち8千人は攻撃が開始した直後の30分内に死亡した。夥しい損害にもかかわらず、ヘイグは攻勢の継続を命じた。9月15日にはイギリス軍が軍事史上初めて戦車の実戦投入を行った(マーク I 戦車)。11月25日まで続いた戦闘において、連合国軍は長さ30km攻撃線において8から10km前進したが、英仏軍の損害は少なくとも624,000人で、ドイツ軍も42万人の損害を出した。ドイツ軍の損害は文献によって違い、ドイツ側では335,688人としたが、イギリス側では軽傷者の数が多いとして最大で65万人とした。いずれにしても、ソンムの戦いは第一次世界大戦で損害の最も大きい戦闘であった。ソンムの戦いが開始した7月1日はイギリスで記念されており、イギリスの歴史家ジョン・キーガンは1998年に「イギリスにとって、ソンムの戦いは20世紀最大の軍事悲劇であり、その歴史全体においてもそうである。(中略)ソンムの戦いは命をなげうって戦うことを楽観的に見る時代の終結を意味した。そして、イギリスはその時代には二度と戻らなかった。」と述べた。1916年末にソンムの戦いでの損害が公表されたことで、12月にイギリス首相がハーバート・ヘンリー・アスキスからデイヴィッド・ロイド・ジョージに交代された。

南チロル攻勢とイゾンツォの戦い

5月から6月、南チロル地域のオーストリア=ハンガリー軍はイタリア軍の陣地に対し攻勢に出たが、成果が限定的だった上に東部戦線でロシアがブルシーロフ攻勢を開始したため、すぐに攻撃を中止した。イタリア軍も3月から11月にかけてイゾンツォ川沿岸で大規模な攻勢をしばしば行い(第五次、第六次、第七次、第八次、第九次イゾンツォの戦い)、ゴリツィア市やドベルド・デル・ラーゴを占領したが、それ以上の成果に欠いた。オーストリア=ハンガリーの要請を受け、ドイツは1915年5月から11月にかけてアルペン軍団 (Alpenkorps) を南チロル戦線の支援に投入した。その後、イタリアは1916年8月28日にドイツに宣戦布告した。南アルプスの山岳戦の最中の12月13日、イタリアとオーストリア=ハンガリー軍数千人が雪崩により死亡する事故が起きた(白い金曜日)。

ルーマニア王国の参戦と敗北

1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した(実際には数日前にルーマニア戦線を開いた)。ルーマニアは1883年に三国同盟に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相イオン・ブラティアヌ率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王カロル1世だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによるトランシルヴァニアへの請求を認めることで合意していた。ルーマニアが第二次バルカン戦争後のブカレスト条約でブルガリアとオスマン帝国から南ドブロジャを獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、バナト、ブコビナを獲得する「大ルーマニア協定」という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日のブルシーロフ攻勢の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣るルーマニア軍はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いるドイツ第9軍は9月26日から29日にかけてのシビウの戦いでルーマニア軍を撃破した。ほかにもクロンシュタットにおいて第一次世界大戦では珍しい大規模な市街戦が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツのドナウ軍が南西からドナウ川を渡河した。そして、ツェッペリン飛行船のLZ81、LZ97、LZ101と攻撃機も加わり、首都ブカレストが12月6日に陥落した(ブカレストの戦い)。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中にプロイェシュティの油田やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王フェルディナンド1世は政府とともにヤシに脱出した。

ファルケンハインの更迭とヒンデンブルクの任命

1916年夏に連合国軍が全戦線で攻勢に出てドイツ軍が危機に陥ると、ヴィルヘルム2世にエーリッヒ・フォン・ファルケンハインを解任させる圧力が日に日に高まっていった。ルーマニアが8月27日に参戦したことが解任のきっかけになり、29日に新しく就任したパウル・フォン・ヒンデンブルクはエーリヒ・ルーデンドルフとともにヴェルダン攻勢を中止。即座に経済動員を強化して総力戦を準備した。その経済動員の強化とは8月31日にプロイセン戦争省が提出した要求で後にヒンデンブルク綱領と呼ばれたものであった。しかし、ヒンデンブルクとルーデンドルフの任命は実質的には軍事独裁への転向でもあった。「その威光により実質的には解任できないヒンデンブルクとルーデンドルフを任命したことによって、皇帝はさらに目立たなくなっただけでなく、政治的にも最高司令部に動かされるようになった。(中略)解任できない2人の将軍には(中略)軍事上の権力をはるかに超えて政治に介入、人事任免という帝国の権力中心にも皇帝に圧力をかけることで決定的な影響を及ぼす用意があった」。

ヴェルダンの反攻とジョフルの辞任

フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された。

ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害(うち死者143,000人)を出し、フランス軍は377,000人の損害(うち死者162,000人)を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された。

フランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに第二次シャンパーニュ会戦やソンムの戦いで大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日にロベール・ニヴェル将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、フィリップ・ペタンもヴェルダンでの守備に成功して「ヴェルダンの英雄」と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった。

ポーランド摂政王国と中央同盟国の講和案

1916年11月5日、中央同盟国によりロシア領ポーランドはポーランド摂政王国として建国した(11月5日勅令も参照)。しかし、中央同盟国が予想したポーランドからの軍事支援は実現せず、少数のポーランド軍団(7月までユゼフ・ピウスツキが率いた)が中央同盟国側で戦ったのみである。ポーランド軍団は翌年にポーランド軍になった。ほかにもポーランド人数十万人が(独立ポーランドの国民ではなく)ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア国民として各々の軍に従軍した。

中央同盟国はルーマニアに勝利した後、12月12日に中央同盟国の講和案を提出したが、30日に拒絶された。

1917年の戦闘

潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦

1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた。ベルリーナー・ターゲブラットの編集長テオドール・ヴォルフは1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ(オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。汎ゲルマン連盟などの連中が大喜びした。連合国が絶滅戦争を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した。

ウィルソンはアメリカ合衆国議会で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する十字軍に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でもアルフレート・フォン・ティルピッツのティルピッツ計画が長期的にはモンロー主義におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の国という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、ブライス委員会などでドイツの陰謀が報告され、さらにルシタニア号が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。1916年アメリカ合衆国大統領選挙(11月7日)の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。ロバート・ランシングやエドワード・M・ハウスなどウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、『ニューヨーク・タイムズ』がツィンメルマン電報を公表した。電報の内容はドイツがメキシコに資金援助を与えて、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。

日本海軍艦隊の欧州派遣

このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。

1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。

これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。

第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出した。

その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。

また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している(アラブ級駆逐艦)。

カブラの冬

ドイツでは1916年から1917年にかけての冬、天候による不作などが原因となってカブラの冬が起きた。最高価格の定められた状況ではポテトや穀物をそのまま売るより、飼料として使ったり、蒸留所に売ったりした方が利益が出たため、状況はさらに悪化した。2月、毎日の食料配給が1,000kcal分まで下がり(成人が必要な生理的熱量は平均で毎日2,410kcal)、食料不足がさらに厳しくなった。カブラの冬により、ドイツの社会が団結していない状況(生産者と消費者の対立)、そして国が食料を提供する能力の不足が浮き彫りになった。

ロシア革命

工業力が重点になったこの戦争は、工業化が緒に就いたばかりで未だ農業が主であったロシア帝国の力を大きく超え、既に厳しい社会問題をさらに悪化させた。さらに、バルト海とダーダネルス海峡が海上封鎖を受けたことで、戦前には7割の輸入がバルト海経由で3割が黒海経由だったロシアは大きく疲弊した。戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらに厳しい食料不足により、労働者と兵士の妻、女性の農民たちが2月23日(ユリウス暦)/3月8日(グレゴリオ暦)に首都ペトログラードでデモ行進を行った。2月26日/3月11日にはデモがペトログラード駐留軍に広まり、やがて二月革命に発展した。1905年の革命と同じく、労働者たちはソビエトを結成、デモ参加者の要求を代弁してそれを政治的に実施しようとした。ソビエトの執行委員会は主にメンシェヴィキと社会革命党で構成された。3月1日(ユリウス暦)/3月14日(グレゴリオ暦)、ペトログラード・ソビエト命令第一号を発令し、政府命令のうちソビエトの命令と矛盾しないもののみ遵守するよう命じた。ドゥーマで代表を持つブルジョワはゲオルギー・リヴォフ首相率いるロシア臨時政府を成立させ、2日後にニコライ2世を説得して退位させた。これによりロシア臨時政府とソビエトという「二重権力」が成立した。ロシア民衆の大半が望んだのと違い、臨時政府は戦争継続を決定、当時のソビエトも継戦の決定を支持した。

連合国はロシア帝国が民主主義に反対したためプロパガンダに問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)にウラジーミル・レーニンらボリシェヴィキ約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。ロシア社会民主労働党の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府はアレクサンドル・パルヴスを仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万マルクとされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に四月テーゼを発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど労働者の日(4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))にミリュコーフ通牒を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って四月危機を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した。

5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任したアレクサンドル・ケレンスキーはペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、ベレジャヌィ、リヴィウ、ヴィリニュスを目標とした、後にケレンスキー攻勢と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まずスタニスラーウに対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日にカールシュまで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までにタルノーポリやチェルニウツィーまで進軍、東ガリツィアとブコビナを奪回した。ロシアでもボリシェヴィキが七月蜂起を起こしたが鎮圧された。レーニンはフィンランドに逃亡した。9月、ドイツ軍はリガを占領(リガ攻勢)。10月にはアルビオン作戦でバルト海のサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した。

9月末、ロシアのラーヴル・コルニーロフ将軍がクーデターを企図して失敗すると(コルニーロフ事件)、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に十月革命を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが平和に関する布告を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった。

12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日にはブレスト=リトフスクで講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結された。

ドイツ、西部戦線で守勢に

3月、ドイツ軍は西部戦線でアルベリッヒ作戦を発動して、16日から19日にかけてソンム川からヒンデンブルク線に撤退した。1916年のヴェルダンとソンム会戦でドイツ軍が疲弊したことが撤退の理由だった。撤退はループレヒト・フォン・バイエルン王太子軍集団が発案、ルーデンドルフの反対を押し切って実施した。ヒンデンブルク線の建築は第一次世界大戦最大の建築工事であり、主に捕虜と強制労働に駆り出された労働者によって行われた。ドイツ軍は焦土作戦を行って撤退直前に陣地を系統的に破壊して、住民を追放。一部地域では地雷やブービートラップも設置した。バポームなどの地域が完全に破壊され、サン=カンタンの住民4万人など合計15万人が追放された。作戦自体はドイツ軍の前線を縮めて、守備の整ったヒンデンブルク線に撤退したことで一定の成功を収め、連合国軍が1917年春に計画した攻撃は無駄に終わった。しかし、作戦の「影響を受けた地域の民衆の生活を完全に破壊、歴史的な風景を荒れ地に変えた」ことで、国外の世論がドイツに不利になった。

フランス軍大本営があるシャンティイで行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定された。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、リールとヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の最高指揮官ロベール・ニヴェルはフランス北部のアラスを攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した(アラスの戦い)。直後にはフランス軍もエーヌ川とシャンパーニュで攻勢に出て(第二次エーヌ会戦第三次シャンパーニュ会戦)、シェマン・ド・ダームの占領を狙った。ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団はヴィミ・リッジの戦いに勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。フリッツ・フォン・ロスベルクが縦深防御戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した。

