畠山記念館(はたけやまきねんかん)は、東京都港区白金台2丁目にある美術館。所蔵品は茶道具を中心とした日本・東洋の古美術品、国宝6件を含む。実業家畠山一清(号:即翁、1881 - 1971)が自らの収集品を公開するために開館した。運営主体は公益財団法人荏原畠山記念文化財団である。
株式会社荏原製作所の創立者として知られる実業家畠山一清は1881年(明治14年)、金沢に生まれた。家系は能登の守護大名畠山氏の血筋を引くという。畠山は東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年(大正元年)、荏原製作所の前身にあたる「ゐのくち式機械事務所」という会社を興した。これは東京帝大で彼の恩師であった井口在屋(1856 - 1923)の発明した井口式ポンプを販売するための会社であった。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。記念館の庭園には井口と畠山の胸像が並んで建っている。
畠山は社団法人発明協会会長を務め、1960年(昭和35年)には科学技術振興のための畠山記念財団を設立するなど社会貢献に努めた。1964年(昭和39年)には畠山記念館を設立公開した。畠山は派手な宣伝をして客を呼ぶことは茶人の精神に反すると考え、開館記念展のポスターも作らず、所蔵品の図録も当初は作らなかったという。
畠山は「即翁」と号し、茶人としても知られた。近代日本の美術コレクターには実業家で茶人であった者が多いが(益田孝、原富太郎、藤田伝三郎など)、畠山はこうしたタイプの茶人としては最後の世代に属する。 当館は港区と品川区の境界付近に位置し、本館は崖地の斜面に建っている。敷地は城郭を思わせる石垣と白壁の塀に囲まれている。記念館の敷地は江戸時代には薩摩藩主島津家の別邸だった場所で、1669年(寛文9年)、江戸幕府が島津家に下付したものである。この地に隠居した島津重豪は高低差のある邸内の景勝地を「亀岡十勝」と称し、1804年(文化元年)、諸侯文人が賦した七言律詩を刻した「亀岡十勝の詩碑」を建立。この碑はそのまま伝えられ当館庭園内に現存している。
明治維新後、この土地は薩摩出身で後に参議・外務卿となった寺島宗則(1832 - 1893)の屋敷となった。寺島邸時代に明治天皇が行幸し観能を催したことから、1934年(昭和9年)、聖蹟に指定され、「明治天皇行幸所寺島邸記念碑」が建てられた。畠山一清がこの土地を買い取ったのは1937年(昭和12年)のことであった。敷地内には本館のほか、沙那庵、翠庵、明月軒、新座敷、浄楽亭、毘沙門堂などの建物・茶室があり、かつて隣接して料亭般若苑があった。般若苑は奈良・般若寺の客殿を移築したもので、三島由紀夫の『宴のあと』に登場する料亭のモデルとなったことで知られる。
シンプルな外装の本館は畠山自らの設計になる。館内は土足禁止で来客はスリッパに履き替えて入館する。1階には平櫛田中作の和服姿の畠山一清像があり、2階が展示室になっている。展示室は障子を通した自然光のもとで作品を鑑賞できるように配慮されている。展示室の一部に畳敷きの部分があり、掛軸が床の間に掛けられた際の本来の目線で鑑賞することができる。畳敷きの部分に続いて蹲踞や切支丹灯籠(織部灯篭)を配した露地を備える茶室「月庵」があり、希望者には抹茶と菓子が供される(入館料とは別に茶券が必要)。
所蔵品は、茶道関係が中心とした約1300件。日本と東アジアの陶磁器、水墨画、墨蹟(禅僧の筆跡)、琳派を中心とした日本絵画などである。畠山は幼時から宝生流の謡(うたい)をたしなんでいたので、能面、能装束などの能楽関連品も多数所有している。茶道具は大名物、中興名物、雲州名物などの名物や、大名家伝来の品々が多い。これは畠山が、能登畠山氏の末裔という自負を持っていたことに由来する。特に畠山は松平不昧を尊敬しており、「雲州蔵帳」記載の茶道具を30点所蔵している。展示は「春季展」「夏季展」のように季節ごとに展示替えが行われている。
大規模改修工事のため、2019年(平成31年)3月17日から長期休館する。再開館日は未定。
※典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。それ以降の指定物件については個別に脚注を付した。
2019年3月より長期休館中
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