折尾駅(おりおえき)は、福岡県北九州市八幡西区堀川町にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。
JRの特定都区市内制度における「北九州市内」の駅であり、鹿児島本線及び筑豊本線ではその最西端の駅である。
旧東口前にあったロータリーを挟んだ向かい側に、かつては西日本鉄道(西鉄)北九州線の終点である折尾停留場があった。本項目ではこれについても記す。
1891年(明治24年)2月28日に九州鉄道(現在の鹿児島本線)により、また同年8月30日に筑豊興業鉄道(現在の筑豊本線)により、両社の折尾駅が別々の場所で開業した。
線路の移設により1895年以降2線が垂直に立体交差する駅として長らく営業していたが、折尾駅周辺で高架化(連続立体交差事業)の計画とともに、2021年(令和3年)1月2日に新駅舎が開業。従来4カ所に分散していた出口が新駅舎の1カ所に集約され、同時に改札外商業施設として、高架下商業施設「えきマチ1丁目折尾」が開業している。
4面7線(島式3面6線+単式1面1線)の高架駅で、鹿児島本線が島式2面3線、筑豊本線(若松線)が島式1面2線、筑豊本線(福北ゆたか線短絡線)が島式1面1線+単式1面1線を使用する。6・7番のりばと1-5番のりばの間の移動所要時間は4分と案内されている。
販売業者:東筑軒(西口の向かい側に本社がある)。主な駅弁は下記の通り。
かしわめしは、全国各地で開催される駅弁展示即売会などでも出品され人気を博すなど、有名駅弁の一つとなる。
なお鹿児島線上りホーム(4番・5番のりば)及びコンコースでは駅弁の立ち売りが実施される。2011年(平成23年)6月に販売員が体調を崩し自宅療養となり中止されていたが、2013年(平成25年)2月から新たなスタッフで再開された。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は13,451人である。これは北九州市内の駅としては小倉駅に次いで第2位。また、福岡県内のJR九州の駅としては博多駅、小倉駅、吉塚駅に次いで第4位である。
JR九州および北九州市統計によると、各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
立体交差の駅構造が110年続いていたこともあり、駅前広場や駅構内には従来の駅舎に関連した様々なモニュメントの設置が行われている。
周辺には学校が数多く立地しており、朝夕の通学時間帯は学生で賑わう。
北九州市営バス、西鉄バス北九州(元は北口と西口にバス停が分かれ、北口にターミナルがあったが、現在は折尾地区整備事業に伴い折尾駅高架下に移設され、西口バス停も統合されている)。
開業当時の地名である遠賀郡折尾町に由来。かつてこの一帯は山続きで、その姿が折り重なる尾根のように見えた事が折尾の地名の由来である。その歴史は古く、1444年(文安元年)には折尾郷という地名が存在していた。
1891年(明治24年)2月28日に九州鉄道(現在の鹿児島本線)により、また同年8月30日に筑豊興業鉄道(現在の筑豊本線)により、両社の折尾駅が別々の場所で開業した。その後、1895年(明治28年)11月1日、現在地に日本初となる立体交差の二重構造の駅舎(東口旧駅舎)が誕生した。駅舎の中央部分と鹿児島本線(当時の九州鉄道)に隣接する側が2階建て・筑豊本線(当時の筑豊興業鉄道)の直方側が1階建ての左右非対称構造になっているのが特色で、増築もされており、「明治と大正のモダンな建築様式を重層的に窺い知ることができるもの」と貴重性が提起されていた。設計者は、辰野金吾ともいわれている。両社の合併や国有化により、1916年(大正5年)現駅舎の外形でハーフティンバー様式の外壁の駅舎が竣工した。1934年(昭和9年)撮影の写真では2階の窓の上下の部分が塗り壁で、窓上中央の半円形をした車輪の装飾も取りつけられていなかった。その後、1986年(昭和61年)の駅前再開発と連動して建物の外形はそのままにコロニアル様式の外壁に改修された。
