兵庫県立夢野台高等学校(ひょうごけんりつ ゆめのだいこうとうがっこう、英称:Hyogo Prefectural Yumenodai High School)は、兵庫県神戸市長田区房王寺町二丁目にある県立高等学校。略称は
1925年兵庫県立第二神戸高等女学校として設立。 2025年に創立100周年を迎える。
清く 正しく 優しく 強く
自主的な人間の育成、社会的な人間の育成、健全な人間の育成。
男子は詰襟。女子はイタリアンカラーのブレザー。女子はスラックスとスカートを選択できる。夏服は青と白のポロシャツがある。 [7]
※学科内に教育・心理類型を設置
4月入学式,対面式,定期戦、6月文化祭、
7月球技大会
8月オープンハイスクール(夏)、オーストラリア現地研修(希望生徒)
(教育・心理行事)同志社大学赤ちゃん学研究センター・兵庫教育大学・神戸大学大学院・神出学園訪問
9月体育祭、10月遠足(1.2年京都、3年USJ)、
11月芸術鑑賞会、オープンハイスクール(秋)、学校説明会、修学旅行(2年沖縄・石垣島3泊4日※北海道に行く学年もある。)、
12月人権映画鑑賞会、のじぎく特別支援学校交流(文化部・類型生徒)
(教育・心理行事)甲南大学リサーチフェスタ・台湾オンライン交流
2月教育・心理類型入試、卒業式、3月学力検査、球技大会
その他電通大1(73回生)、京都工繊大3(21.22.23年度浪人)、 福島県立医大医学部医学科1(21年度浪人)
※過去3年(2020〜22年)近畿大会出場○全国大会出場◎
2023年現在の学年構成は以下の通り。
1934年(昭和9年)4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され、教職員と生徒は登下校時にその前で必ず最敬礼を行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年の1933年(昭和8年)11月20日に増上寺和宮奉賛会理事・桑原瑞龍による講演も開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。
太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた数少ない像であった。しかし終戦後、GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了するサンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。
占領時代が終わり、源平合戦・湊川の戦いに関わりのある須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、1954年(昭和29年)4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれた経緯については不明)。その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。
なお、この像については戦中混乱期から現在まで不明な点も多く、一の谷公園内に安置されている像が本当に当校県二時代に置かれていた和宮像であるのか、確証が無いのが実情である(市二での像、または県一での像という可能性も否定できない)。事実、一の谷公園内の皇女和宮像の説明文では
と書かれてある。
戦後、新制高等学校の設立準備にあたり、「高校三原則」を実現するようGHQから迫られる。これにより、隣接する男子校の兵庫県立第二神戸中学校(略称:二中、現・兵庫県立兵庫高等学校)と統合する話が1948年(昭和23年)3月に持ち上がったが、県二側が猛反対したため頓挫。理由はこの校舎が新設中学校(今の神戸市立丸山中学校)に明け渡されると聞かされたためであった。他にも県二側に秘密で二中側主導という理由もあったが、GHQ主導の占領政策がこのように撤回されるのは、まずあり得ない事であった。
県二と二中の統合が校舎にこだわる当校の反対で解消されたため、「高校三原則」実現のための男女共学への話が難航。そのため、次に当校へ示された条件として、校舎を残すのならば
の二者選択を迫られた。その結果、新制高校継続のため県立高校と市立高校という変則的な併設が行われることになり、葺合区から兵庫区に臨時移設されていた神戸市立神戸高等学校(学制改革により神戸市立第一中学校から校名変更)が1948年(昭和23年)5月に当校舎内に移転併設され、同9月には県二側が兵庫県立夢野台高等学校と改称された。
1949年(昭和24年)4月、小学区制実施により当県立市立併設校に編入された生徒は、一旦はくじ引きで県立側と市立側に振り分けられたが、生徒の猛反発を呼んだため、早急に両校が統合することを条件に、暫定措置として男子は市立神戸高校側、女子は県立夢野台高校側へと振り分けられた。市立側は同じく小学区制実施により市一中が当校舎内に移転する前に校地として使用していた葺合区に市立葺合高校を設置し1年生が入学したことから、9月に市立神戸高校の男子1年生全員を県立夢野台高校側へ帰属させ、2年生及び3年生は卒業まで兵庫県立夢野台高校と併設状態で神戸市立神戸高校に在籍させた。1950年7月1日に校名が「兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校」とされたが、この名称は市立側の生徒が全員卒業する翌年3月末までとなり、市立側の市立神戸高校及び市立神戸夢野台高校は市立葺合高校として葺合区の校地へ復帰。県立側は兵庫県立神戸夢野台高校として存続した。併設時代は校歌は無く、その代用として「運動会の歌」が使用された。
当時の学年構成と卒業生呼称の一覧は以下の通り。
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