松方 弘樹(まつかた ひろき、1942年〈昭和17年〉7月23日 - 2017年〈平成27年〉1月21日)は、日本の俳優、タレント、司会者、演歌歌手、映画監督、映画プロデューサー。血液型はA型。左利き。
東京府東京市王子区(現・東京都北区)赤羽台出身。明治大学付属中野高等学校・定時制卒業。
個人事務所「松プロダクション」、バーニングプロダクションを経て、最終的には個人事務所である株式会社MARE(マーレ)に所属した。
父は時代劇俳優の近衛十四郎。母は女優の水川八重子。松方は長男で、弟は俳優の目黒祐樹。最初の妻で元モデルの夏子(1968年に結婚、1978年に離婚成立)との間に長男の目黒大樹(親権は松方)、長女 七重、次女 なち。2度目の妻・仁科亜季子(1979年に結婚、1999年1月に離婚)との間に、次男の仁科克基と三女の仁科仁美(親権は2人とも仁科)。愛人関係であった千葉マリアとの間に十枝真沙史(1987年の発覚当時2歳。松方は認知する一方で、パイプカット手術を受けている)。弟・祐樹の妻(義妹)は江夏夕子、祐樹と江夏との間に姪の近衛はながいる。仁科とは1974年の大河ドラマ『勝海舟』での共演後に恋仲となったが、松方は当時既婚者で、仁科の父・岩井半四郎が苦々しい表情でインタビューに応じる様子は当時の芸能マスコミでも取上げられた。岩井友見は元義姉(ただし松方は岩井より年上)、仁科幸子は元義妹にあたる。その後1991年、仁科が子宮頸がんを発症し、闘病を始めたころ、松方は京都祇園の高級クラブで30歳年下の女性を見初め、不倫関係が始まる。1995年には「山本万里子」の芸名で、女優デビューさせている。1998年、仁科が週刊誌に暴露するかたちで2人の関係が明るみになり、離婚成立後は松方が死去するまで事実婚の関係にあった。
元々は歌手志望で、作曲家の上原げんとの下で五木ひろしらと席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信をなくし、父と同じ俳優の道に進んだ。17歳で『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』(1960年、東映)で主演デビュー。同学年の北大路欣也とはライバル関係で、松方は東映専属だった北大路とは違い、企画制作担当重役だった岡田茂の個人預かり(フリー)であった。映画『893愚連隊』の主演、「昭和残侠伝シリーズ」の助演、『人形佐七捕物帳』(NHK、1965年)の主演など、主に時代劇やヤクザ映画に出演。中でも佐七は松方の当たり役のひとつになり、1977年に放送された『人形佐七捕物帳』(テレビ朝日、東映)で再び佐七を演じている。
1969年(昭和44年)7月、ライバル北大路に差を付けられ不遇をかこっていた中、大映の看板スターとして勝新太郎と人気を二分した市川雷蔵が37歳で早世。この事態を受け、岡田茂から「大映へ行け。今は勝新しかおらん。大映ならテッペンを取れるで」と大映へレンタル移籍となり、雷蔵の穴埋めを期待され、その当たり役である『眠狂四郎』『若親分』のリメイク作品などで主役を務めた。大映は松方を移籍させようと画策したが、岡田が「松方は絶対に大映にトレードさせん!」と、これを強く固辞。移籍話は潰れた。1970年(昭和45年)春、ダイニチ映配設立反対を表明したことで大映社長の永田雅一の逆鱗に触れ、半年間、映画作品への出演を認められなかった。
大映の倒産直前の1971年(昭和46年)3月、『日本やくざ伝 総長への道』で東映へ復帰し、1972年の四カ国合作映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、1973年(昭和48年)の『仁義なき戦いシリーズ』などで敵役・悪役で芸域の幅を広げた。『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』のソウルロケでは、バスジャックを演じている最中の松方に対して韓国軍は、本当の犯罪者が起こしている事件だと勘違いされ、撮影中のバスに乗り込まれてカービン銃を構えられた。「仁義なき戦いシリーズ五部作」では、三役を演じ分ける怪演を見せた 。それまで東映の大量生産の煽りで撮影の連続、演技に厳しい父が一度も褒めてくれず、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたとき、本シリーズに巡り合い、演じることの醍醐味を味わい、役者に開眼したと話している。