シェマン・ド・ダームへの攻勢が失敗した結果、フランス軍の68個師団で反乱がおきた(フランス軍200万のうち約4万が反乱)。イギリスがアラスの戦いで勝利したことで期待が高くなったことも一因であった。反乱に最も影響された5個師団はソワソンとランスの間、シェマン・ド・ダームへの攻勢が行われた地域の南に配置されており、同地に配置されたロシア海外派遣軍も同じような問題に遭った。反乱は前線では起きず、後方で休息をとっていて前線に戻る予定の兵士の間でおきた。兵士の要求は休暇を増やすこと、栄養状態を改善すること、兵士の家族の待遇を改善すること、「殺戮」の中止(戦略への反対を意味する)、そして「不正義」(戦争における正義に関して)の中止、「平和」だった。「反乱した兵士の大半は戦争自体に異議を唱えたのではなく、無用の犠牲になることに反対しただけだった」。4月29日、ニヴェルは更迭され、ヴェルダンの守備を指揮したフィリップ・ペタン将軍が後任になった。攻勢から守備に切り替えることで、ペタンはフランス軍の不安を和らげた。ペタンはドイツ軍の縦深防御と似たような戦術を編み出した。8月のヴェルダンの戦いと10月のラ・マルメゾンの戦いで限定的ながら成功を収めた(ドイツ軍がエレット川の後ろまで押された)ほか、フランス軍は1917年6月から1918年7月までの間、攻勢に出なかった。ペタンは更に兵士の給食と休暇を改善した。反乱兵士の約1割が起訴され、うち3,427人が有罪判決を受けた。軍法会議により554人が死刑判決を受け、うち49人の死刑が執行された。兵士の反乱が頂点となった5月から6月にかけて、連合国軍に大きな動きがなかったが、ドイツ軍はその連合国軍が不活発な理由が分からなかったことと、他の前線に手間取っていることから、大きな動きに出なかった。

5月21日から6月7日までのメッシーヌの戦いにおいて、イギリス軍はイーペルの南にある戦略的に重要な尾根を占領した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは1年半をかけてドイツ軍の陣地の下に巨大な地雷21個を敷設して爆破。戦争史における核爆発以外の大爆発で「最も効果を上げた」結果となった(死者10,000人)。尾根を占領したことで連合国軍は右翼が安定し、イギリス軍が主導する第三次イーペル会戦(7月31日 - 11月6日)での攻勢に出ることができた。攻勢の目標はドイツの潜水艦基地オーステンデとゼーブルッヘだった。しかし、いくらかの成功を収めた後、攻勢は10月9日にランゲマルク=プールカペレで膠着に陥り、戦力要地であるヘルフェルト高原 (Geluveld) への攻撃も失敗した。第二次パッシェンデールの戦いでカナダ部隊が11月6日に廃墟と化していたパッシェンデールを占領した後、戦闘は自然と停止した。パッシェンデールでドイツ軍を押し返した連合国軍は前線を最大で8km前進したが、両軍の損害は合計で約585,000人だった。

11月20日から12月6日までのカンブレーの戦いで初めての大規模な機甲戦が行われた。短期間の予備砲撃の後、王立戦車連隊の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、ヒンデンブルク線上のアヴランクール地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した。

日本のオーストラリア警備と人種差別

イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「伊吹」がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」、「メルボルン」と共にアデンに向かった。航海途上で「エムデン」によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。

この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。

以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「矢矧」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。このような非礼を超えたオーストラリア軍の態度に大日本帝国海軍は激怒し、オーストラリア軍部隊の責任者は、「矢矧に乗り込んだ水先案内人が適切な信号を発しなかったため『注意喚起のため』実弾を発射した」と弁明したが、結果的に事件はオーストラリア総督とオーストラリア海軍司令官の謝罪により一応は決着した。

オーストラリアの日本人への人種差別を基にした、人命にさえ係わる差別的姿勢は戦争を通じて和らぐことがなく、また日英通商航海条約への加入拒否、赤道以北の南洋諸島の日本領有への反対など、一切妥協しないANZACの人種差別的態度は、アジア太平洋地域のみならず、第一次世界大戦全体を通じて日本の協力を必須なものと認識しているイギリス本国をも手こずらせた。

その他の戦線

1917年初、イギリス軍はメソポタミア戦役を再開してバグダードへの進軍を試み、2月23日にはクートに到着した(クートの戦い)。さらに雨季がはじまる前の3月11日にバグダードを占領(バグダード陥落)、オスマン軍はモースルに撤退した。バグダードが陥落したことで東方における計画(バグダード鉄道など)が危うくなり、オスマン帝国ら中央同盟国は打撃を受けた。その結果、ドイツ軍はファルケンハインを任命して、エンヴェル・パシャとともにジルデリム (Jilderim) をコードネームとするバグダード再占領計画を準備した。

1917年6月29日、ギリシャ王国が連合国側で参戦した。連合国軍が1915年末にギリシャに上陸した以降、ギリシャ政界は分裂して、連合国を支持するエレフテリオス・ヴェニゼロスの暫定革命政府と、ドイツを支持する国王コンスタンティノス1世の両派に分けた。英仏の介入が日に高まったことにより、ヴェニゼロス側が優勢になり、さらに首都アテネを含むギリシャ国内の全ての戦略要地が連合国軍に占領され、フランスのシャルル・ジョナールから最後通牒が突き付けられるにあたって、コンスタンティノス1世は1917年6月に退位、亡命した。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還、1915年に選出された国会を召集、政府を組織してすぐに中央同盟国に宣戦布告した。コンスタンティノス1世の息子アレクサンドロス1世が国王に即位した。

イタリア戦線では8月17日から9月12日まで第十一次イゾンツォの戦いが起き、オーストリア=ハンガリー軍が間一髪で大敗を回避した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世はイタリアの次の攻勢に耐えられないことを危惧して、オーストリア軍最高司令部とともにドイツに支援を要請した。ドイツは第14軍アルペン軍団 (Alpenkorps) 含む)を再編成してオーストリア=ハンガリーに派遣した。こうして、中央同盟国は先制攻撃を仕掛け、10月24日にカポレットの戦いで攻勢に出た。中央同盟国は突破に成功して11日間で130km進み、ヴェネツィアまで後30kmのところまで進軍した。イタリア軍は305,000人以上を失い(うち265,000人は捕虜)、中央同盟国は7万人の損害を出した。中央同盟国の成功は主にドイツのエルヴィン・ロンメル、そして浸透戦術の功労だった。イタリア軍の戦線がようやく安定したのはピアーヴェ川とモンテ・グラッパまで撤退したときであり、連合国からもイギリス軍5個師団とフランス軍6個師団が援軍として派遣されてきた。イタリアではストライキや兵士の大量脱走などがおきたが、「侵略戦争が防衛戦争に変わった」ことで革命前夜のような情勢は解消された。カポレットの敗北により連合国は11月7日にラパッロで会議を開き、またイタリアでは総指揮官のルイージ・カドルナが更迭され、アルマンド・ディアズが任命された。

1917年最後の大規模な攻勢はシナイ半島・パレスチナ戦役で行われ、軍事史上最後の大規模な騎兵突撃となった。1917年10月31日、エドマンド・アレンビー率いるオーストラリアの第4軽騎兵旅団とイギリスの第5騎兵旅団はオスマン軍とドイツ軍が占領していたベエルシェバに攻撃をかけ、占領に成功した(ベエルシェバの戦い)。ファルケンハインは11月5日にエルサレムに移って死守しようとしたが、最高司令部は聖地エルサレムが破壊された場合の世論への影響を鑑みて撤退を命じた。その結果、トーマス・エドワード・ロレンス率いるアラブ反乱軍の進撃は12月9日に終結し、イギリス軍によるエルサレムの無血占領に終わった。

1917年の政治と講和の試み

4月7日、ヴィルヘルム2世はイースター勅語で、戦後に民主化改革を行うと曖昧な約束をした。11日、ロシア二月革命とドイツの四月ストライキによりドイツ社会民主党が城内平和政策を引き締めたため、ゴータでドイツ独立社会民主党が社会民主党から分裂した。1週間後の4月19日、社会民主党(ドイツ多数派社会民主党と呼ばれるようになった)は平等な公民権利、議院内閣制への移行を要求。ペトログラード・ソビエトが3月末に宣言した「無併合、無賠償、民族自決」の要求を支持した。宰相ベートマン・ホルヴェークはそれまで戦争目的の見直しと政治改革に無関心な態度をとったが、多数派社会民主党の要求により最高司令部は彼が「社会民主党を支配下に置くことができなくなった」と考えた。ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世にベートマン・ホルヴェークの解任を要求したが、ヴィルヘルム2世は拒否した。4月23日、ベートマン・ホルヴェークはクロイツナハ会議で軍部に押されて議事録に署名した。ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラーによると、その議事録は併合について「まったく貪欲な」文書であったという

1917年初頭からオーストリアでも、カール1世がフランスとの単独講和交渉を極秘裏に行っていたが、これは失敗に終わっている(シクストゥス事件)。1917年春にもロシアとの講和交渉が試みられたが、ロシアがドイツの要求を受け入れられないとして、それをはねつけた。

7月6日、中央党のマティアス・エルツベルガーが国会で演説を行った。エルツベルガーは保守派の政治家であり、「勝利の平和」を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の進歩人民党が多党派委員会で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは「革命の始まり」とされた。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで普通選挙を行う保証を受けた(プロイセンではそれまで選挙が3等級に分けられて行われた)。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名なゲオルク・ミヒャエリスだった。

7月19日、ライヒスターク平和議案が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義のドイツ祖国党が結成されるなどの影響があった。8月1日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世はド・ル・デビューという使徒的勧告を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動(負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など)、そして戦争を「無用な流血」だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった。

ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任したゲオルク・フォン・ヘルトリングだった。

12月3日、ロシアと中央同盟国の単独講和交渉が開始。6日にはフィンランドがロシアからの独立を宣言した。

1918年の戦闘

ゼネストとウィルソンの十四か条の平和原則

アメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンは、1月8日にアメリカ合衆国議会への基調講演で十四か条の平和原則を提示した。ウィルソンは自由主義の政治原則を世界中に適用しようとし、そのうち民族自決権を最重要事項とした。例えば、十四か条の平和原則にはベルギー、セルビア、モンテネグロからの撤退と独立の回復、アルザス=ロレーヌの撤退と放棄、ポーランドの再独立、公海の自由、軍備制限、オーストリア=ハンガリー国民による「自主発展」(民族自決)が盛り込まれた。ドイツとオーストリア=ハンガリーは1月24日に十四か条の平和原則を拒絶した。

1月14日、オーストリア=ハンガリーのウィーナー・ノイシュタットとその近くの兵器工場で一月ストライキが始まり、広まりを見せると1月23日に軍事鎮圧された。ドイツでは1月28日から2月2日までの間、ベルリンなど産業の中枢でデモやストライキが行われ、100万人以上の労働者が参加したが(一月ストライキ)、それ以前のストライキと違って主に政治に訴え、「万国平和」(allgemeinen Frieden) や「併合と貢献」(Annexionen und Kontributionen) などのスローガンを打ち出した。これらのスローガンはブレスト=リトフスク条約におけるドイツ最高司令部の拡張主義の態度に対するものであった。ドイツ多数派社会民主党はフリードリヒ・エーベルト、オットー・ブラウン、フィリップ・シャイデマンをストライキの行動委員会に派遣して「行動の秩序を保つ」ことを試みたが、ドイツの一月ストライキはオーストリアのそれと同じく、軍事鎮圧でしか抑えられなかった。1月31日、ベルリン当局はストライキ委員会の委員を逮捕、ストライキに参加した労働者のうち5万人を前線に派遣した。その結果、2月3日までに大半の労働者がストライキを辞めて働くようになった。

