田村 正和(たむら まさかず、1943年〈昭和18年〉8月1日 - 2021年〈令和3年〉4月3日)は、日本の俳優。京都府京都市右京区太秦生まれ。東京都世田谷区育ち。成城大学経済学部卒業。最終所属は自身の個人事務所である新和事務所。
阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれるが、実際には次兄の田村俊磨を含め4兄弟である。異母弟に俳優の水上保広。家族は妻(一般人女性)と娘。
父阪東妻三郎が建てた阪妻プロダクションの跡地に建つ東映京都撮影所近くの京都太秦に生まれる。その後同じ京都の嵯峨野に移住したが、小学4年生(9歳)の時に父・阪東妻三郎を亡くし、翌年小学5年生の時に世田谷へ移住。田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っており、それを知った父・阪東妻三郎が大変喜んだと語っている。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた。父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったと語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語っている。成城学園中学校に進学後、中高時代にはバスケットボール部に所属していた。
1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する。1961年に松竹大船と専属契約し、成城学園高校在学中の9月に映画『永遠の人』で正式なデビューをした。1965年『この声なき叫び』で初の単独主演、また同年には阪東妻三郎13回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たす、以降1966年に大学を卒業するまで学業と並行して映画、テレビドラマに出演した。この間1963年『花の生涯』からは5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。
松竹と専属契約を結んでいた頃、作品を選んで出演を決めたい、台本が出来ないうちに出演を強制されたくないと、年間10本の映画出演の打診を受けたが、そのうち5本を断った。また半ば強制される形で『侠勇の花道 ドス』に出演したことを後悔したという。
1966年には自身が主演する映画『空いっぱいの涙』の主題歌を歌いレコードデビュー、また松竹が田村を大々的に売り出す戦略から、映画『雨の中の二人』にモッズファッションに身を包み主演、大きな話題となったが、同年にはフリーとなるも脇役ばかりが続く。この年の『新吾十番勝負』でテレビ時代劇初主演を果たした。
1968年のホラー時代劇『怪談残酷物語』で時代劇映画初主演を果たす。1969年には『眠狂四郎 卍斬り』に出演、後に眠狂四郎を演じることになるが、この時は狂四郎の命を狙う敵役で出演した。
1970年の『おんな牢秘図』(前述の様なホラー作品ではない)一般的な時代劇での初主演を果たした。また9月には以前から交際していた一般人女性と結婚した。映画では田村の個性を活かす様な作品に恵まれずにいたが、同年出演したテレビドラマ『冬の旅』で改めて存在を認識され、人気に火が付いた。以降繊細な二枚目役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。
1972年『新・平家物語』では崇徳天皇を演じたがこれ以降大河ドラマには出演していない。同年テレビ時代劇『眠狂四郎』で茶の間の人気を得た。田村はこの作品に臨むにあたり、「田村正和の代名詞になる程の作品がこれまでに無い気がするので、代表作にしたい」と、撮影のしばらく前から東京の自宅を引き払い、京都に拠点を移す程意気込んでいたという。『眠狂四郎』、1977年NHK時代劇『鳴門秘帖』では新たな人気を獲得してファン層を広げ、代表作の一つとなり(以降NHKのドラマへの出演はない。)、この作品以外にも、1979年『赤穂浪士』など、陰影の濃い哀愁ムードの風貌は女性ファンを引き付け、「憂愁の貴公子」と呼ばれることもあった。
1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帳』に出演した際には、これまでと違う役どころに悩んだが(この作品から約4年前に放送された1974年の『度胸時代』でも同様な江戸っ子の役を演じた。)、以降は軽やかで明るい役柄にも挑戦、これまでのイメージとは異なる作品にも出演するようになった。同年の舞台、『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では父妻三郎の代表作である『雄呂血』に出演、久利富平三郎を演じた。
1979年映画『日本の黒幕』(東映)に出演、以降1993年まで映画には出演せず、テレビと舞台のみに出演した。1967年の『無理心中 日本の夏』、1970年の『おんな極悪帖』、1973年の『女囚さそり 701号怨み節』などでは独自の存在感を出したが、田村自身、「僕は実は映画出身。で、映画で失敗してるわけ」などと述べている。伊藤彰彦は「不遇だった映画に早々に見切りをつけ、テレビに軸足を移したことが田村にとって幸いした」と評している。
1983年スペシャル時代劇版『乾いて候』が好評であったため、1984年連続版『乾いて候』が製作され、田村三兄弟が映像作品としては1972年のTV『眠狂四郎』で共演して以来約12年振りに共演して話題となった。また同年『うちの子にかぎって…』に出演し、それまでのイメージを完全に覆す三枚目の役は、田村にとってターニングポイントとなった。ちょっと頼りない優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマに父親役で主演した以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。
1988年には田村が気に入っているという『ニューヨーク恋物語』に出演、概して同じ役を長く演じるのを嫌った田村としては珍しく、田村の願いで、2005年にはスペシャル版が製作され、田島雅之を再び演じた。1989年『眠狂四郎 恋しぐれ円月殺法!将軍家、若君乱心の謎を斬る!』で映像作品では約16年振りに眠狂四郎を演じた。
恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ続けた一方、1991年の『パパとなっちゃん』の愛する娘に振り回される父親役、など幅広い役柄で主演、日曜劇場で連続ドラマになってからは1993年に放送された『カミさんの悪口』に出演して以降、2021年5月までの時点で歴代最多の8作品で主演を務めるなど、テレビドラマ界での主演スターとしての地位を築いた。
1990年には年末時代劇スペシャル『勝海舟』に主演するも、急病のため前半部と終盤のみの出演となり、代役は弟・亮となった。
1993年、映画『子連れ狼 その小さき手に』に小池一夫からの指名を受けて出演、1979年の『日本の黒幕』以来のスクリーン復帰を果たし、アクションよりも、親子愛にテーマを置いた拝一刀を演じた。完成披露試写会には田村がファンである長嶋茂雄も訪れ、会話を交わした。また同映画の写真を使用した自身初の写真集が発売された。
1994年から放送の刑事ドラマ『古畑任三郎』役では「和製『刑事コロンボ』」と言われる新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった 。古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、辞退した。その後、『古畑任三郎』第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞した。
2005年には新橋演舞場で『新・乾いて候 そなたもおなじ野の花か』に出演したが、自分に厳しい田村は、自身が満足のいく出来栄えのものを観客に見せられなくなったとして、以降は舞台に出演することはなかった。2006年、『古畑任三郎ファイナル』シリーズが放送され、自身が主演する古畑任三郎は最後となった(2008年の『古畑中学生 -古畑任三郎、生涯最初の事件』には特別出演している)。
2007年、映画の撮影に時間が掛かること、完成後には舞台挨拶に赴かなくてはならないことを嫌い、映画への出演を極力避けていたが、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け、またニューヨーク恋物語の製作陣が揃うということもあり、映画『ラストラブ』に出演、14年ぶりの映画出演となった。また同年はスペシャルドラマ『忠臣蔵 音無しの剣』で1998年のスペシャル版『眠狂四郎』以来約10年振りの時代劇出演を果たした。
2009年『そうか、もう君はいないのか』で第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞、「信じられません。私が参加いたしましたこの作品が東京を遠く離れたモンテカルロの地で皆様方のご高覧を拝しただけでも大変光栄なことでございますのに、このような賞を頂けるなんて・・・。実は私事ではありますが、この数年俳優業の難解さと私自身の能力の間で大変悩んでおりました。したがってこのような賞をいただけることが私には全く信じられないことなのです。この度のこの栄えある賞が私のそう長くはない俳優人生においておおいなるエネルギーになってくれることを祈っている次第です」と受賞の喜びを語った。
2010年、これまでも赤穂事件を題材とした作品には何度も出演したが、『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で父妻三郎も演じたことのある大石内蔵助役を初めて演じた。この頃から仕事を絞っていくようになり、主演ドラマは年に数回あるいは1度程度、またそのほとんどが単発作品となっていた。連続テレビドラマ出演としては2011年に放送された『告発〜国選弁護人』が最後となった。
単発作品では、2008年の『鹿鳴館』以後、テレビ朝日に移籍していた藤田明二演出作に多く主演、また、翌09年の『疑惑』から16年まで、松本清張作品に藤田演出で5作主演するなど、晩年の現代劇作品では清張作品を活動の柱として活躍を見せた。
2018年、父親が作った阪妻プロの跡地に建つ東映京都撮影所で撮影された『眠狂四郎 The Final』に出演。同撮影所には大物俳優もたくさん訪れるが、阪妻の「子息」が来所するとなると、所内の空気がピリピリしたものに一変したという。田村は「狂四郎というのは自分の出生に大変なコンプレックスを持っている男なんですけど、今回少しだけ明るい光が入ってくるような部分もあります」と述べ、円月殺法のシーンだけで3日をかけて撮影され、「『眠狂四郎』は大事な作品です」とも語った。しかし放送前に試写を見た田村は、これではダメだと痛感しオンエアを見る気にもならなかったと2018年4月発売の写真週刊誌『FRIDAY』の取材に語っている。これが俳優業からの引退を示唆するかの様なコメントだったことから、一部のマスコミで引退宣言などと報道された。一方田村とは旧知の仲である八木康夫が、伴一彦らとの対談で田村について「確かにやり切ったとは感じている様だが、報道の内容は正確なものではなく、田村自身は一言も引退とは言っていない、また今後絶対に何かに出演しないと言っている訳でも無い。今の田村と何か新しい作品をやりたい。」と話していたが、当作品が生前最後の出演となった。
2021年2月に風邪をこじらせて検査入院。その後、周囲にはリハビリを行っていると伝えられていたが、同年4月3日午後4時20分、心不全のため、東京都港区の病院で死去、享年78、満77歳没。その死は関係者にも伏せられ、5月18日に訃報が広く報じられたが、マネージャーですらその1週間前まで田村の死を知らされていなかった。訃報は台湾や中国でも大きく報道された。
田村亮は「訃報を聞いて一時的に起きたことが理解できずにいた、兄は幸せな人生を送ったのではないか。」などと追悼のコメントを出した。一般人である兄の俊麿は、半年位前に話した時には元気であり、話振りからまだ役者をやるのだろうと感じた、「最後の瞬間も正和らしい、弟として見事な人生であった。」と述べた。また加藤勝信内閣官房長官(当時)も哀悼のコメントを出した。
兄弟の中で最も父親と性格が似ていて、字も似ているという。インタビューなどで父について語る時には阪妻さんとの名称を使っていて、名優と言われる父親を持つことに負担を感じることはなく、自分は自分で父は父であり、息子だからと意識はしていないと答えた。
※太字は主演作(W主演含む)
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