折尾駅周辺の総合的再開発(折尾地区総合整備事業は3事業を一体的に実施)に伴い、折尾駅周辺連続立体交差事業として鹿児島本線(陣原 - 水巻駅間)と筑豊本線(本城 - 東水巻駅間および短絡線を含む)の延長約4.5キロメートル(筑豊本線=約2.4キロメートル、鹿児島本線=約2.1キロメートル)を高架化する事業が行われることになった。具体的には、現在の鹿児島線の線路位置を軸にして筑豊本線を移設させ、高架化完成後は駅部で同一フロアに3路線4面7線のホームが集約される形となる。2024年(令和6年)度までに事業を完了する予定であり、総工費は約350億円を見込んでいる。
立体交差事業に伴い、旧駅舎及び旧1・2番のりばと高架の旧3-5番のりばをそれぞれ連絡する、高架の下を通る赤煉瓦造りの通路は取り壊されることとなった。JRは自社での保存には消極的だったが、市は「門司港駅のような完全復元をするのであれば援助したい」との意向を示した。駅本屋については、「木造駅舎の優美な姿は、国重要文化財となっている門司港駅と並ぶシンボル。折尾の産業史を物語るだけでなく、地域の景観に溶け込んだ共有財産と言うべきで極めて価値が高い」という意見もあり、折尾駅舎保存と活用策の要望書を北九州市に提出。全国的に折尾駅舎の保存活用を望む声が高まり、署名活動やシンポジウムなどが実施された。
これを受け、2008年(平成20年)6月27日、折尾地区自治区会連合会・協同組合折尾商連などにより設立された「おりお未来21協議会」が『折尾まちづくりビジョン』を北九州市に提出。「まちづくりビジョン・歴史的建造物の保全と活用に関する提言」として、現在の折尾駅舎は、文化の保存を主目的とする地域の人々が活用できる「生きた施設」としての保全を優先することを求め、歴史的建造物を活用したまちを目指す、とした。2009年(平成21年)6月30日には、北九州市と「おりお未来21協議会」が『折尾駅舎保全・活用基本方針 (PDF) 』として、現駅舎を「南口駅前広場付近」または「堀川沿いの歴史公園」に移築する2案をまとめた。レプリカでの再築は2018年(平成30年)以降としており、地域のシンボルとして保全するため、建物の維持管理や運営や地域住民が自ら行い、駅舎保全に必要となる敷地取得費や建物保全費などの費用は、住民や企業へ寄付金を募る形とした。また、今後の管理・運営費についても、原則自主財源で賄うとした。ただし、仮改札口設置の前提となる暫定北口駅前広場用地の買収には遅れが見られた。
2010年(平成22年)9月、東口駅前広場の旧駅舎の南側に隣接したトイレの位置にも仮改札口の設置が決定したことから、住民団体「歴史遺産『北九州市レトロ』を創る会」が2010年11月24日、駅舎中央部を曳き家方式で移動し、仮改札口として活用の上、駅舎を保存活用するよう要望を出した。これに対して市は「移動させて駅舎スペースが確保できるのか疑問。曳き家方式に駅舎が耐えられるか調査も必要だ」と話している。この要望に対し、市議会では建築消防委員会の閉会中審査を行ったほか、別の団体からも保存を求める陳情が出されており、継続審査となった。
こうした移築保存などの要望は数々あったが最終的に旧駅舎の解体の方針は変わらず、2012年(平成24年)3月20日に西口駅舎の仮駅舎への切り替えが行われ、同年10月7日には暫定的な北口広場と仮駅舎の利用が開始された。これに伴い、東口のバス乗り場、タクシー乗り場、みどりの窓口などの主な駅機能は北口へ移され、同時に東口はこれまでの位置から20m南へ移動した。そして旧駅舎は仮駅舎の利用開始後に解体工事が始められ、2013年(平成25年)までに解体が完了した。解体に際して、旧駅舎の「シンボル的な部材」として化粧柱や円形ベンチ、棟飾りなど一部の部材が保存・保管され、八幡西区役所折尾出張所での公開を経て2021年(令和3年)1月開業の新駅舎に移設されている。なお、今回の事業で新築された新駅舎は外観及び待合室の造りを可能な限り再現した意匠となったが、旧駅舎と異なり2階相当部分は利用可能スペースのない「大きな屋根裏」になっている。
2017年(平成29年)1月2日より、高架化事業の第一段階として鹿児島本線の線路切り替えが行われ、新たに整備された高架ホーム(最終的に短絡線用ホームとなる施設)に仮移転した。