ロシアとの講和とドイツの春季攻勢

ブレスト=リトフスクでの講和交渉において、ドイツは1月19日に最終要求としてロシアにポーランド、リトアニア、西ラトビアを放棄するよう求め、ロシア代表レフ・トロツキーは講和交渉の一時中断を求めた。ペトログラードで交渉の遅滞を提案したトロツキーに対し、政府と中央委員会は西欧のプロレタリアート蜂起を期待して提案を受け入れた。1月25日、非ボルシェヴィキのウクライナ中央ラーダはウクライナの独立を宣言、2月9日には中央同盟国がウクライナ人民共和国と単独講和した(ブレスト=リトフスク条約)。中央同盟国はウクライナ西部の領土について大幅に譲歩する代償としてウクライナからの穀物を大量に要求した。また同時にロシアに平和条件を受け入れるよう最後通牒を発したが、トロツキーはドイツでの革命に期待して、条約には署名せず一方的に動員解除を宣言した。その結果、ドイツは2月18日にファウストシュラーク作戦を発動、数週間でロシアのバルト海岸西部国境、ウクライナ西部、クリミア半島、ドネツ川とベラルーシの工業地帯を占領した。ドイツは講和条件をきつく変更したが、ロシア代表は交渉せずに条件を飲まなければならず、3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結した。中央同盟国はリヴォニアを除く占領地から撤退したが、ロシアはポーランド、リトアニア、クールラントを放棄、さらにオスマン帝国が請求したカフカース地方の領土を放棄しなければならなかった。ドイツは3月にドイツと緊密な関係を保ったままリトアニアをリトアニア王国として独立させることに同意(リトアニア独立宣言自体は2月16日に発された)。また6月28日にはペトログラードに進軍しないことと、ブレスト=リトフスク条約を承認せずにロシア内戦に介入した諸国と違って(イデオロギー対立はあったが)ボルシェビズムを撲滅しないことを決定した。8月27日にはロシアとの追加条約が締結され、ロシアはリヴォニアを放棄し、フィンランドとウクライナの独立を承認した。ロシアはブレスト=リトフスク条約で人口の3分の1を放棄、工業と資源の大半を失う結果となった。しかし、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかも知れない、とする説もある。

東部戦線の終戦が見えてきたことで、ドイツ軍部は1917年11月11日にモンスで西部戦線での攻勢を計画、米軍が到着する前に戦況を逆転させようとした。いくつかの計画が立てられ、ヒンデンブルクとルーデンドルフは1918年1月21日にそのうちの一つ、ミヒャエル作戦を選んだ。ミヒャエル作戦ではドイツ軍がソンム川沿岸のサン=カンタン地域での攻勢を行い、その後に北西に転向してイギリス軍の包囲を試み、英軍に運河港口への撤退を強いることが計画された。東部戦線の講和が成立したことで、西部戦線のドイツ軍は147個師団から191個師団に増強、一方連合国軍は178個師団しかなかった。ドイツ軍は1914年以降の西部戦線で初めて数的優位を奪回したが、それでもわずかな優勢でしかなかった。3月10日、ヒンデンブルクは21日に攻勢を開始するよう命じた。

1918年3月21日の早朝、ドイツの春季攻勢が始まった。今度は前回より短い(がそれでも5時間に渡った)砲撃の後、ドイツの突撃歩兵が浸透戦術を行い、イギリスとの前線で大きく前進した。しかし、ドイツ最高司令部はその後の数日間、攻撃の重点や方向を度々変更した。さらに、ルーデンドルフが「一点の強力な一撃という戦略を放棄して三点攻撃を選び、いずれも突破に至るほどの強さにはならなかった」。その結果、攻勢が弱まり、ルーデンドルフが参謀本部で批判された:「1914年にパリに進軍したとき、ドイツ軍はどうやって事態の発展に応じて抵抗の最も少ない戦線を追撃、戦闘の常道に従わなかったのか」。これに加えて、ソンム地域が酷く破壊されたため、補給が追い付かず、ドイツ軍はイギリスの兵站を略奪しなければならなかった。また、連合国軍の物的優位は奇襲により補われたものの、それは一時的にすぎなかった。ドイツ軍の戦闘による損害は主に空襲による損害だったが、これは軍事史上初の出来事だった。4月3日、事態の急変により連合国はフェルディナン・フォッシュを連合国軍総司令官に任命した。ドイツ軍は80kmにわたる前線(サン=カンタンから西のモンディディエまで)で60km前進したが、多大な損害を出して大きな突起部を作り出しただけに終わり、戦略的には何もなさなかった。オーストラリア軍がアミアン近くで反撃すると、ミヒャエル作戦は4月5日に終了した。

参謀本部で戦略ミスを指摘されたルーデンドルフはミヒャエル作戦の代案を採用した。代案とはゲオルク作戦 (Operation Georg) のことであり、フランドルのレイエ川で30kmの前線にわたって攻撃を行い、イーペルの西にある水道を目標とした(レイエ川の戦い)。既にミヒャエル作戦による消耗があったため、ゲオルク作戦は縮小を余儀なくされ、「ゲオルゲッテ」(Georgette) と呼ばれた。4月25日に戦略要地のケンメルベルクを占領するなど初期では成功を収めたが、やがて膠着に陥った。攻勢の一環として史上初の大規模な戦車戦が行われたが(第二次ヴィレ=ブルトヌー会戦)、最も有名な出来事はマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの死であった。

さらに、4月中旬頃より、疲れ切って失望していた部隊の命令不服従が増えてきた。ドイツ最高司令部は自軍の戦意低下に気づかず、直後の5月27日に新しい攻勢(第三次エーヌ会戦)を開始した。この攻勢では大砲6千門を用いた4時間にわたる砲撃が行われ、砲弾200万発が発射された。ドイツ軍は5月29日にマルヌ川まで進軍、6月3日にはヴィレル=コッテレまで前進した。この時点ではパリまで道路で90km、直線距離で62kmしか離れておらず、パリがパリ砲の射程圏内に入った。イギリス内閣はイギリス海外派遣軍の引き揚げを討議したが、6月5日にそれを却下した。アメリカ軍が到着したことでマルヌ線が再び安定するようになり、ドイツ最高司令部は自軍の損害、補給の問題、連合国軍の反撃を理由に6月5日/6日から攻撃を停止した。続くベローの森の戦いではアメリカ海兵隊が参戦した。9日、ルーデンドルフはマ川に対する攻撃を開始したが(グナイゼナウ作戦、Operation Gneisenau)、フランス軍とアメリカ軍の反撃により14日に中止した。直後にはイタリア戦線でオーストリア=ハンガリーが最後の攻勢を仕掛けた(6月15日から22日までの第二次ピアーヴェ川の戦い)が失敗した。

西部戦線の本当の転機は第二次マルヌ会戦だった。ドイツ軍は7月15日に攻撃を開始、初期には成功を収めたが、18日にフランス軍とアメリカ軍が小型軽量のルノー FT-17 軽戦車を大量に投入して反撃に転じた。既に疲れ果てて装備も不足していたドイツ軍は不意を突かれて、3日前に渡ったばかりのマルヌ川を再び渡って撤退した。ドイツ第7軍は後方との連絡を脅かされ、またドイツ軍は5月と6月に占領した地域のほぼ全てから撤退した。7月18日は同時代の歴史文献で「戦争の転機となる瞬間」とされ、連合国軍はドイツ軍の進軍を停止させ、以降終戦までドイツ軍を押した。

百日攻勢

「百日攻勢」として知られている連合国軍の反攻は1918年8月8日のアミアンの戦いで始まった。この戦闘では戦車400台以上とイギリス軍、イギリス自治領軍、フランス軍合計12万人以上が参加、その1日目の終わりにはドイツ軍の戦線に長さ24kmの間隙が開かれた。ドイツ軍の士気は大きく低下して、エーリヒ・ルーデンドルフに「ドイツ陸軍暗黒の日」と言わしめた。連合国軍が23kmほど前進したのち、ドイツ軍の抵抗が強くなり、アミアンの戦いは8月12日には終結した。

それまでの戦闘では初期の成功をさらに推し進めることが常だったが、連合国軍はアミアンの戦いで勝利した後、そのまま攻撃を続けず、他の戦場に移った。連合国の首脳部は敵軍の抵抗が強化された後でも攻撃を続けるのはただ兵士を浪費するだけであり、敵の戦線を押し潰すよりも側面に回り込む方が有利であると気づいた。そのため、連合国軍は側面への素早い攻撃を行って、攻撃の勢いが低減するとすぐに攻撃をやめる、という戦術を繰り返し行った。

イギリスとイギリス自治領軍は8月21日のアルベールの戦いで戦役の次の段階に進んだ。その後の数日間、英仏軍は攻撃を拡大した。8月末には連合国軍の長さ110kmにわたる前線への圧力が重く、ドイツ側の記録では「毎日が強襲の止まない敵軍との血なまぐさい戦いに費やされ、新しい前線への撤退で夜は眠れないまま過ぎた。」としている。

これらの敗退により、ドイツの陸軍最高司令部は9月2日に南のヒンデンブルク線への撤退を命じ、4月に奪取した突出部を抵抗もなく放棄した形となった。ルーデンドルフによると、「前線全体をスカルプ川からヴェール川に後退することは簡単に決定できるものではなかったが、(中略)いくらかの犠牲を払っても利益のある決定である」という。

9月には連合国軍がヒンデンブルク線の北部と中央部に進軍した。ドイツ軍後衛は活発に戦い、失われた陣地への反攻もしたが、成功したものは少なく、成功した攻撃でも一時的な奪還にしかならなかった。ヒンデンブルク線の偵察陣地や哨戒地の町村、山、塹壕などは続々と連合国軍に占領され、イギリス海外派遣軍は9月最後の1週間だけで30,441人を捕虜にした。9月24日には英仏が突撃してサン=カンタンから3kmのところまで近づいた。ドイツ軍はヒンデンブルク線上とその後ろの陣地に撤退した。

8月8日から4週間の間、ドイツ軍10万人以上が捕虜になった。「ドイツ陸軍暗黒の日」の時点でドイツ軍部は戦争全体がもはや負け戦と気づき、ドイツにとって満足のいく終戦を模索した。暗黒の日の翌日、ルーデンドルフは「我らは戦争に勝てなくなった。しかし負けるわけにもいかない」と述べ、11日には辞表を出したが、ヴィルヘルム2世は「我らは妥協しなければならない。我らの抵抗の力は限界にきていた。戦争は終わらなければならない」と返答、ルーデンドルフの辞任を拒否した。

13日、ルーデンドルフ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング、参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク、外相パウル・フォン・ヒンツェはスパで討議し、軍事力で戦争を終結させることが不可能であるという結論を出した。翌日にはドイツ皇帝諮問委員会が戦場での勝利はほぼ不可能であると結論を出した。オーストリア=ハンガリーは12月までしか戦争を続けられないと警告、ルーデンドルフは講和交渉を即刻始めることを勧めた。ループレヒト・フォン・バイエルンはマクシミリアン・フォン・バーデンに「軍事情勢が悪化しすぎて、私は冬の間持ちこたえられることが信じられなくなった。災難はそれよりも早く訪れるかもしれません。」と警告した。9月10日、ヒンデンブルクはオーストリア皇帝カール1世に平和に向けた動きを迫り、ドイツはオランダに仲介を求めた。9月14日、オーストリアは全交戦国と中立国に覚書を送り、中立国での平和会議を提案した。15日、ドイツはベルギーに講和を申し入れた。しかし、いずれも拒絶され、9月24日にはドイツ軍部がベルリン政府に停戦交渉が不可避であると通告した。

