天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1841年 - 1843年)に行われた幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。
天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉、百姓一揆や都市への避難民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌天保8年(1837年)には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。
天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸に退隠して大御所となり、徳川家慶が将軍に就任した。老中首座の水野忠邦は天保9年(1838年)には農村復興を目的とした人返令や奢侈の禁止を諮問したが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣達)による反対を受け、水戸藩主徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。
天保12年(1841年)に大御所であった家斉が薨去すると、水野忠邦は忠英・忠篤・茂育ら西丸派や大奥に対する粛清を行って人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革を開始した。同年5月15日に将軍家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、忠邦は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止された。
景元・定謙の両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言したが、忠邦は奢侈禁止を徹底し、同年に定謙が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付であった鳥居耀蔵が着任した。物価高騰の沈静化を図るため、耀蔵は問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳を行った。
大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕閣たちの多くが処分を受けた。
その総計は御目見以上(旗本)で68人、御目見以下(御家人)894人であった。
代わって以下の人物を登用した。
倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の7代目市川團十郎、人情本作家の為永春水や柳亭種彦などが処罰された。
寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。また、閉鎖を免れた寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微したが、忠邦失脚後には息を吹き返した。
特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、天保12年(1841年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行であった遠山景元の進言によるものと言われている。歌舞伎劇場が市内に戻ってくるのは、明治5年(1872年)まで待たねばならなかった。合わせて陰間茶屋も禁止された。
阿片戦争で清がイギリスに敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代的な軍備を整えさせた。
天保の改革が行われた時期には、既に幕府の権威が低下してきたこと、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、大奥による改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き、失敗と判断された。更に忠邦失脚後に株仲間が再興されたことで、幕府権力が商業資本の前に自己の政策を貫徹できなかったという、幕藩体制にとっては悪しき先例を残す結果となり、幕府の衰退を早めたとする見方もある。
これに対して、同時期に長州藩や薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって薩長の財政は改善され、幕末には雄藩と言われるほどの力を得ることができた。
この時期には商品経済が発達しており、GDPにおける農業の割合は低下していた。それにより幕府の財政が苦しくなっており、根本的な問題は解決しなかった。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou