郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある日本の城。城跡は岐阜県指定史跡。復元天守は郡上市指定有形文化財。また続日本100名城第141番に選ばれている。
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川の対岸にある赤谷山に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。
現在の天守は、大垣城を参考に1933年(昭和8年)に木造4層の模擬天守として建設され、隅櫓2基と築地塀も整備された(模擬天守としては全国的にも珍しい木造で、本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。
なお、明治期に三の丸跡地に安養寺が移転した。1919年(大正8年)の郡上大火で安養寺は焼失したが大火前の位置に再建された。城山中腹にあった岸劔神社は焼失を免れ、その後、城山公園の整備により1942年(昭和17年)に北側に移転した。
1955年(昭和30年)8月30日に石垣などの城跡が岐阜県指定史跡に、1987年(昭和62年)9月10日に模擬天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。
山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城のたたずまいや、城から見下ろす城下町の風景は大変美しい。作家司馬遼太郎は『街道をゆく』で「日本で最も美しい山城であり・・・」と称えている。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(141番)に選定された。
再建90周年を機に天守の耐震補強工事と展示内容の一新が行われ、2023年(令和5年)4月29日にリニューアルオープンした。
なお、現在は郡上八幡産業振興公社が管理しており、郡上青山家の家系の幸紀が公社職員として天守閣等の管理に従事している。
二の門は競売にかけられ、使用されたが、その後、門扉部分が郡上市美並町根村・宝樹庵の庫裡御堂の正面の戸として移築され現存する。その他、本丸御殿の部材が善光寺に、城郭の部材が愛宕町の民家に、それぞれ用いられたと伝わるが、いずれも原型を留めていない。
2016年(平成28年)に城御朱印の販売を開始。売り上げは城の整備のほか被災した他地域の城に寄付されている。
2019年(令和元年)11月より、岐阜市のまちづくり団体「ひとひとの会」によって企画され、岐阜県内の13箇所において行われている「金の御朱印」企画に参加。郡上八幡城では城を管理する郡上八幡産業公社によって「金の城御朱印」の名で毎月最終金曜日(プレミアムフライデー)に発行されている。印字内容は通常版と同じであるが、台紙には金色で歴代城主の家紋と市松模様が、城所在地の郡上市発祥である印刷技法シルクスクリーンで印刷されている。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou