宮本 亞門(みやもと あもん、1958年〈昭和33年〉1月4日 - )は、日本の演出家。
東京都・中央区銀座生まれ。ミュージカル、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎等、ジャンルを越える演出家として国内外で幅広い作品を手がけている。これまでの演出作品数は120本以上(再演作品含む)。株式会社ホリプロ スポーツ文化部所属。2019年9月8日より宮本亜門から「宮本亞門」へ改名した。
2022年6月、映画「カラテキッド」(邦題 : ベストキッド)をミュージカル化した「The Karate Kid The Musical」を米・セントルイスのカークウッドパフォーミングアーツセンターで世界初演をし、そのあとオンブロードウェーを目指す予定。23年10月「チョコレートドーナツ」(パルコ劇場)再演、11月三島由紀夫原作オペラ「午後の曳航」(東京文化会館)初演、24年2月ミュージカル「スウィーニートッド」(東京建物Brillia HALL)再演を予定している。演劇以外に、23年11月、人生初となるドラマ出演、NHK朝ドラ「ブギウギ」で藤村役としてデビューする。
新橋演舞場前の喫茶店「須川」(現「茶房 絵李花」)を営む両親の元に生まれる。出生名は「宮本亮次」。幼い頃から新橋演舞場に出入りし、松竹歌劇団専属の元ダンサーだった母の影響により、銀座を中心に歌舞伎座、日劇、日比谷の映画館等にも通いつめる。幼稚園時代には、藤間流家元の藤間勘十郎の下で日本舞踊を習い始め、同門に十八代目中村勘三郎がいる。また、この時期に映画館で知ったハリウッドミュージカルが好きになる。小学生頃(港区立白金小学校在籍)からは茶道をたしなみ、将来は真剣に裏千家の家元か日本美術史研究家になると夢見て、中学から仏像や神社仏閣の美に魅せられる。また、母が肝硬変を患っており、度々死の宣告を医者から受けていたこともあり、精神世界の美術に興味がいったのが原因にもなっている。
花街のど真ん中で育ち、周りは役者や芸者と花柳界の大人たちしかいない環境のため、同年代の友人と公園や広場で遊んだ記憶は極端に少ない。
中学生になると(大田区立田園調布中学校在籍)趣味の仏像鑑賞のため、小遣いを貯金しては京都や奈良を旅した。建築物、日本画、さらに西洋美術へと興味は広がるも、学校では孤立。友達ができないことに加え、高校受験のストレスにより、肥満となる。15歳で世の中への失望と、将来への希望を見出せず、交際していた同級生の恋人と共に「同じ時間に死のう」と心中を試みる。宮本は薬局で睡眠薬を購入して服用するが、渡された薬はビタミン剤であったため、翌朝スッキリと目覚めてしまう。慌てて恋人に電話すると「本気だったの?冗談だと思った」と一蹴される。同じ死生観を共有していたと思い込んでいたはずが裏切られてしまい、更に人間不信となる。玉川学園高等部1年生のとき不登校に陥り、約1年間引きこもり生活を送る。窓の無い自室でミュージカルやクラシックなどの様々なレコードを聴く生活の中で、演出家を志すようになる。1年生の終わりに慶應義塾大学病院の精神科で受けた小此木啓吾による治療が功を奏し、再び学校に戻る。ミュージカル『ゴッドスペル』を映画で観て感動し、演劇部に上演を依頼。そこで主役をやることになり演劇デビューを果たす。評判の良かったこの作品は、「キネマ旬報」に記事にされる。その後は玉川大学文学部芸術学科演劇専攻科へ進学。4年生の途中、親に内緒で受けたミュージカル『ピピン』のダンサーのオーディションに受かる。先生に相談したところ、退学をして社会に出た方が良いとアドバイスを受け、玉川大学を中退する。
1978年にミュージカル『シーソー』でダンサーとしてデビュー。1980年にはミュージカル『ヘアー』に出演。翌日が初日という日の深夜、稽古場から下宿先に戻ると、母が風呂場で倒れているのを発見。翌朝に脳溢血が原因で亡くなる。「演出家として人間を描くのなら、目の前で起きていることのすべてを見なさい。絶対に目を背けてはいけない」と常々言っていた母の教えに従い、亡くなった時のすべてを目に焼き付けている。この経験からのちに、舞台を自分の役目としてやっていくよう「母からバトンを渡された」とインタビューで答えている。その後『アニーよ銃をとれ』『シカゴ』などに出演。
1984年に『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』で振付師デビュー。その後もダンサー、振付師として活動する。出演者の間、六本木のショータイムのあるクラブでアルバイトをし資金を調達して、ほぼ毎年ニューヨークへも訪れている。24歳のときには池尻大橋にダンススタジオをオープンさせ、1年間の経営後、2年間ロンドンへ留学。ロンドンにいる2年間で見た舞台の数は700以上とされる。帰国後、演出家を目指すため名前を亮次から亜門へ改名(現在は戸籍上でも亜門)。
1987年にオリジナルミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家としてデビュー。出演は諏訪マリー、中島啓江、田中利花。翌1988年に同作品で文化庁芸術祭賞を受賞する。その後、「ジャニーズ系の演出家」と言われ、1989年ミュージカル『エニシング・ゴーズ』『サウンド・オブ・ミュージック』を大地真央の主演で成功させる。1993年にネスカフェのゴールドブレンド「違いのわかる男」として一般的に認知されるようになる。「宮本亜門といえば、ブロードウェイ・ミュージカル」という違和感を払拭し、アジアへの興味を作品にしたいと、オリジナルミュージカルであるアジア三部作『香港ラプソディー』、サイケ歌舞伎『月食』、熱帯祝祭劇『マウイ』を発表する。その後『狸御殿』『ガールズ・タイム』『ボーイズ・タイム』などに挑戦するが、批評家が観劇しないという状況で極度のスランプに陥る。
1993年、1994年
1994年10月〜1996年3月
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