黒沢 年雄(くろさわ としお、1944年〈昭和19年〉2月4日 - )は、日本の俳優・歌手・タレント。本名・旧芸名(2000年に改名)、黒沢 年男(読み同じ)。株式会社プロダクション・クロ代表取締役。弟は黒沢博(寺内タケシとバニーズ&ヒロシ&キーボー元メンバー)。妻は街田リーヌ(本名・街子、旧姓・宮崎)、娘は元女優の黒沢レイラ(旧芸名・三井万裕美、本名・裕美)。
神奈川県横浜市西区出身。日本大学高等学校中退。
父はボイラー技士。四人兄弟の長男(博は三男)。
小学生の頃に好きだった巨人の選手(川上哲治、青田昇ら)に憧れて野球選手になると決心して野球を始め、日本大学横浜学園(日本大学中学校)進学後も高校生時代まで野球部に所属。高校生の時には、法政二高との練習試合で投手だった柴田勲と対戦し、ヒットを打ったことがある。しかしその時バットがへし折られていたことと、先輩たちが全く歯が立たなかったのを見たことから、上には上がいるからプロ野球選手は無理かも知れないと思うようになる。
その後、同じ高校の2年先輩で高校生時代からすでに歌手活動をしていた坂本九、同じ野球部の2年先輩で後に歌手になった飯田久彦に影響されて、自分も歌手になりたいと思い、家出して数日後、ジャズ喫茶の銀座ACBでオーディションの告知を偶然目にして参加、合格するも「自分には才能がある」と思い込んで給料8千円のバンドボーイの条件を断り、大阪のナンバ一番や京都のベラミなどのジャズ喫茶、クラブなどのオーディションも受けたが条件がみんな似通っていたようなこともあって、結局横浜に帰って来る。その後も歌手や芸能界への夢はあきらめず、高校の野球部の先輩の飯田久彦に相談を持ち掛けたこともあったが、その後は精肉店勤務を経て、紹介により横浜の企業「築港興業」に入社。この頃は昼のサラリーマン生活の傍ら、夜はキャバレーのボーイとしても勤務していた。
その後も各映画会社のニューフェース募集の告知があるたびにオーディションに通い続け、日活では最終面接まで行くことが出来たが落選。1964年、東宝ニューフェイスの後身の第4期オール東宝ニュータレントとして東宝に入社。俳優を志した理由は「有名になって金持ちになりたかったから」。同年、映画『女体』でデビュー。
岡本喜八、福田純、西村潔、松林宗恵などの作品に多く起用されて人気が出る。
70年代に入ると、活動の舞台を徐々にテレビドラマにシフト。アクション、時代劇、サスペンスものからホームドラマまで幅広い役柄を演じている。
独特の低音声が特徴で、「やすらぎ」と「時には娼婦のように」は大ヒットとなった。
それまでオファーを受けても本人曰く「格好つけて」断っていたというバラエティ番組に本格的に出始めるようになったきっかけは娘に勧められたことで、42歳の時に『さんまのまんま』(関西テレビ放送)に出演し、本人曰く「オーバー過ぎるくらいにバカをやってみた」ところ、予想以上の反響を呼んだことで他のバラエティ番組から次々にオファーが来るようになる。そして平成に入ってからはオウミ住宅のCMが話題を集め、トーク番組では中尾彬などと並んで出演が増加した。
1992年に大腸癌が発覚し、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込み(現在はそれに加えて白く染めている)、その後は無精髭(長さは2mmにそろえている)を生やし、ニット帽(当初はファッションモデルの夫人が持っていたピエール・カルダンのニット帽だった)を被るようになった。
2010年、著書『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』(講談社刊)を上梓、2008年に膀胱癌の内視鏡手術を行っていたことを告白した。
2015年5月14日、白内障の手術を受け、成功。
近年は株式会社夢グループと提携し、同社が運営するコンサートに出演し、全国各地を回っている。
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