2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正に併せ、高架化事業の第二段階として筑豊本線(若松線・福北ゆたか線)の線路切り替えが行われ、高架の新ホームに移転が完了した。筑豊本線(若松線)は、折尾駅の南から西にかけて新設される「折尾トンネル」を通ることとなる。最終的にはトンネル内で短絡線と若松線に分岐したのち、若松線が鹿児島本線をアンダーパスして若松側坑口から高架ホームに上る構造となるため、ホーム同士の立体交差形状がなくなっている。なお、この時期は1-3番のりばが鹿児島本線の暫定3-5番のりばとして使用されており、暫定3番のりばは陣原寄りに仮設構造のホームを設置してホーム長を延長していたが、後の鹿児島本線の本線切り替えに伴い撤去されている。
2021年(令和3年)1月2日には新駅舎の供用開始と同時に、鹿児島本線が従来ホームの改築により建設される新4・5番のりばに移設された。これにより、分散されていた改札口(後述)とみどりの窓口は北口付近に新設された新駅舎の1カ所に集約され、同一平面上の高架に集約された全ホームが広大な連絡コンコースで結ばれる形になった。この連絡コンコースの床面には、前述の通り立体交差構造時代の鹿児島本線及び筑豊本線の線路の位置が線で示されているほか、旧1番のりばの線路の一部がモニュメントとして保存されており、床に設置された窓から見ることができる。その後は短絡線の切り替え(2017年(平成29年)に整備されたホームへの移転および、折尾トンネルの短絡線部分の供用開始)が行われて駅構内部分の高架化事業が完了した。3カ所あった改札口は新駅舎(北口仮駅舎付近、鹿児島線と若松線に挟まれた場所)に設けられる1カ所に集約され、同時に新駅舎前には一般車の乗降ロータリーとタクシープールが建設された。北口にあったバスターミナルは、南口(元の東口付近)に再移転する計画となっている。
2019年(平成31年)3月16日までの本駅施設は鹿児島本線が築堤上の2面3線の単式・島式ホームを持つ高架駅、筑豊本線(若松線)が相対式ホーム2面2線を持つ地上駅の立体交差構造になっていた。筑豊本線(若松線)が「1・2番のりば」、鹿児島本線が「3・4・5番のりば」と称しており、筑豊本線と短絡線(後述の鷹見口)は現在とはホームの付番が逆になっていた。旧1番のりばは若松線および福北ゆたか線から同線への直通列車専用で、2016年(平成28年)に蓄電池電車BEC819系が投入されるまでは旧1番のりばのみ非電化だった。鹿児島本線ホームでの福北ゆたか線・若松線乗換案内では旧1番のりば発着列車が「東口階段 1番」、旧2番のりば発着列車が「西口階段 2番」、旧7番のりば発着列車が「鷹見口 7番」と表示されていた。
旧1・2番のりばのホームは、明治時代に築かれた御影石の上にコンクリートが地層のように積み重なっていて嵩上げの歴史を示しており、2016年(平成28年)までの旧3番のりばのホームも、赤煉瓦をベースに嵩上げされた物だった。高架化事業前は、その古さからか大きな拡幅工事も行われなかったため、それぞれの階段が狭く急だった。ホーム上屋などに木造部分が多く残り、旧4・5番のりばの上屋の一部の骨組みは1935年(昭和10年)の改修時に米国のカーネギーやメリーランド製、ドイツのクルップ製のレールを用いて作られた物であるなど、「レトロ」な雰囲気が見られた。立体交差駅時代の名物でもあった赤煉瓦造りの通路は、鹿児島本線の複線化に伴う旧4・5番のりばの新設に当たって高架の築堤にトンネルを掘る形で造られた物で、旧2番のりば側が1911年(明治44年)、旧1番のりば側が1918年(大正7年)に完成している[3]。
エレベーターは旧1番のりば北側の通路内と旧3番のりばを結ぶ1カ所のみだった(2004年(平成16年)に荷物用のエレベーターを改修した物)。この他に、高架化事業開始から暫定3-5番のりば完成までは、旧1番のりばと旧4・5番のりばを連絡する通路の階段に車椅子用の階段昇降機が設置されていた。暫定3-5番及び新6・7番のりば完成から2021年(令和3年)1月1日の新駅舎の供用開始までは改札レベルと2階の各のりば間にエレベーターを設置、これに加えてエスカレーターを改札レベルと新6・7番のりば間に上下各1台設置していた。
2021年(令和3年)1月1日の新駅舎の供用開始までは、別駅舎の「鷹見口」(後述)を除くと東口・西口・北口の3つの改札口を持ち、北口は直営でみどりの窓口を設置しており、西口はJR九州サービスサポートに業務委託していた。自動放送導入駅(短絡線では踏切音のみ)で、全ての改札口に自動改札機が導入されていた。
