平岡 千之(ひらおか ちゆき、1930年(昭和5年)1月19日 - 1996年(平成8年)1月9日)は、日本の外交官。作家三島由紀夫の弟。駐モロッコ特命全権大使、駐ポルトガル特命全権大使、赤坂迎賓館館長などを歴任した。
1930年(昭和5年)1月19日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に、父・平岡梓(農商務官僚)と母・倭文重(漢学者・橋健三の次女)との間に二男として生まれる。2歳上に、1928年(昭和3年)2月23日生まれの姉・美津子と、5歳上の1925年(大正14年)1月14日生まれの兄・公威がいた。千之の名は、祖父・平岡定太郎の恩人・江木千之に由来する。
兄と同じように学習院初等科に入れられるも、1937年(昭和12年)4月、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)への転居を機に渋谷区立大向小学校に転校。1944年(昭和19年)9-10月に、兄・公威と歌舞伎『太十(絵本太功記)』、『湯殿の長兵衛(極付幡随長兵衛)』、『船弁慶』、『文七元結』などを観劇。以降も度々兄と劇場に出かけた。
1947年(昭和22年)3月9日、東京府立第十五中学校(現・東京都立青山高等学校)卒業。同年4月、浦和高等学校(旧制・官立)へ入学。実家を離れ寄宿舎に発つ。1948年(昭和23年)、『文化展望』誌に詩を発表。
1950年(昭和25年)、浦和高等学校(旧制・官立)を卒業し、4月に東京大学法学部政治学科入学。1954年(昭和29年)3月に卒業。同年、外務省に入省。同期には栗山尚一(駐米大使・外務事務次官)、三宅和助(駐シンガポール大使、外務省情報文化局長)、村角泰(駐ブラジル大使、外務省儀典長)らがいた。高校時代に文学に憧れを持っていたものの、兄である三島由紀夫の執筆の苦しみを目の当たりにして官僚の道を選んだ(なお、兄・三島由紀夫は元大蔵官僚でもある)。千之は皇太子妃美智子(当時のち上皇后)が、アイルランドに親善旅行に向かった際は随行員の一人であった。美智子妃にスウィフトについての要約を伝える役を担ったという。フランスやセネガルなど各国に駐在。
1967年(昭和42年)、ラオス駐在時代は外交官としての権限を使って三島の現地取材を補佐した。プルーストの『失われし時を求めて』が愛読書であったラオス国王は、理想の話し相手の三島をいたく気に入り、特別に、幼い王子や王女たちに『ラーマーヤナ』の芝居を演じさせたという。たどたどしい科白回しで演じられるその舞台に三島はひどく感銘を受け、その一切は『豊饒の海』第三巻『暁の寺』にそのまま描写されることとなった。
外務省では情報文化局文化事業部参事官、南東アジア第二課長、官房審議官などを務め、1987年(昭和62年)3月31日、4月2日付で駐モロッコ大使に任命される。駐ポルトガル大使などを歴任し、1987年(昭和62年)3月から大臣官房付。1993年(平成5年)に退官した後、赤坂迎賓館館長を務めた。
引退後は、ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアの作品を翻訳したいと発言していたが、その望みは果たせぬまま1年間の闘病生活ののち、1996年(平成8年)1月9日の午前2時13分、肺炎のため新宿区の病院で65歳にて死亡した。
遺された蔵書は、モロッコ駐在時代からの友人である四方田犬彦に託された。四方田は、「三島由紀夫の本は、わずかに一冊だけ、背中が逆になって乱暴に突っ込まれているだけで、あとはどこにもなかった」と述べている。その一方、生前、千之は四方田との会食で、「そうそうぼくの兄貴が小説なんかを書いててねえ。四方田さんの世代くらいになると、ああいう古臭い小説はもう受けないのだろうなあ」と切り出し、四方田が、「三島由紀夫は今でもみんなが読んでいますよ。ぼくも夢中になって読んだ憶えがあります」と答えると、突然に千之の顔が快活になり、兄の思い出話を次から次へと語り始めたという。また、兄・三島ほど細長い顔立ちはしていなかったが、それでも笑うと目のあたりに、三島の顔を思い出させるものがあったという。
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