浅野 長照(あさの ながてる)は、江戸時代前期の大名。通称は長蔵(ながぞう)。備後国三次藩の第2代藩主。官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。
広島藩主・浅野光晟の3男として誕生。寛文3年(1663年)9月1日、第4代将軍・徳川家綱に初御目見する。寛文6年(1666年)12月28日、従五位下・式部少輔に叙任する。
その後、伯父である三次藩主・浅野長治の養子となっていた次兄・長尚が長治に先立って死去したため、代わりに長治の養子となった。延宝3年(1675年)1月に長治が死去し、3月23日に家督を相続した。
延宝4年(1676年)4月11日に始めて領地三次に入る。天和元年(1681年)6月25日には越後国高田藩主・松平光長の家臣・本多八大夫を預かった。子ができなかったため、天和2年(1682年)8月6日、長兄の前広島藩主・綱晟の次男(藩主・綱長の弟)長澄を養子に迎えた。元禄4年(1691年)12月2日に隠居して長澄に家督を譲った。
なお、播磨国赤穂藩主・浅野長矩の正室・阿久里は、長照の養父・長治の娘であり、かつ長照の養女であるので、長矩は長照の娘婿にあたることになる。そのため元禄14年(1701年)3月15日には長矩の刃傷事件(赤穂事件)に連座して隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。
宝永2年(1705年)11月15日に死去した。享年54。貝塚の青松寺に葬られた。法名は壁龍禪梭騰雲院。
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