2022年(令和4年)3月11日までは、黒崎駅 - 東水巻駅を直結する福北ゆたか線(短絡線)は本駅舎の南東をショートカットするような形で通過しており、本駅舎から約150m離れた短絡線上の八幡西区北鷹見町に通称「鷹見口」と呼ばれる地上駅舎と相対式ホーム2面2線が存在した。鷹見口の場所にはもともと駅舎・ホームはなかったが、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)に折尾信号通信区の施設に併設する形で新設され、鉄筋コンクリート2階建ての構造だった。独立した窓口を持ち、JR九州鉄道営業に営業を委託していた。また新設当初は旧6・7番のりばを名乗っていたが、連続立体交差事業に着手し若松線・福北ゆたか線が高架化した際にA・Bのりばに改められた。両ホームは構内踏切で連絡していたほか、鷹見口改札内とBのりばの間にはスロープが設置されていた。
本駅舎と鷹見口の間は改札外連絡の扱いとされ、様々な特例措置が設けられていた。なおこの取扱いについては、短絡線の高架切替工事完成により2022年(令和4年)3月12日を以て終了している。
かつて、本駅舎の南向かいに西日本鉄道(西鉄)北九州線の折尾停留場があった。
最初に建てられた駅舎は、1914年(大正3年)6月25日に九州電気軌道が折尾まで延長された際に開業した高架駅で、1942年(昭和17年)の西鉄成立により同社の駅となった。高架構造としたのは筑豊本線短絡線(福北ゆたか線)との平面交差を避けるためで、その交差地点は後の鷹見口旧6・7番のりば(A・Bのりば)となる折尾信号通信区のすぐ西側にあった。木造モルタル造り2階建てでトタン屋根の駅舎があったが1982年(昭和57年)に火災で焼失し、その後駅前再開発に併せて、1985年(昭和60年)12月18日に商業ビル・オリオンプラザの第2ビルとして3階建ての駅ビルに建て替えられた。火災の後は一旦高架に上がる手前の地平部分に仮駅を設けて急場を凌ぎ、その後駅ビルが建つまでは、高架駅に上がる階段とそれに隣接する売店・切符売り場などの建物から成る簡便な駅施設が設けられた。駅舎建て替え後の駅構造は櫛形ホーム3面2線で、ホームは3階にあった(旧駅舎時代は2階で、新しい駅ビルが旧駅舎の2階建てから3階建てに変わったため3階の位置づけになった。ホームの位置に変化はない)。
2000年(平成12年)11月26日の北九州線全廃により駅としては廃止されたが、ビルは駅施設部分を除きその後も用いられていた。しかし、先述の折尾地区総合整備事業によりビルの敷地が「折尾駅南口駅前広場」の用地となったため、2010年(平成22年)9月ごろに解体され、一旦仮市民トイレと駐車場を含む広場になった後、北口から移転するバス乗り場などに整備される計画となっている。この広場の照明灯の化粧材や地面の舗装材には解体時に出たアーチ橋の煉瓦を再生した再生煉瓦が使われ、かつてのアーチ橋の面影を伝えているほか、煉瓦材の破片が案内板と共にモニュメントとして置かれている。隣接のオリオンプラザもこれに続いて2020年(令和2年)5月に解体工事が始まり、同年中に完了している。
高架橋駅の橋桁は赤煉瓦造りのアーチ橋で、現存する大正期の長大な赤煉瓦高架橋は折尾と同年に竣工した東京の新永間市街地線高架橋のみ。筑豊本線短絡線をオーバークロスするガーダー橋を挟んで東側に3連、西側に6連のアーチ橋があり、ホームは6連アーチ橋の上に設けられていた。この6連アーチのうち西側3連は1985年(昭和60年)のオリオンプラザ第2ビル建設時に取り壊され、残る東側3連もオリオンプラザ第2ビルの解体時に共に取り壊された。 短絡線東側の3連アーチの東端は直下を通る生活道路と斜めに交わるため、アーチの向きを斜めにする「ねじりまんぽ」(『まんぽ』はトンネルの意)と呼ばれる特殊工法が使用され、日本最大級である。通常のトンネルと隣接するのは折尾のみで、土木技術史の教科書的存在といわれている。「ねじりまんぽ」は、全国に20数例確認されているのみで、先述の折尾地区総合整備事業で保存活用の方向で検討される予定。
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