バーブラーム・バッタライ(ネパール語:बाबुराम भट्टराई, Baburam Bhattarai, 1954年5月26日 - )は、ネパールの革命家、政治家。首相(在任:2011年8月29日 - 2013年3月14日)。首相就任前はプラチャンダ内閣の財務相でもあった。
ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)の理論的指導者としてNo.2を長らく務めたが、2009年1月12日、ネパール共産党統一毛沢東主義派の結成により、序列はNo.4となった。また、バッタライは一時、党の国際部門の長や、中央人民政府組織委員会の萌芽となるネパール統一革命人民委員会議長を務めた。
元首相でネパール会議派のクリシュナ・プラサード・バッタライとは別人物。
バッタライはネパール西部ガンダキ県(Gandaki)ゴルカ郡ベルバス村に中流下層の小作農の家庭に生まれた。バッタライの出身であるバウン(バラモン)は、司祭カースト(知識人カースト)であり、伝統的に自らの「知能」「知的優位性」を誇る傾向がある。中流下層とはいえ、カーストは最高位カーストであるバウン(バラモン)である。バッタライもそのような文化的環境で育った。
当時、マオイストの指導者の多くが、貧しい人民から徴収した資金で子弟を英国の大学等に留学させていた。そのような「教育熱心さ」にも、彼らの「知識人カースト」としてのこだわりが伺われる。
バッタライは神童の誉れが高く、ゴルカ郡ルインテルのアマル・ジョティ・ジャナタ中学を卒業、1970年のSLC試験を全国1位でパスし、高校の全国試験でも再び首席で史上最高点を記録。
高校卒業後、トリブバン大学建築学科に進学。さらにインドのジャワハルラール・ネルー大学に留学、1977年に「全インド・ネパール留学生協会」を創設する。
1986年、ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程(地域開発学)もトップで卒業し、Ph.Dの学位を取得した。学位論文は後に「ネパールの低開発と地域の構造―マルクス主義的分析」として出版された。
現在の議会進出や現実主義的路線など毛沢東派がとってきた穏健路線の大部分をバーブラーム・バッタライが率いてきた。ネパール人民解放軍で暴力革命を指導してきた武闘派出身のプラチャンダもそれに乗る形で柔軟路線を歩んでいる。そうした中、強硬派のバーダル、キランらはバッタライ路線を批判している。共産主義に戻るべきだというのがその内容である。毛派部内は現実主義と、強硬路線の対立が激しくなっている。
2008年8月22日、プラチャンダ内閣の財務大臣として入閣。
2009年2月6日、プラチャンダ内閣の閣僚として初めて公式に訪日、日本政府関係者等と会談、大分県、広島県を訪問。
2009年3月2日、統一毛派を代表して、145条からなる新憲法草案を発表。
2011年8月29日、バッタライはジャラ・ナート・カナール辞任後の首相に指名された。プラチャンダ内閣以来2年ぶりに統一毛派政権となった。統一共産党がネパール会議派のラーム・チャンドラ・パウデル副党首を支持したため、28日朝まで選挙の行方は不透明であったものの、5つのマデシ系政党から支持を取り付けたため勝利することが出来た。
2013年3月14日、制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣が発足し、バッタライは首相を辞任した。
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