ヒンデンブルク線に対する最後の攻撃は9月26日にフランスとアメリカ軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢で始まった。その後の1週間、フランスとアメリカ軍はブラン・モンの戦いでシャンパーニュから突破、ドイツ軍はブラン・モンの山から撤退してフランス・ベルギー国境に向けて撤退せざるを得なかった。10月8日、ドイツ軍の防御線はカンブレーの戦いでイギリスとイギリス自治領の軍に突破された。ドイツ軍は前線を短縮させて、オランダ国境を利用して後衛への攻撃を防ぎつつドイツに撤退した。

ブルガリアが9月29日に単独で停戦協定を結ぶと、既に数か月間巨大な圧力に苦しんでいたルーデンドルフは神経衰弱のような症状を来した。ドイツが守備に成功することはもはや不可能であった。

ドイツの敗北が近いことはドイツ軍に知れ渡り、兵士反乱の脅威が広まった。ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフはドイツ海軍の「勇気」を回復するための最後の賭けに出た。マクシミリアン・フォン・バーデン率いるドイツ政府が反対することは明らかだったため、ルーデンドルフは行動をマクシミリアンに報告しないことにした。しかし、攻撃の計画がキールの水兵の耳に入ってしまった。その多くが攻撃計画を自殺行為と考え、攻撃に参加したくなかったため反乱を起こして逮捕された。ルーデンドルフは責任を負って10月26日にヴィルヘルム2世に罷免された。バルカン戦線の崩壊はドイツが石油と食料の主な輸入先を失うことを意味した。さらに、アメリカ兵が平均して日1万人が到着する中、ドイツは既に予備軍を使い果たしていた。アメリカは連合国軍の石油を8割以上提供しており、しかも不足はなかった。

ドイツ軍が弱まっており、ヴィルヘルム2世も自信を失ったため、ドイツは降伏へと移った。マクシミリアン・フォン・バーデンは帝国宰相として新しい政府を率いて連合国と交渉した。交渉条件がイギリスとフランスよりも寛大とされるから、スパで開かれていたドイツ軍の大本営は9月28日にウィルソン米大統領への講和交渉要請を決定した。ウィルソンはドイツ軍部が議会の統制を受けることと、立憲君主制の施行を要求した。ドイツ社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国樹立を宣言した時、抵抗を受けなかった。ヴィルヘルム2世、ドイツ諸邦の国王などの世襲君主は全て権力の位を追われ、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。ドイツ帝国は滅亡して、代わりにヴァイマル共和国が成立した。

停戦と降伏

中央同盟国の崩壊はすぐに訪れた。まず停戦協定を締結したのは1918年9月29日にサロニカ休戦協定を締結したブルガリアだった。10月30日、オスマン帝国はムドロス休戦協定を締結して降伏した。

10月24日、イタリアは反攻を開始し、カポレットの戦いで失われた領土を素早く回復した。その頂点がヴィットリオ・ヴェネトの戦いであり、オーストリア=ハンガリー軍はこの戦闘で崩壊してほとんど戦力にならなくなった。この戦闘はオーストリア=ハンガリー帝国解体の起爆剤にもなり、10月末にはブダペスト、プラハ、ザグレブで独立宣言が出された。10月29日、オーストリア=ハンガリー帝国はイタリアに停戦を求めたが、イタリア軍は進軍を続け、トレント、ウーディネ、トリエステに進んだ。11月3日、オーストリア=ハンガリー帝国は白旗を送り、休戦協定の締結に同意した。休戦協定はイタリアが電報でパリの連合国当局と交渉した後、オーストリア軍部に通告して受諾された。このヴィラ・ジュスティ休戦協定はパドヴァ近くのヴィラ・ジュスティで締結された。ハプスブルク帝国が転覆されたため、オーストリアとハンガリーは別々で休戦協定を締結した。その後、イタリア軍は兵士2万から22,000人でインスブルックと全チロルを占領した。

そして、1918年11月11日午前5時、コンピエーニュの森の列車にてドイツと連合国の休戦協定が締結され、同日午前11時に発効した。締結から発効までの6時間、西部戦線の軍はそれぞれ陣地からの撤退を開始したが、指揮官ができるだけ多くの領土を占領しようとしたため、多くの地域で戦闘が継続した。停戦の後、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー軍がラインラントを占領した。

1918年11月時点の連合国軍はドイツに侵攻するための兵士と資源をふんだんに有していたが、停戦時点でドイツとの国境を越えた連合国軍はいなかった。西部戦線はまだベルリンから720kmの距離があり、ドイツ陸軍は撤退の時、規律を維持することができた。そのため、ヒンデンブルクなどドイツの首脳部はドイツ軍が本当は敗北していなかったという噂を流すことができた。この噂はやがて背後の一突きという伝説に発展した。この伝説によると、ドイツの敗北は戦闘継続が不可能になったわけではなく(1918年にスペインかぜが全世界に流行、100万人に上るドイツ人兵士が患って戦闘不能だったにもかかわらず)、大衆が「愛国へのよびかけ」に応じなかったことと、ユダヤ人、社会主義者、共産党員による妨害工作によるものだったとされた。

連合国が戦争に投入できる資金は中央同盟国よりもはるかに多く、1913年時点の米ドルに基づく試算では連合国が580億ドルを、中央同盟国が250億ドルを投入した。うちイギリスは210億、アメリカは170億、ドイツは200億であった。

余波

戦争の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシアの4帝国が崩壊し、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家 、ロマノフ家がそれぞれ君主の座を追われた。4つの帝国が滅亡解体された結果、9つの国が建国された。1914年の開戦時にはフランス、ポルトガル、スイス、サンマリノの4か国しかなかったヨーロッパの共和制国家が、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、フィンランド、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルバニアと増加した(加えてオスマン帝国が廃されトルコ共和国が建国された)。またロシアは1917年のロシア革命によって帝政が打倒され、1922年に史上初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が建国されることになる。戦場となったベルギーとフランスは多大な損害を受けたほか、フランスでは死者だけで140万人もいた。ドイツとロシアも同程度の損害を受けた。

正式な終戦

戦争状態は正式には休戦協定が締結された後も7か月続き、ドイツが1919年6月28日にヴェルサイユ条約に署名するまで続いた。大衆が支持したにもかかわらず、アメリカ合衆国上院は条約を批准せず、1921年7月2日にウォレン・ハーディング大統領がノックス=ポーター決議に署名したことで、アメリカはようやく戦争から手を引いた。イギリスとその植民地については1918年の戦争終結定義法の条項に基づき、1920年1月10日にドイツとの戦争状態を、7月16日にオーストリアとの戦争状態を、8月9日にブルガリアとの戦争状態を、1921年7月26日にハンガリーとの戦争状態を、1924年8月6日にトルコとの戦争状態を終結させた。

ヴェルサイユ条約が締結された後、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条約が締結された。しかし、オスマン帝国との講和交渉をめぐって紛争が起き、1923年7月24日のローザンヌ条約でようやく終結を見た。

戦争祈念施設の一部は、終戦の日をヴェルサイユ条約が締結された日と定めた。この日は外国に派遣された多くの兵士がようやく本国に復員した日であったが、多くの戦争記念施設は終戦の日を休戦協定が締結された1918年11月11日とした。法的な戦争状態は最後の講和条約であるローザンヌ条約が締結されるまで続いた。同条約に基づき、連合国軍は1923年8月23日にコンスタンティノープルから撤退した。

講和条約

戦闘が終結した後、1919年より開始されたパリ講和会議は、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン提唱の『十四か条の平和原則』を原則とし、戦後の国際社会を構築するためのものとされたが、実際には戦勝国の要求が優先されるものとなった。6月28日には対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約、9月10日には対オーストリア共和国講和条約サン=ジェルマン条約、11月27日には対ブルガリア王国講和条約のヌイイ条約が締結された。ウィルソンの理想は翌1920年1月10日の「国際連盟」創設の実現をもって実質化した。しかし、国家元首かつ政府の長が提唱者であった肝心のアメリカ合衆国は連邦議会の否決により、設立当初から不参加となり、結局最後まで参加することはなかった。

中央同盟国は「連合国、その政府と国民が」中央同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。ヴェルサイユ条約では第231条がそれであり、後に「戦争責任条項」として知られるようになった。ドイツでは国民の多くがこの条項に屈辱を感じ、報復を考えた。ドイツ人は「ヴェルサイユのディクタット(絶対的命令)」に不当に扱われたと感じ、ドイツの歴史家ハーゲン・シュールゼ (Hagen Shulze) は条約によりドイツは「法的制裁を課され、軍事力を奪われ、経済的に破滅、政治的に侮辱された」と述べた。ベルギーの歴史家ローラン・ヴァン・イーペルセル (Laurence Van Ypersele) は「1920年代と1930年代のドイツ政治において戦争とヴェルサイユ条約の記憶が中心的な役割を果たした」と述べた:

一方、ドイツ帝国の統治から解放された新しい国々は、ヴェルサイユ条約を侵略的な隣国が小国に対して施した不当な行動を承認するものとしてみた。パリ講和会議ではあくまで全ての敗戦国に非戦闘員への損害を賠償することを強いたが、特にドイツ(敗戦による帝政崩壊後、ヴァイマル共和政)の負担は莫大なものとなった。

オーストリア=ハンガリー帝国は講和条約締結前に崩壊し、オーストリア共和国、ハンガリー、チェコスロバキアという新たな国家が成立した。帝国の領土のうちボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアはセルビア王国によって吸収されユーゴスラビア王国が成立した。またトランシルヴァニアはルーマニア王国への合流を宣言した。分割は主に(ただし、単にではなく)民族分布に沿って行われた。オーストリア共和国はサン=ジェルマン条約によってこの分割を承認した。

ハンガリーでは共和制のハンガリー人民共和国が成立していたが、パリ講和会議の最中のハンガリー革命によって共産主義国家ハンガリー評議会共和国が成立した。評議会共和国はハンガリー王国領であったスロバキアの奪回を目指してチェコスロバキアに侵攻し、ルーマニア王国の占領下にあったトランシルヴァニアの奪回をも企図した。しかし評議会共和国はホルティ・ミクローシュらによって崩壊し、ハンガリー王国が成立した。この新たなハンガリー王国と連合国が締結したトリアノン条約により、スロバキア・トランシルヴァニアなどの喪失は確定され、ハンガリー人330万人が外国に統治されることとなった。戦争以前のハンガリー王国ではハンガリー人が国民の54パーセントを占めたが、戦後に残された領土はその32パーセントだけだった。1920年から1924年、ハンガリー人354,000人がルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに割譲された元ハンガリー領から逃亡した。

1917年の十月革命の後に、単独講和を締結し戦争から脱落したロシア帝国はエストニア共和国、フィンランド共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ポーランド第二共和国の成立により西部国境の多くを喪失し、1918年4月にはルーマニアがベッサラビアを奪った。

