Aller au contenu principal

加藤常太郎


加藤常太郎


加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4月30日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。

経歴

香川県高松市出身。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する。高松商業を経て、奉天外国語学堂支那語科を卒業。

父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる。海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した。

1947年(昭和22年)の第1回参議院選挙香川県地方区において、日本自由党は適当な候補がいなかったため、県連や三木武吉に出馬を進められ、当選。1952年の第25回総選挙旧香川2区にて、自由党衆議院議員に転じ、以来13選。

1956年(昭和31年)の自民党総裁選では、石橋湛山をかつぎ、見事当選させた立役者の1人である。党では河本派に所属した。

1972年(昭和47年)第2次田中内閣の労働大臣に就任し、1975年秋の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。

1986年(昭和61年)6月引退。

1990年10月11日死去、85歳。死没日をもって正三位に叙される。

瀬戸内海放送の設立に尽力

平井太郎(四国新聞社、西日本放送社長)とは、小学校の同級生で、参議院議員になったのは一期早いが次の選挙で平井が当選。加藤は落選の憂き目に遭う。その後、衆議院議員に返り咲いたが、政敵の平井とは何かと因縁が深い。平井が地元に帰ると西日本放送が熱心に報じるのに対し、加藤はまともに取り上げられないことに業を煮やす。国会の逓信委員会に所属して委員長を務め、立法府における郵政・逓信族の実力者となり1967年(昭和42年)、郵政省にねじ込んでテレビ免許を獲得、瀬戸内海放送を設立する。初代社長は弟、次は息子と加藤一族のテレビ局とすることを成功する。

地方の放送免許は県単位が基本だが、加藤・平井と電波行政に睨みをきかせる政治家が2人もいる香川県の高松地区は違う。1979年(昭和54年)に、瀬戸内海を挟んで岡山・高松地区が一つの区域に合算される準広域地区となり、最終的にテレビ局(香川2局、岡山3局)でパイを分け合うことになった。岡山までエリア、商圏を拡げられたのは、無理筋を通す加藤の政治力によった。瀬戸内海放送の売上は、岡山まで電波が延びたとたん倍近くまで急増した。

家族・親族

加藤家

(香川県高松市、東京都)
  • 妻・キヨ(宮武保平次女)
  • 養子・達雄(多田羅正俊三男)
  • 長女・鎮子(達雄妻)
  • 長男・芳宏(瀬戸内海放送会長)
  • 次女
  • 三女
  • 四女
  • 五女
  • 叔父・加藤忠義(加藤海運社長)
女婿
  • 大野功統(衆議院議員)
  • 関谷勝嗣(参議院議員)
  • 加藤秀樹(大蔵官僚)
  • 加藤宏一郎(瀬戸内海放送社長)
  • 大野敬太郎(衆議院議員)

脚注

参考文献

  • 第二十一版 人事興信録(上)』昭和36年。
  • 田々宮英太郎『新・政界人物評伝』中央経済社、1958年。 
  • 『政治家人名事典』編集・発行 - 日外アソシエーツ、1990年。142頁
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』編集・発行 - 日外アソシエーツ、2003年。165頁
  • 中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社、2019年12月。ISBN 978-4065180877。 

Giuseppe Zanotti Luxury Sneakers


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 加藤常太郎 by Wikipedia (Historical)