秋月 左都夫(あきづき さつお、1858年4月7日(安政5年2月24日)- 昭和20年(1945年)6月25日)は、日向国生まれの外交官。宮内省御用掛、位階および勲等は正三位・勲一等。
高鍋藩の家老、秋月種節(あきづき たねよ)の三男として生まれる。秋月種茂が開いた藩校明倫堂出身。鹿児島医学校中退。 司法省法学校卒業。
いったん司法省に入るが外交官に転じ、スウェーデン公使、駐ベルギー公使、オーストリア特命公使を歴任後、1914年(大正3年)に退官。1919年(大正8年)のパリ講和会議では全権顧問をつとめた。
駐ベルギー公使だった1908年(明治41年)には、イギリスのボーイスカウト運動について日本に報告し、これにより日本にボーイスカウト運動が伝わった。
読売新聞社の編集顧問(後に社長)、京城日報社長を務め、大日本皇道立教会副会頭でもあった。 政治家の古島一雄らとともに創価教育学会(創価学会の前身)の設立にも尽力した。
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