オスマン帝国は解体し、レヴァントでの領地の大半が連合国に保護領として与えられた。アナトリア半島のトルコ本土はトルコ共和国として承認された。オスマン帝国は1920年のセーヴル条約で分割される予定だったが、メフメト6世には批准されず、トルコ国民運動にも拒否された。結果的にはトルコが革命戦争と希土戦争 (1919年-1922年)に勝利。1923年のローザンヌ条約はセーヴル条約よりもはるかに寛大であり、トルコ共和国はヨーロッパ側にも領土(東トラキア)を維持した。

国民意識

ポーランドはポーランド分割で消滅してから1世紀以上経った後、復活した。セルビア王国は「連合国の小国」、人口比で最も多く損害を出した国として、多民族国家である新生セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラヴィア王国に改名)の背骨になった。チェコスロバキアはボヘミア王国とハンガリー王国の一部を併合して独立した。ロシアはソビエト連邦になったが、フィンランドとバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)が独立した。オスマン帝国はトルコと中東のいくつかの国に取って代わられた。

イギリス帝国においては新しい国民意識が生まれた。オーストラリアとニュージーランドではガリポリの戦いが「砲火の洗礼」として知られるようになった。というのも、第一次世界大戦は両国の軍が初めて戦った大規模な戦争であり、オーストラリア軍がイギリス国王の臣下としてだけでなく、オーストラリア人としても戦った初の戦争であった。この日はオーストラリア・ニュージーランド軍団を記念するアンザック・デーとして祝われている。

カナダ師団が初めて独立部隊として戦ったヴィミ・リッジの戦いの後、カナダ人はカナダを「火で鍛えられた」国と形容するようになった。「母国」がつまずいた戦場で勝利したことで、カナダ軍は初めてその貢献を国際的に認められた。カナダはイギリス帝国の自治領として参戦して、終戦まで同じ状態であったが、終戦の時点では独立性が高まった。1914年にイギリスが参戦したとき、自治領は自動的に戦争状態に入ったが、終戦時にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカがそれぞれ独自にヴェルサイユ条約に署名した。

オスマン帝国は第一次世界大戦までの数百年間、中東である程度の平和と安定を維持していた。しかし、オスマン政府が倒れたことで中東は権力の真空状態になり、領土と建国に関する様々な矛盾した主張がなされた。第一次世界大戦の戦勝国はすぐに国境線を策定したが、現地の住民には粗略な諮問しかしておらず、これらの国境は21世紀に入っても未解決のままである。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体したことで、中東戦争など現代の中東の政治情勢が形作られたほか、水などの天然資源をめぐる紛争も引き起こした。

また、1917年ロシア革命による社会不安と広範囲にわたる暴力、そしてその直後のロシア内戦により、元ロシア帝国領(主にロシア革命後のウクライナ)で2千以上のポグロムが起きた。その結果、ユダヤ人6万から20万人が殺害された。

ギリシャは第一次世界大戦直後の希土戦争でムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ国民軍と戦った後、ローザンヌ条約に基づき住民交換を行った。しかし、多くの文献によると、この時期のギリシャ人虐殺により数十万人のギリシャ人が死亡した。

疫病の問題

戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6千万人のうち、800万人が戦死、700万人が永久的な身体障害者になり、1,500万人が重傷を負った。ドイツは男性労働人口の15.1%を、オーストリア=ハンガリーは17.1%、フランスは10.5%を失った。ドイツでは、一般市民の死亡者が平時よりも474,000人多かったが、主に食料の不足と栄養失調による餓死や病死が原因である。レバノンでは終戦までに飢饉により約10万人が死亡した。

1921年ロシア飢饉により500万から1,000万人が死亡した。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が孤児になった。反ソ連のロシア人(白系ロシア人)の多くがロシアから逃亡、1930年代の満洲国ハルビン市では10万人のロシア人が住んでいたという。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。

戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。寄生虫による発疹チフスで、1914年のセルビアだけでも20万人の死者(うち兵士は7万人)が出た。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した。1923年にはロシアで1,300万人がマラリアに感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった。さらに、1918年にはスペインかぜ(インフルエンザ)が大流行、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した。「スペインかぜ」の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で中立国のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている。

ハイム・ヴァイツマンによるロビー活動もあって、ユダヤ系アメリカ人がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年にバルフォア宣言を発してパレスチナにおけるユダヤ人国家の建国を支持した。第一次世界大戦に参戦したユダヤ人兵士は合計1,172,000人以上であり、うち275,000人がオーストリア=ハンガリー軍、450,000人がロシア帝国軍に従軍した。

社会の傷跡

第一次世界大戦は空前の戦死傷率を記録して、社会に大きな傷跡を残した。第一次世界大戦が残した傷跡はしばしば議論される。ベル・エポックの楽天主義は崩れ去り、戦争に参加した世代は「失われた世代」と呼ばれた。戦後長年にわたり、21世紀に至っても人々は死者、行方不明者を哀悼し続け、障害を負った者を悲しみ続けた。

多くの兵士はシェルショック(現在の戦闘ストレス反応)(神経衰弱とも。心的外傷後ストレス障害の関連疾患)などの精神的外傷を負った。大半の兵士はそのような障害もなく故郷に戻ることができたが、戦争について語ろうともせず、結果的には「兵士の大半が精神的外傷を負った」という伝説が広まることになった。

実際には多くの兵士は戦闘に参加せず、または軍務をポジティブにとらえたが、苦しみとトラウマというイメージは根強く残った。歴史家のダン・トッドマン (Dan Todman)、ポール・フュッセル、サミュエル・ヘインズ (Samuel Heyns) は1990年代以降、著作を出版してこのような見方が誤りであると指摘した。

ドイツでの不満

第一次世界大戦後のナチズムとファシズムの広まりには、民族主義の復活と戦後の変革(民主化)に対する拒絶が含まれている。同じように、背後の一突き伝説が支持を得た背景には、敗戦国たるドイツの心理状態、および戦争責任の拒絶があった。この陰謀論は広く受け入れられ、ドイツ国民は自身を被害者とみなした。また、同じ理由により、ヴァイマル共和政はその正統性が揺らいで政局は常に不安定化し、左右両翼の勃興を許した。

ヨーロッパの共産主義とファシズム運動はこの陰謀論を利用して人気を得、特に戦争の影響を深く受けた地域で顕著だった。ナチス党首アドルフ・ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に対するドイツの不満を利用して人気を博した。そのため、第二次世界大戦は第一次世界大戦で解決されなかった権力闘争の継続という一面がある。さらに、1930年代のドイツは、第一次世界大戦の戦勝国に不公平に扱われたことを理由として、侵略を正当化した。

アメリカの歴史家ウィリアム・ルービンスタインは、「『全体主義の時代』は現代史上の悪名高いジェノサイドを全て含み、ユダヤ人に対するホロコーストがその筆頭であったが、共産主義諸国による大量殺人と追放、ドイツのナチ党とその同盟者によるほかの大量殺戮、そして1915年のアルメニア人虐殺も含む。ここで主張するのは、これらの殺戮の起因は全て同じであり、その起因とは第一次世界大戦によりエリート層の構造と中央、東、南ヨーロッパの政府の常態が崩壊したことであった。それがなければ、共産主義もファシズムも無名の扇動者や変わり者の頭の中にしか存在しないものとなっていたであろう。」と述べた。

経済への影響

第一次世界大戦の最も劇的な影響の一つは、イギリス、フランス、アメリカ、そしてイギリス帝国の自治領政府がその権力と義務を拡大させたことだった。戦争努力を支援する新しい税が徴収され、法律が制定された。その一部は現代まで続いた。また、オーストリア=ハンガリーやドイツなどの大きく官僚的な政府はその能力を限界まで駆使した。

国内総生産は連合国のうち4か国(イギリス、イタリア、日本、アメリカ)では上昇したが、フランスとロシアでは下がり、ほかには中立国のオランダと主要な中央同盟国3か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国)でも下がった。中でも、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、オスマン帝国では30から40パーセントの下がり幅だった。例えば、オーストリアでは豚の大半が屠殺されたため、終戦のときには食肉がほとんどなかった。

国内総生産のうち、政府が占める比率は全ての国で上昇、ドイツとフランスでは50%を越え、イギリスでも50%に近い比率だった。アメリカからの物資購入代金を工面すべく、イギリスはそれまでのアメリカ鉄道に対する投資を現金化(売却)、続いてウォール街で大量に借り入れた。1916年末には米大統領ウィルソンが融資の打ち切りを決定する瀬戸際まできていたが、結局アメリカ政府から連合国への融資を大幅に増やした。1919年以降、アメリカが融資の償還を要求すると、連合国はドイツからの賠償金で資金の一部を賄ったが、ドイツからの賠償金はアメリカからドイツへの融資だった。このシステムは1931年に崩壊、融資の一部は償還されなかった。1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦に関するアメリカからの債務を44億ドルも残しており、全ての償還が終わったのは2015年だった。

第一次世界大戦はマクロ経済にもミクロ経済にも影響を与えた。家族レベルでは男性の多くが従軍・戦死したため稼ぎ手を失い、多数の女性が働くことを余儀なくされた。工場でも多くの労働者が従軍で失われ、サフラジェット運動(女性参政権)に弾みがついた。

オーストラリア首相ビリー・ヒューズは、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージに手紙を書き、「あなたはこれ以上良い条約を勝ち取ることができないと私たちに保証した。しかし、私たちは今でも、イギリス帝国とその同盟者が払った多大な犠牲と釣り合う賠償を確保する何らかの方法が見つかると信じている。」と述べた。オーストラリアは5,571,720ポンドの戦時賠償を受け取ったが、戦争の直接支出だけでも376,993,052ポンドに上り、1930年代中期までに賠償年金、戦争の給与金、利子と減債積立金の合計が831,280,947ポンドと賠償金の100倍以上に上った。参戦したオーストラリア軍416,000人のうち、約6万人が戦死、152,000人が負傷した。

第一次世界大戦は「余剰女性」の問題を悪化させた。イギリスでは100万人近くの男性が戦死したことで余剰女性(女性と男性の人数差)が67万人から170万人に上昇した。そのため、仕事に就こうとした未婚女性の人数が大幅に上昇した。その上、兵士の復員と戦後の不況により失業率がうなぎ登りになった。戦争は確かに女性の社会進出を促進したが、兵士が復員したことと戦時工場が休業したことにより、却って多くの人が失業した。

イギリスでは1918年初頭にようやく配給制度が導入されたが、肉、砂糖、脂肪(バターとマーガリン)に限られ、パンは制限されなかった。また、労働組合の参加者数は1914年に400万を少し超えた程度だったのが、1918年には倍になり、800万人を超えるまでになった。

平時の輸入源から戦争物資を輸入することに困難が生じたため、イギリスは植民地に目を向けた。アルバート・アーネスト・キットソンなどの地質学者は、アフリカの植民地で貴金属の鉱層を見つけることを依頼された。キットソンは英領ゴールド・コーストで弾薬製造に必要なマンガンの鉱層を発見した。

ヴェルサイユ条約の第231条(いわゆる「戦争責任」条項)において、ドイツは「連合国、その政府と国民が」ドイツとその同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった。この条項は第一次世界大戦の賠償の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった。1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった。

賠償金は現金でも現物(石炭、木材、化学染料など)でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、ルーヴェンの図書館の修復なども算入された。1929年、世界恐慌が起き、世界中の政治を混乱させた。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。アドルフ・ヒトラーが権力を奪取すると、1920年代と1930年代初期に発行された債券は取り消された。しかし、デヴィッド・A・アンデルマンは「支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する」と述べた。そのため、第二次世界大戦後の1953年、ロンドン会議において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった。

ハーバー・ボッシュ法を考案した一人であるフリッツ・ハーバーは、賠償金の足しにするため1920年から海水から金を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。

戦後のドイツでは深刻な住宅不足に直面しており、賃貸集合住宅の数を増やすため、1920年代に様々な公営住宅計画が立てられた。この住宅は労働者階級にも家賃が払えるようにコストを重視した結果、室内の広さやデザインを限定することにした。この際に台所の設計として採用された能率重視のフランクフルト・キッチンは、現代のシステムキッチンの先駆けとされている。

軍の資金援助で無線機器の改良が進んだため、戦後にはフランスやイギリス、日本やアメリカのみならず、敗戦国のドイツでもラジオが流行し、新たなメディアとして広まった。

また、手で操作しなければならない懐中時計に代わり、当時は主に女性用アクセサリーとされていた腕時計が日用品の座を得た。

文化への影響

第一次世界大戦下では、大戦を題材とした戦争文学が広く読まれ、これらの作品の多くは作家自身の従軍経験をもとに戦場を描いたものだった。従軍中に詩作したことで「戦場詩人」と呼ばれ、休戦直前に戦死したイギリスのウィルフレッド・オーウェンはその代表的な作家である。フランスの権威ある文学賞のゴンクール賞も、大戦中の受賞作は全て戦争文学作品となった。受賞作のなかでも、特にアンリ・バルビュス『砲火』(1916年)は、20万部の売上を記録し、以後の「戦争小説のモデル」となったとされる。フランス文学研究者の久保昭博によれば、『砲火』は兵士の死体や過酷な塹壕生活を口語・俗語文体を用いて描くことで、迫真的な大戦描写に成功したのである。

ドイツでも、自然主義や表現主義の戦争文学に続いて、戦間期にはハンス・カロッサ『ルーマニア日記』(1924年)や、エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』(1929年)に代表される新即物主義の戦争文学が登場した。これらの新即物主義の作品も、報告体を用いてより写実的に第一次世界大戦の戦場を描写したものだった。特に『西部戦線異状なし』は、刊行からほどなく25ヶ国語に翻訳され、計350万部の売上を記録した。

アメリカでは第一次世界大戦の影響の下、いわゆる「失われた世代」の作家たちが登場した。1926年、その代表的な作家であるアーネスト・ヘミングウェイと ウィリアム・フォークナーは、それぞれ初の長編作品を出版したが、両者の作品とも第一次世界大戦を背景としたものだった(ヘミングウェイ『日はまた昇る』、フォークナー『兵士の報酬』)。

美術の分野でも、第一次世界大戦に多くの芸術家が従軍画家として参加し、プロパガンダのための戦争画を描いた。また、こうした伝統的な従軍画家だけでなく、装備のカモフラージュを行うためにキュビズムやヴォーティシズムの画家が動員された。さらに、徴兵されてあるいは志願して前線で兵士として戦う芸術家もいた。西洋近現代美術史研究者の河本真理によれば、戦場を体験した画家たちは、戦争の理念的側面を抽象的な様式で表現しようとする者と、戦場の人々の身体などを写実的な様式で表現しようとする者の二つの系統に分かれていった。大戦による西洋社会の動揺は、一方では、前衛的な芸術から古典的な芸術へという「秩序への回帰」につながる。しかし、その一方で、第一次世界大戦を近代合理主義の限界であるとみなし、これまでの芸術の在り方を否定する「反芸術」のダダイスムも登場することとなった。

また、第一次世界大戦では、これまでの戦争と異なり、ポスター、写真、映画といった新しい手段によっても戦争が描かれた。フランスをはじめとする参戦国政府は、写真部・映画部のような組織を設置し、プロパガンダの手段として写真・映画を活用しようとした。特に、1916年公開の無声記録映画『ソンムの戦い』は、イギリスの戦争プロパガンダ局長チャールズ・マスターマンの主導で作られ、当時の国内映画の最多観客動員数記録を更新するほどの人気を博したという。

国際平和への努力

第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ、1919年に米大統領ウィルソンの提唱により、人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約(1922年)、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)といった軍縮条約が締結された。

しかし、これら国際平和のための様々な努力も空しく、第一次世界大戦の原因と結果を巡る多くの戦後処理の失敗、戦後好景気の反動としての世界恐慌の発生とブロック経済化、社会主義の勢力拡大などで、それらに対抗する形でのイタリア王国のムッソリーニ率いるファシスト党、ドイツのヒトラー率いるナチスと、ファシズムが台頭していった。

戦勝国の日本でも、日本のシベリア出兵や中華民国での排日とそれに対する日本軍の出兵拡大。また日英同盟の破棄やアメリカでの日本人移民の差別などが行われた末のナショナリズム台頭といった混乱が起きた。さらに1931年には関東軍主導により満洲事変が起こされ、数度にわたり軍事クーデターが起きたことで、第一次世界大戦後に日本に根付くかと思われた民主主義(大正デモクラシー、普通選挙)がわずか15年程度で途絶え、軍国主義が進むこととなった。

国際連盟は提唱国であるアメリカをはじめとした大国の不参加や脱退が相次いで十分な役目を果たせず、戦間期に発生した係争への介入を行うことがほとんどできなかった。ヴェルサイユ条約成立後、フランスのフェルディナン・フォッシュ陸軍元帥は、「これは講和ではない。20年間の休戦にすぎない」と予言していた。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどという考え方では、いつの日か必ず復讐されることになる」と条約を批判。アメリカのある上院議員も「この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した」と述べた。そして彼らの予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939年に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦が勃発することとなる。

戦場跡に残る不発弾と遺骨

この戦争における砲撃の数量は凄まじく、西部戦線の主戦場となったフランスの内務省によれば、国内で約14億発の砲弾が使用され、そのうち約1割が不発弾となったという。内務省の爆発物処理隊隊員が加盟している研究会では、その全ての不発弾を処理するためにかかる時間を約700年と試算している。

西部戦線の戦跡では、不発弾のほか廃棄された毒ガスを含む砲弾による土壌汚染が深刻なために、立ち入りが禁止されている土地が残っており、無害化のための調査・処理が続いている。また、戦地に放置・埋葬された戦死者の遺骨もいまだ多く残されており、その収集とDNA型鑑定などによる遺族捜し、納骨が21世紀以降も続けられている 。

21世紀

従軍した軍人のうち、最後まで存命だった元イギリス海軍水兵クロード・チョールズが2011年5月5日、110歳で死去した。

現代にも大きな影響を与えており、2018年11月11日にパリで行われた終戦100年記念式典には、フランス、日本、イギリス、イタリア、アメリカなどの戦勝国や、ドイツなど敗戦国を含めて60カ国以上の首脳級要人約70人が参加した。

軍事技術

火薬

第一次世界大戦が始まると無煙火薬であるコルダイトが大量に必要となったが、原料となるアセトンは木材を乾留して製造されていたため、安定した大量供給は難しかった。当時マンチェスター大学で化学を教えていたハイム・ヴァイツマンは1910年頃にデンプンからアセトンを合成する手法を開発しており、イギリス政府と協力し工業化に成功したことで、年間3万トンのアセトンが供給可能となった。この功績によりウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージなどイギリス政府の要人に知己を得たことによりロビー活動での影響力が増すこととなった。

陸上戦

第一次世界大戦の初期では20世紀の技術と19世紀の戦術が混ざり合い、大きな損害は不可避であった。しかし、列強の軍は1917年末までにそれぞれ兵力を数百万人に増やしつつ現代化を進め、電話、無線通信、装甲車、戦車、飛行機を利用するようになった。歩兵の編成も変更され、それまで100人の中隊が部隊の行動単位だったのを下士官率いる10人程度の分隊に変更された。

大砲も革命を遂げた。1914年、大砲は前線に配置され、砲弾は標的に直接撃たれた。しかし、1917年までに大砲、臼砲、さらに機関銃による間接射撃が多用されるようになり、飛行機や(見落とされることも多い)野戦電話といった新しい技術による測距や射弾観測が行われるようになった。また、大砲音源測距対砲兵射撃が一般的になった。

重砲火による間接射撃についてはドイツの方が連合国軍よりもはるかに進んでいた。ドイツ陸軍は1914年時点で既に150mmと210mm榴弾砲を運用しており、一方フランス陸軍とイギリス陸軍の大砲は75mmと105mm程度だった。イギリス軍は6インチ (152mm) 榴弾砲を1門有していたが、重くてまともに運べず、分解して前線に運んだ後改めて組み立てなければならない代物であった。ドイツはさらにオーストリアの305mmと420mm大砲を使用、また開戦時点で既に塹壕戦に適する、様々な口径のミーネンヴェルファーを有していた。

1917年6月27日、ドイツ軍は当時世界最大の大砲バッテリー・ポンメルンを使用した。クルップ社が製造したこの大砲は重さ750kgの砲弾をクケラーレから50km先のダンケルクに発射することができた。

戦闘の多くは塹壕戦であり、前線を1m前進させるために数百人が犠牲になるというものだった。歴史上死傷者の最も多い戦闘の中には第一次世界大戦の戦闘が多く含まれ、例としてはパッシェンデールの戦い、マルヌ会戦、カンブレーの戦い、ソンムの戦い、ヴェルダンの戦い、ガリポリの戦いがある。ドイツはハーバー・ボッシュ法による窒素固定を活用して、イギリスの海上封鎖にもかかわらず火薬を絶やさずに供給することができた。大砲の攻撃は最も多くの損害を出し、大量の爆発物を費やした。爆弾の爆発や破砕により兵士の頭部損傷が続出したため、交戦諸国は現代も使われる鋼鉄製戦闘用ヘルメットを設計した。その端緒となったのはフランスが1915年に導入したアドリアンヘルメットであり、直後にイギリスとアメリカがブロディヘルメットを採用、1916年にはドイツがシュタールヘルムを導入した。シュタールヘルムはその後改良を経て現代まで使用されている。

化学兵器が広く使われたことも第一次世界大戦の特徴であった。攻撃に使われたガスは塩素、マスタードガス、ホスゲンなどだった。最初に使われた塩素に対する対策のガスマスクはすぐに配備され、以降より効果的な化学兵器の開発とその対策の開発がいたちごっこのように続き、終戦まで続いた。化学兵器の使用と小規模な戦略爆撃はいずれも1899年と1907年のハーグ陸戦条約で禁止され、両方とも効果が薄いことが証明されたが、大衆の注目を集めることには成功した。

陸戦兵器のうち戦闘力が最も強いのは1門数十トンの重さを有する列車砲である。ドイツが使用したのはディッケ・ベルタ(「太っちょベルタ」)というあだ名が付けられた。ドイツはまたパリ砲を開発、重さ256トン、砲弾の重量は94kgで、パリを約100km先から砲撃することができた。

塹壕、機関銃、空からの偵察、有刺鉄線、破砕砲弾を使用する現代化した大砲といった技術により、第一次世界大戦の戦線は膠着した。イギリスとフランスは戦車を開発して機甲戦に持ち込むことで戦線の膠着を解決しようとした。イギリス初の戦車であるマーク I 戦車はソンムの戦いの最中、1916年9月15日に使用された。この時は安定性に問題があったが、実戦に耐えうることを証明することができた。そして、1917年11月のカンブレーの戦いではヒンデンブルク線を突破する一方、諸兵科連合部隊が敵兵8千人を捕虜にし、大砲100門を鹵獲することができた。一方、フランスは旋回砲塔を持つルノー FT-17 軽戦車を開発、ルノー FT-17はフランスの勝利に大きく貢献した。ほかにもルイス軽機関銃、ブローニングM1918自動小銃、MP18など軽機関銃や短機関銃が導入された。

