細川 行真(ほそかわ ゆきざね)は、江戸時代後期の大名。肥後国宇土藩11代(最後の)藩主。官位は従五位下・豊前守。維新後子爵。
天保13年(1842年)9月2日、9代藩主・細川行芬の五男として誕生した。文久元年(1861年)5月、兄の10代藩主立則の養子となり、文久2年(1862年)1月21日、兄が隠居したため跡を継いだ。文久3年(1863年)4月10日に従五位下、大和守に叙任し、文久4年(1864年)2月10日に豊前守に転任する。
慶応元年(1865年)、学問所である樹徳斎を創立して、学問を奨励した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、高瀬藩と共に新政府に与して大原口警備を務めた。明治3年(1870年)9月4日、宇土藩は廃藩となり、行真は所領の10分の1である3000石の家禄を与えられて東京へ移住する。このとき、宇土藩領は熊本藩に吸収された。翌年、兄・立則に長男となる立興(たつおき)が生まれ、のちにこれを養子とした。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。
明治35年(1902年)4月9日に死去した。享年61。
子女は6男4女
父母
妻
側室
子女
養子
養子としていた甥の細川立興が跡を継ぎ、以降立暢(たつのぶ、1896年 - 1980年)、於菟輔(おとすけ、1928年 - 、菊屋孫輔の子で立暢の婿養子)と続いた。一方で行真の息子たちは他家に養子入りしているが、そのうちの1人である毛利高範の外孫にあたる近衛温子(実父は公爵内閣総理大臣近衛文麿)は、細川宗家17代当主細川護貞の妻となった。
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