ロマン・ロランは1866年1月29日、フランス中部ニエーヴル県のクラムシーに生まれる。父エミールは公証人で、母アントワネット=マリーの家系も公証人であったことから貧しい環境ではなかった。1868年に、妹マドレーヌが誕生するも1871年に亡くなる。1872年に二人目の妹が生まれる。7歳からクラムシー中学(Collège de Clamecy)に通うものの、1880年に一家はパリに転居した。翌1881年からサン=ルイ高等中学校(Lycée Saint-Louis)に入り、18歳であった1882年にルイ大王高等中学校に転校する。
26歳であった1892年に言語学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルド(Clotilde)と結婚するが、1901年に離婚した。1894年からアンリ4世高等中学(Lycée Henri-IV)で、翌年からルイ大王高等中学で教鞭をとる。1895年に『近代叙情劇の起源』と『16世紀イタリア絵画の凋落』により文学博士の学位を取得し、エコール・ノルマルの芸術史講師となった。この頃から、戯曲や音楽評論を発表し始める。1902年からは「社会学大学」(École des hautes étude sociales)で音楽史を担当した。
33歳であった1903年、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーが創刊した雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表した。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め、1912年に脱稿する。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらと知り合う。44歳であった1910年にレジオンドヌール勲章を受章する。1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞し、スイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』がアカデミー・フランセーズ文学大賞を受賞した。
1914年8月に勃発した第一次世界大戦については、偶然滞在中であったスイスから、仏独両国に対し「戦闘中止」を訴える。このことから祖国フランスへの反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合うことになる。国際的に評価される一方、母国で好感されぬ傾向は、生涯に亘ることとなる。50歳であった1916年に1915年度のノーベル文学賞を受賞する。1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送った。白色テロに反対する『国際赤色救援会』(International Red Aid)にも参加し、『ソ連邦建設科学アカデミー』の名誉会員に選ばれるなど、ソビエト連邦や共産党への共感を鮮明にした。1934年に再婚した2度目の妻マリー・クーダチェヴァ(Maria Koudacheva)はロランがモスクワから招いた秘書であり、再婚の翌年には夫妻同道でソ連を訪問し、マクシム・ゴーリキー宅に滞在してスターリンとも会見した。アンドレ・ジッドがソ連を批判した際には反批判を加えるほどだったが、独ソ不可侵条約の締結を切っ掛けとして『ソヴィエト友好協会』(L'association des amis de l'Union soviétique)を脱会し、以降は没交渉となる。
反ファシズム宣言
戦後の1919年に母親が死去したことから一時パリへ戻り、1921年にはタゴールを迎えるなどしたが、1922年、父および妹マドレーヌと共にスイスのレマン湖東岸ヴィルヌーヴ(Villeneuve)に定住する。1923年に雑誌『ユーロープ(欧州)』(Europe)の創刊に参加し、ロンドンの国際ペンクラブ大会にも出席した。翌1924年にはマサリク大統領に招かれてチェコスロバキアのプラハを訪れ、ジュネーヴの国際連盟総会に出席した。その一方で、ムッソリーニのファシスト党による暴行を非難している。1926年、雑誌『ユーロープ』が生誕60年記念号を出した。タゴールやネルーがロランの許を訪問している。さらにアンリ・バルビュスとともに「反ファシズム国際委員会(Comité antifasciste international)」を結成し、世界各国の知識人に「国際反戦会議(Congrès mondial contre la guerre)」の開催を呼びかけ、1932年8月にアムステルダムで開催された(アムステルダム=プレイエル運動)。
1892年:『ルイ・ド・ベルカンの最終裁判』(Le dernier procès de Louis Berquin) (全43雑纂・評伝、山口三夫)
1893年:『カリグラ』(Caliguia) (全13戯曲、小島達雄・三野博司)
1894年:『マントーヴァの包囲』(Le siège de Mantoue) (全13戯曲、宮本正清)
1895年:『近代叙情劇の起源、リュリおよびスカルラッティ以前のヨーロッパにおけるオペラの歴史』(Les origines du théâtre lyrique moderne - Histoire de l'opéra avant Lully et Scarlatti) (全20芸術研究、戸口幸策)
1895年:『16世紀イタリア絵画の凋落』(Cur ars picturae apud Italos XVI saeculi) (全20芸術研究、佐々木斐夫)
1895年:『聖王ルイ』(Saint-Louis) (全9戯曲、片山敏彦)
1896年:『サヴォナローラ』(Savonarole) (全43雑纂・評伝、波多野茂弥)
1896年:『ジャンヌ・ド・ピエンヌ』(Jeanne de Pienne) (全13戯曲、加藤行立)
1897年:『アエルト』(Aërt) (全9戯曲、波多野茂弥)
1897年:『敗れし人々』(Les vaincus) (全12戯曲、宮本正清)
1898年:『狼』(Les Loups) (全10戯曲、波多野茂弥)
1898年:『理性の勝利』(Le triomphe de la raison) (全10戯曲、波多野茂弥)
1898年:『ダントン』(Danton) (全11戯曲、波多野茂弥)
1899年:『三人の恋する女』(Les trois amoureuses) (全12戯曲、波多野茂弥・小笠原佳治)