もう1つの新型武器である火炎放射器はまずドイツ陸軍によって使われ、続いて諸国の陸軍に採用された。戦術的には高い価値を有さなかったが、戦場上の恐慌を引き起こし、敵軍の士気を低下させる武器として有用であった。

塹壕戦には大量の食料、水、弾薬が必要であり、平時の交通システムが破壊される地域も多いため塹壕鉄道が発展した。しかし、内燃機関の改良により、塹壕鉄道は廃れた。

海戦

ドイツは開戦の後、Uボート(潜水艦)を配備した。ドイツ帝国海軍はUボートを駆使して大西洋で制限付きと無制限潜水艦作戦を交互に遂行、イギリスの補給を断とうとした。イギリス商船の海員が死亡したことと、Uボートが無敵のように見えたことで爆雷(1916年)、ハイドロホン(パッシブソナーの一種、1917年)、軟式飛行船、攻撃型潜水艦R級潜水艦、1917年)、前方攻撃用の対潜兵器、吊下式ハイドロホン(最後の2つは1918年に放棄された)などが次々と開発された。潜水艦をさらに活用すべく、ドイツでは1916年に補給潜水艦が提案された。

空戦

固定翼機が初めて軍事利用されたのは伊土戦争中の1911年10月23日、イタリア軍がリビアを偵察した時だった。翌年にはグレネード投下や空中写真撮影に使われるようになった。飛行機の軍事上の価値は1914年までに明らかになり、戦争初期には偵察や近接航空支援で使われた。敵機を撃ち落とすべく、対空砲や戦闘機が開発された。他にも戦略爆撃機が開発され、主にドイツとイギリスが使った。ドイツはツェッペリン(硬式飛行船の一種)や大型の複葉機で北海を渡り、ロンドンなどイギリス本土を空襲した。

戦争末期には航空母艦が初めて使われ、1918年にはイギリスのフューリアス号がトンデルンにあったツェッペリン飛行船のハンガーを破壊するためトンデルン襲撃を敢行、ソッピース キャメルを飛ばせた。

塹壕の上空を飛ぶ有人観測気球は固定の偵察基地として使われ、敵軍の動きを報告したり、砲兵に指示を出したりした。気球の乗員は一般的には2名であり、2人ともパラシュートを装備していた。これは敵軍による対空攻撃に遭った場合でもパラシュートを使って安全に脱出できるようにするためであった。当時のパラシュートは重すぎて、積載量が既にぎりぎりの飛行機に搭載できず、小型化は戦争終結後に行われたことだった。またイギリスの首脳部でもパラシュートがパイロットの臆病さにつながるとしてその搭載に反対した。

偵察されることを防ぐため、気球は敵機にとって重要な標的である。敵機から身を守るため、気球には対空砲が搭載され、さらに自軍の飛行機がパトロールを行った。また空対空ロケットといったより特殊な武器も試された。軟式飛行船や気球による偵察の結果、全種類の飛行機の間で行われる空対空戦闘(航空戦)が発展した。また、気づかれずに大軍を動かすことが不可能になったため、塹壕戦が膠着する一因となった。ドイツは1915年と1916年にイングランド空襲を行い、イギリスの士気を低下させるとともに飛行機を前線から引き起こそうとし、実際に恐慌が起こったため数個飛行隊の戦闘機がフランスから急遽イギリスに派遣された。

暗号

1914年にイギリスがドイツの海底通信ケーブルを切断した結果、国際通信ケーブルと無線しか使えなくなったドイツは傍受を防ぐために通信を暗号化した。

しかし、ドイツは戦争初期に多くの不幸に見舞われ、暗号を悉く解読された。まず、イギリス海軍がオーストラリア沖でドイツの商船からHandelsverkehrsbuch (HVB) というコードブックを奪取、続いてエストニアで座礁したドイツ船からドイツ海軍用のSignalbuch der Kaiserlichen Marine (SKM) がロシアに奪われ、さらにVerkehrsbuch (VB) もオランダ沖でイギリスに取得された。

これらのコードブックを得たイギリスは傍受した通信量が膨大だったこともあり、海軍本部で暗号解読部門であるルーム40を設立した。ルーム40は後にツィンメルマン電報の解読に成功、アメリカを連合国側で参戦させることに成功した。

戦時下の社会

捕虜の処遇

第一次世界大戦では約800万人が降伏して捕虜収容所に収容された。全参戦国がハーグ陸戦条約に基づき捕虜を公正に処置すると公約した結果、捕虜の生存率が前線で戦った兵士の生存率よりも高くなった。最も危険なのは降伏の瞬間であり、降伏の意を示した兵士が射殺されることもあった。単独で降伏した者は少なく、大部隊が一度に降伏することが多かった。一方、収容所にたどり着いた捕虜の状況は赤十字社や中立国の監察もあってそれなりに良く、第二次世界大戦での状況よりもはるかに良かった。

例としては、ガリツィアの戦いでロシア軍がオーストリア=ハンガリー軍10万から12万人を捕虜にし、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍約325,000-417,000人がロシア軍に降伏、タンネンベルクの戦いでロシア軍9万2千が降伏した。1915年2月から3月のプシャスニシュの戦いでドイツ軍1万4千がロシア軍に降伏、同年8月にカウナス駐留軍が降伏すると、ロシア軍約2万が捕虜になった。また第一次マルヌ会戦ではドイツ軍約1万2千が連合国軍に降伏した。ロシアの損害(戦死、負傷、捕虜)のうち、25から31%が捕虜であり、オーストリア=ハンガリーは32%、イタリアは26%、フランスは12%、ドイツは9%、イギリスは7%だった。ロシア軍の捕虜250-350万を除く連合国軍の捕虜は約140万人で、中央同盟国の損害は約330万人(その大半がロシア軍への降伏だった)。ドイツ軍は250万人の捕虜を、ロシア軍は220万から290万人の捕虜を、英仏軍は約72万人の捕虜を捕らえた。その大半は1918年の停戦直前に捕らえた捕虜だった。日本軍は約5,000人、アメリカ軍は4万8千人の捕虜を捕らえた。

日本は戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の捕虜は丁重に扱った。青島と南洋諸島で捕獲した捕虜約4700名は、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビール、オーケストラをはじめ、収容所から広まった数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。スペイン風邪の世界的流行の中、死亡者はわずか9人のみであった。またドイツでは食糧不足があったものの死亡した捕虜は5%に過ぎなかった。

反面ロシアでの状況は悪く、捕虜も非戦闘員も飢餓が多かった。ロシアでは囚われていた捕虜の15から20%が死亡、中央同盟国に囚われたロシア兵の8%が死亡した。またオスマン帝国では国際法の教育が全く行われておらず、捕虜をひどく扱うことが多かった。これはオスマン帝国がムスリム国家(キリスト教国ではない)であるゆえと西欧中心主義的視点から言われることがあるが社会学的な正確性が欠けた偏見である。1916年4月のクート包囲戦の後、イギリス兵士約11,800人(主に英領インドの兵士)が捕虜になったが、そのうち4,250人が捕虜のまま死亡した。捕虜になった時点で健康状態が悪い者が多かったが、オスマン軍は彼らに1,100km行進してアナトリア半島まで行くよう命じた。生還者の一人は「獣のように扱われた。脱落することは死に等しかった」と述べた。その後、生還した捕虜はトロス山脈を通る鉄道の建設に駆り出された。

第一次世界大戦が停戦した後、敗戦した中央同盟国に囚われた捕虜はすぐに送還されたが、日本を除く連合国とロシアに囚われた捕虜は同様の扱いを受けられず、多くが強制労働に駆り出された。例えば、フランスでの捕虜は1920年まで強制労働を強いられた。捕虜の釈放は赤十字が連合国軍総司令部に何度もかけあった後にようやく行われた。ロシアでのドイツ人捕虜の釈放はさらに遅く、1924年時点でもまだロシアに囚われていた捕虜もいた。これは第二次世界大戦のソ連と同様であった。

戦争への支持

オーストリア=ハンガリー帝国の出身でクロアチア人の亡命政治家アンテ・トルムビッチなどユーゴスラヴィア主義者は、南スラヴ統一国家の建国を望んだため、戦争を強く支持した。1915年4月30日、トルムビッチ率いるユーゴスラヴィア委員会がパリで成立、直後にロンドンに移った。1918年4月にはローマで「圧迫された民族の会議」(Congress of Oppressed Nationalities) が行われ、チェコスロバキア人、イタリア人、ポーランド人、トランシルヴァニア、南スラヴの代表が連合国にオーストリア=ハンガリーの住民による民族自決を支持するよう求めた。

中東ではトルコの民族主義と呼応してアラブ民族主義も高揚、汎アラブ国家の建国が叫ばれるようになった。1916年、アラブ反乱がオスマン帝国の中東領で起こり、独立を目指した。

東アフリカではダラーウィーシュ国がソマリランド戦役でイギリスと戦っていたが、エチオピア帝国のイヤス5世はダラーウィーシュ国を支持した。ドイツ駐アディスアベバ大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シルベルクは「エチオピアがイタリア人を追い出して紅海沿岸を奪回、帝国を以前の規模に回復する時が来た」と述べた。エチオピア帝国は中央同盟国側で参戦する瀬戸際まできたが、同盟国がエチオピアにおける独裁について圧力をかけたことでイヤス5世が廃位されたため参戦が取り止めとなった。

社会主義政党の一部は1914年8月の開戦時点では戦争を支持した。ヨーロッパの社会主義者は民族主義についての意見が分かれたが、愛国心による戦争への支持がマルクス主義者などの急進派が持つ階級闘争の概念、そして労働組合主義を圧倒した。開戦すると、イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ロシアの社会主義者は民族主義の時流に従って自国の参戦を支持した。

当時アメリカで活躍していたイギリス人のチャーリー・チャップリンや日本人の早川雪洲は、アメリカの戦時公債発売委員に推薦され、特に早川は日本の同盟国のアメリカの国債を6万ドルも買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、1918年には『バンザイ』(Banzai) という公債販売促進のための映画まで撮って、アメリカを助けた。

イタリア民族主義は戦争により高揚、初期には様々な政治会派からの支持を受けた。最も活動的で支持を受けたイタリア民族主義者の一人はガブリエーレ・ダンヌンツィオであり、彼はイタリア民族統一主義を宣伝、イタリア大衆を参戦支持に動かした。イタリア自由党のパオロ・ボセッリは連合国側で参戦することを支持してそれを宣伝、ダンテ・アリギエーリ協会をイタリア民族主義の宣伝に利用した。

イタリアの社会主義者は戦争を支持すべきか反対すべきかで意見が分かれた。ベニート・ムッソリーニやレオニーダ・ビッソラティなどは支持したが、イタリア社会党は反軍国主義の抗議を行った者が殺害されると戦争反対の方針を決定、6月に赤い一週間と呼ばれるゼネラル・ストライキを行った。社会党はムッソリーニなどの参戦を支持した党員を除名した。労働組合主義者だったムッソリーニはイタリア民族統一主義に基づき、オーストリア=ハンガリーのイタリア人地域の併合を支持、1914年10月に『イル・ポポロ・ディタリア』を創刊し、国際行動のための革命ファッシを設立。後に1919年のイタリア戦闘者ファッシに発展し、ファシズムの起源となった。ムッソリーニが民族主義を支持したことで、彼はアンサルド(軍備会社)などの会社から募金して『イル・ポポロ・ディタリア』の創刊に必要な資金を集めた。彼はこの新聞で社会主義者などを説得して戦争を支持させた。

