「泥の河」(どろのかわ)は宮本輝の小説。1977年『文芸展望』18号初出、1978年に筑摩書房より刊行された『螢川』に収録。宮本はこの作品で第13回太宰治賞を受賞し作家デビューしている。1981年に木村プロダクションにより自主制作の形で映画化された。
昭和31年の大阪。安治川の河口で暮らす信雄は両親から、近づいてはいけないといわれた舟に暮らすきょうだいと交流をもつ。きょうだいの母親は船上で売春をして口に糊していた。
昭和31年の大阪。河口近くの小さな食堂の子の信雄は父の晋平、母の貞子と暮らしている。ある日、信雄は喜一という少年に出会う。喜一は食堂の対岸に停泊する宿舟の子で、信雄と同じ9歳、姉の銀子は11歳で、二人とも学校には行っていない。母親は生活のため舟で客を取っているという噂があるが、信雄には理解できない。 喜一と銀子が食堂に遊びに来たとき、客の間で「郭舟」と喜一が客引きをしているという噂話が出て、晋平は客を追い出したが喜一は落ち込み、その場にいなかった銀子も喜一の様子から重い気持ちになる。 ある日、晋平の「友達」が死の床にあり、晋平とその子どもに会いたがっていると聞かされ、信雄は晋平と共に京都に行きその女性を見舞う。実はその女性は晋平の前妻で、晋平には戦地から復員した先で出会った貞子と所帯を持ち、前妻を捨てたという過去がある。両親は共に罪の意識を背負っていて、貞子は泣きながら前妻に詫びた。 ある日、信雄が舟を訪ねると喜一も銀子も不在で、奥の部屋にいる母親・笙子に呼ばれる。信雄は、自分の母親とは全く違う、匂うように艶やかな佇まいの女性を前にして何故か落ち着かなかった。 お祭りの日、信雄と喜一は貞子から小遣いを貰って出かけたが、破れたポケットからお金を落として、二人はガッカリして帰途に着く。その夜、信夫は舟に寄って喜一から宝物の蟹の巣を見せられ、喜一は蟹を油に浸し火をつけて燃やすという残酷な遊びを始める。火のついた一匹が奥の部屋の方に逃げていき、追いかけた信雄は小窓から部屋の中を覗いてしまう。そこには刺青の男と抱き合う笙子の姿があり、笙子と目が合う。 信雄は気まずさから喜一と言葉を交わすことなく舟を去り、途中ですれ違った銀子にも無言のままだった。 翌日、舟は曳航されて岸から動き出す。それを知った信雄は外に飛び出し、喜一の名を叫びながら舟を追うが、追いつけず舟は遠ざかっていく。
講演会などで小栗が語ったところによれば、元々は映画好きの中小企業の社長が、別の企画を進行させていたところ、事情があってそれが没になった。ところが、気の早い社長が早々に35ミリフィルムを購入していたため、「これを使って、1本作れ」と小栗に話が回ってきたため、以前から目を付けていた「泥の河」の映画化を思い付いた、とのことである。
原作の舞台は大阪市の土佐堀川であるが、小栗のイメージするロケ地が大阪になく、広島や東京でも探し歩いたが見つからず、映画の撮影は、名古屋市の中川運河で行われた。
当時、加賀まりこが多忙であったため、東宝の撮影所に船を持ち込み、6時間で加賀まりこ出演シーンを全て撮影した。
当初製作費は3500万円であったが、1000万円オーバーしプロデューサーの木村元保が借金して補填した。
白黒映画であることなどの理由で、最初は配給してくれるところがなく、小栗が大林宣彦に相談し、大林が個人映画時代から親しくしていた草月会館を紹介。まず有料試写会を同ホールで3日間行うと、試写を観た東映の岡田茂社長が「いい映画だ」と涙し、系列の東映セントラルフィルムで6000万円で買い上げ、東映パラス系で全国公開した。
「キネマ旬報ベスト・テン」には、12月のギリギリでその年の対象作品に間に合いベスト・ワンになっている。その他、国内外の映画賞で高い評価を得た。
1982年度の米アカデミー賞外国語映画部門ノミネート。
米映画監督スティーヴン・スピルバーグが「子役に対する演出が素晴しい」と、『E.T.』のプロモで来日した時、監督の小栗に直接面会に行ったという。
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