反戦運動

開戦直後には多くの社会主義者や労働組合が政府を支持したが、ボリシェヴィキ、アメリカ社会党、イタリア社会党、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクなどの例外もあった。

開戦から3か月も満たない1914年9月にローマ教皇に就任したベネディクトゥス15世は第一次世界大戦とその影響を在位期間の初期の焦点とした。前任のピウス10世と違い、彼は選出から5日後に平和のために手を尽くすと宣言した。彼の初の回勅で1914年11月1日に公布されたアド・ベアティッシミ・アポストロルムも第一次世界大戦に関するものだった。しかし、ベネディクトゥス15世は教皇の立場から平和の使者として振舞ったものの参戦各国に無視された。1915年にイタリアと三国協商の間で締結されたロンドン条約でも教皇による平和への動きを無視する条項が盛り込まれ、またベネディクトゥス15世が1917年に提案した平和案もオーストリア=ハンガリーを除いて無視された。

1914年、イギリスのパブリックスクールの将校訓練課程の年度キャンプがソールズベリー平原近くのティッドワース・ペンニングス (Tidworth Pennings) で行われた。陸軍総司令官ホレイショ・ハーバート・キッチナーが士官候補生を閲兵する予定だったが開戦により出席できなくなったため代わりにホレス・スミス=ドリアンが派遣された。バミューダ諸島出身の士官候補生ドナルド・クリストファー・スミス (Donald Christopher Smith) の述懐によると、スミス=ドリアンのスピーチは出席した下士官候補生2,000-3,000名を驚かした。

彼は戦争は何としても避けなければならない、戦争は何も解決しない、全ヨーロッパや多くの地域が廃墟に化する、人命の損失が大きすぎて全人類の人口が絶滅する、などと述べた。そのような憂鬱で愛国的でない感情を述べるイギリスの将軍に、私、そして私達の多くが、無知なことに彼を恥じた。しかし、その後の4年間にわたり、私達のうち大虐殺を生き残った者(おそらく4分の1を越えないだろう)は将軍の予想の正しさを知り、彼がそれを述べるのにどれだけの勇気が要るかを知った。

多くの国は戦争に反対した者を投獄した。例としてはアメリカのユージン・V・デブスとイギリスのバートランド・ラッセルがいる。アメリカでは1917年スパイ活動法と1918年扇動罪法により募兵反対や「愛国的ではない」主張が犯罪であると定められた。政府を批判する出版物は郵便での検閲により流通できないようにされ、多くの人々が愛国的でない主張をした廉で長期間投獄された。

民族主義者の一部は、特にその民族主義者が敵対した国において戦争への介入に反対した。アイルランド人の大半は1914年と1915年時点では参戦に同意したが、少数のアイルランド民族主義者は参戦に反対した。1912年にアイルランド自治危機が再び浮上した後、世界大戦が勃発した1914年7月にはアイルランドがあたかも内戦前夜のようになっていた。アイルランド民族主義者とマルクス主義者はアイルランド独立を求め、1916年にイースター蜂起を決行した。ドイツはイギリスを不安定にすべくライフル2万丁をアイルランドに送った。イギリスはアイルランドの戒厳を発令したが、革命の脅威が去ると、イギリスはアイルランド民族主義者に譲歩した。しかし、アイルランドでの反戦世論が高じた結果、1918年徴兵危機が起こった。

ほかにも良心的兵役拒否者(社会主義者や信仰を理由に兵役を拒否する者)が戦闘への参加を拒否した。イギリスでは1万6千人が良心的兵役拒否者として扱われることを申請した。スティーヴン・ホブハウスなど一部の平和活動家は兵役と代替役の両方を拒否した。

反乱

1916年夏、ロシア帝国政府がムスリムの兵役免除を廃止したため中央アジア反乱が起きた。また1917年には一連のフランス軍反乱が起き、多くの兵士が処刑、投獄などされた。1917年9月、フランスにおけるロシア海外派遣軍はフランスのために戦う理由に疑義を呈して反乱した。

イタリアでは1917年5月、共産主義者がミラノで暴動を扇動して、終戦を訴えた。共産主義者は工場を操業停止に追い込み、公共交通機関も運休に追い込まれた。イタリア軍は戦車や機関銃などの武器を抱えてミラノに入城し、共産主義者と無政府主義者と対峙した。イタリア軍は5月23日にミラノを支配下に置いたが、イタリア兵3人を含む約50人が死亡、800人以上が逮捕された。

ドイツ北部では1918年10月末にドイツ革命が勃発した。ドイツ海軍の水兵が、敗北必至の状況下で最後の大規模な戦役への出征を拒否して反乱した。軍港のヴィルヘルムスハーフェンとキールで勃発した水兵反乱は数日で全国に飛び火し、1918年11月9日の共和国建国宣言、直後のヴィルヘルム2世退位につながった。

徴兵

徴兵は当時ヨーロッパ諸国で行われたが、英語圏では賛否両論だった。特にアイルランドのカトリック信者など少数派の間では不人気だった。

カナダでは徴兵問題が1917年徴兵危機という大きな政治危機に発展、カナダの英語話者とフランス語話者が仲違いするきっかけとなった。というのも、フランス系カナダ人がイギリス帝国ではなくカナダという国を愛したのに対し、多数派である英語話者はルーツがイギリス人だったため戦争を義務として扱ったという違いがあった。

オーストラリアでは首相ビリー・ヒューズが徴兵支持運動を組織した結果、オーストラリア労働党の分裂を招き、ヒューズは1917年に民族主義党を結成して運動を継続した。しかし、農民、労働運動、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票は否決された。

イギリスでは兵役に適する男子1千万人のうち600万人が招集され、そのうち75万人が戦争で命を落とした。死者の多くが若い未婚者だったが、16万人が妻帯者であり、子女がいる者も多く子供30万人が父を失った。第一次世界大戦中の徴兵は1916年兵役法で始まった。兵役法では聖職者、子供のいる未亡人を除き、18歳から40歳までの独身男性の徴兵を定めた。兵役裁判所という、健康、良心的兵役拒否などを理由とした兵役免除申請を審査する制度もあった。1月に成立した兵役法では既婚男性を除外したが、6月にはその条項が撤廃された。年齢の上限も後に51歳に引き上げられた。兵役裁判所の審査も徐々に厳しくなり、1918年には聖職者の徴兵も一定の支持を受けるようになった。徴兵は1919年中まで続いた。また、アイルランドでは政情不安により徴兵が施行されることはなく、徴兵はイングランド、スコットランド、ウェールズでのみ行われた。

アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3千人と目標の100万人を大きく下回ったため、政府は徴兵を決定した。アメリカの徴兵は1917年に開始され、一部の農村部を除いて受け入れられた。

オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上がスラヴ人だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった。

外交とプロパガンダ

参戦諸国の外交とプロパガンダは自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと(戦況の悪化につき)再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国(イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア)を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族(チェコ人、ポーランド人、アラブ人)運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった。

同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が「ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した」と宣伝した。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が「ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した」に変わった。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して「連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った」と宣伝した。

研究史

開戦直後から、ドイツ、イギリス、ロシア、フランスといった交戦国の政府は、自国の正当性を主張するためのプロパガンダの一環として、外交資料集を編纂・発表した。こうした流れは、終戦後、大戦開戦の責任はどの国家にあるのかという戦争責任論争につながり、第一次世界大戦の研究の焦点は、まず、開戦直前の外交政策に当てられることとなった。また、1922年以降、交戦国では軍事関係者の手による公式の戦史の刊行も始まった。

1920年代後半には、より長期的なスパンで大戦の原因を探るべきだとする大戦起源論研究が主流となった。大戦起源論研究は、単なる外交史研究にとどまらず、帝国主義政策や軍備拡張競争といった面にも着目したものだった。こうした研究を通して、1930年代後半までに「第一次世界大戦の戦争責任は特定の国家にはない」という定説が形成されるに至った。

しかし、第二次世界大戦後、西ドイツの歴史学者フリッツ・フィッシャーは、ドイツ政府関係史料に拠る実証研究をもとに、大戦開戦の責任はドイツにあるとし、再びドイツ単独責任論を唱えた。この説は西ドイツ内の歴史学者からの激しい批判を受けた(フィッシャー論争)が、最終的には国内を含め欧米の歴史学界で広く支持されるようになった。

1960年代になると、経済史研究や人口統計学のような数量化による研究も行われるようになった。そして、第一次世界大戦研究は、大戦の原因をめぐる論争ではなく、大戦期の革命運動や各国の国内事情を主な対象とするようになっていった。アメリカの歴史学者ジェラルド・フェルドマンは、大戦中の国内の権力構造の変化を論じ、ドイツの歴史学者ユルゲン・コッカは、マックス・ウェーバーの理論を応用して大戦研究を行った。

こうした研究は、軍の指導者ではなく兵士の動向や銃後の社会に焦点を当てる「下からの」歴史研究につながっていく(社会史)。さらに90年代以降は、イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの提唱した「短い20世紀」のように、第一次世界大戦を現代の起点であるとし、その意義を強調する議論も盛んとなった。

一方、ドイツ近現代史研究者の木村靖二によれば、こうした歴史学者による第一次世界大戦の政治史・社会史研究と、軍事史家による伝統的な戦史研究は、いずれも相互の研究成果を十分に取り入れておらず、分断された状況にあり、第一次世界大戦史の総合的な研究を難しくしているという。

脚注

注釈

脚注

参考文献

関連図書

  • 小林啓治『総力戦とデモクラシー』吉川弘文館〈戦争の日本史 21〉、2008年。ISBN 978-4-642-06331-9。 
  • 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年7月。ISBN 978-4255004853。 
  • ジャン=ジャック・ベッケー 著、幸田礼雅 訳『第一次世界大戦』白水社 <クセジュ文庫>、2015年。ISBN 978-4-560-51001-8。 
  • 平間洋一『日英同盟』角川書店 <角川ソフィア文庫>、2015年。ISBN 978-4-04-409223-8。 
  • 飯倉章『第一次世界大戦史』中央公論新社 <中公新書>、2016年。ISBN 978-4-12-102368-1。 
  • 飯倉章『1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか』文藝春秋 <文春新書>、2017年。ISBN 978-4-16-661149-2。 

関連項目

  • 第一次世界大戦の犠牲者
  • 第一次世界大戦下の日本
    • 日本の大戦景気
  • 戦間期
  • 第二次世界大戦
  • ロシア内戦
  • シベリア出兵
  • ウクライナ・ソビエト戦争
  • ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)
  • ポーランド・ソビエト戦争
  • ハンガリー・ルーマニア戦争
  • 希土戦争 (1919年-1922年)
  • トレンチコート
  • Category:第一次世界大戦期の政治家
  • Category:第一次世界大戦期の軍人
  • 第一次世界大戦を題材とした作品一覧
  • 第一次世界大戦下の宣戦布告
  • 第一次世界大戦記念碑

外部リンク

  • 1914-1918-online International Encyclopedia of the First World War(英語)
  • 『第一次世界大戦』 - コトバンク
  • 第一次世界大戦 - NHK for School

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 第一次世界大戦 by Wikipedia (Historical)



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