1974年(昭和49年)NHK大河ドラマ『勝海舟』で主演の渡哲也が病気降板となり、代役に抜擢される。この作品で勝の愛人、お糸役で共演した仁科明子と懇意になり、翌年のテレビ時代劇『けんか安兵衛』(関西テレビ)では松方の指名で再び共演。これをきっかけに不倫関係となり、マスメディアを賑わせた。同年の映画『脱獄広島殺人囚』は『暴動島根刑務所』『強盗放火殺人囚』と合わせて「世界最強の脱獄アクター」「松方弘樹東映脱獄三部作」と評されている。
ヤクザ映画とポルノ映画を柱とする"東映不良性感度路線"を標榜していた岡田茂は、大河ドラマで全国区の知名度を得た松方を、次世代東映の担い手として東映的な「不良性」で染め上げようと画策。自身のブレーンだったスポーツニッポンの映画記者・脇田巧彦と組み1975年(昭和49年)、『週刊ポスト』で連載「松方弘樹の突撃対談」を始めさせた。内容は松方が毎回女性ゲストに酒を勧めて、対談中にともにボトルを1、2本空けて、セクハラ発言を繰り返すもので、松方が連発する「キツーイ一発」というフレーズは1975年に流行語になり、瞬く間にスポーツ新聞、男性女性週刊誌の見出しを席巻した。この連載から抄録したものが『きつい一発 松方弘樹の言いたい放談』(1975年、八曜社)として出版されている。それまではスターが遊ぶのは藝の肥やしと、結婚、離婚のときしかマスコミは黙認して記事にしなかったが、サラリーマン向け週刊誌やスポーツ新聞の部数が伸びてきた1970年代中盤から艶福家ということを記事にし始めた。松方は艶福家として取り上げられるようになった最初のスターの一人で、自身も積極的に乗った。
ここから1970年代中盤の東映実録ヤクザ路線作品に数多く出演。『県警対組織暴力』や『暴力金脈』『実録外伝 大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』や、現在進行中の抗争事件を映画化し、映画の製作が原因でモデルとなった組長が殺害された『北陸代理戦争』 などで強烈な個性を発揮し、『修羅の群れ』では主演を務めた。
1978年(昭和53年)の『柳生一族の陰謀』で時代劇映画に復帰。それ以降は仁侠映画と共に活動の二分となった。
1979年(昭和54年)、前年に最初の妻との離婚が成立したことを受け、関係を続けていた仁科明子と正式に結婚。結婚を機に仁科は女優を引退した。松方はそれまでの「艶福家」というイメージに、「不倫」「妻子を捨て愛人に走った」といったマイナスイメージが加わったことで、一時バッシングを受け、仕事が激減した。この時には父・近衛十四郎が経営していた釣り堀店の姉妹店が滋賀県にできたことから、店番に明け暮れる日々も経験している。同じ頃、先輩俳優で若手の頃から親交のあった里見浩太朗がテレビ時代劇『大江戸捜査網』の出演を降板するにあたり、「松方弘樹を是非使ってやってほしい」と製作陣に掛け合った事を切っ掛けに出演が決まり、第306話「悪を斬る料理人 華麗に参上」から第536話(最終話)「隠密同心 暁に去る」まで、シリーズ3代目主演俳優として4年半にわたり番組を支えると共に、その後の活躍の礎とした。
その後はテレビ作品にも本格復帰し、現代劇作品と並行して、『名奉行 遠山の金さん』シリーズなどの時代劇作品にも積極的に出演した。三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じたほか真田幸村を映画・テレビドラマで計2度演じた。2007年にはテレビ朝日・東映製作の連続テレビ時代劇最終作品として企画された『素浪人 月影兵庫』で主演。10年ぶりとなる時代劇主演作品で、父・近衛の当たり役を親子2代で演じた。
俳優業の一方で、1985年(昭和60年)4月14日(日曜日)に始まるバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』ではそれまでのイメージを覆し、冗談好きで笑い上戸な一面をみせ、以後バラエティ番組にも顔を出すようになる。1990年代までは、ドラマ・バラエティともにレイバンの度入りのサングラスをかけながら出演し、それがトレードマークにもなっていたが、2000年以降はレーシック手術で視力が回復したため、ほとんど眼鏡は使用しなくなった。
1991年(平成3年)、順調な俳優活動のさなか、妻・仁科の子宮頸がんが発覚。「闘病を支える夫」としてマスコミに取り上げられる事も少なくなかったが、実はその陰で京都祇園の高級クラブで見初めた30歳年下のホステス(当時19歳)との不倫関係をスタートさせる。1995年(平成7年)には「山本万里子」の芸名で、当時出演中だったドラマ『HOTEL』第4シリーズで女優デビューさせている(のちに引退)。1998年(平成10年)、仁科が二人の関係を女性週刊誌に暴露。翌年1999年(平成11年)1月に離婚が成立。その後は松方の死去まで事実婚の関係が続いた。また離婚後の2001年(平成13年)には自身の個人事務所「松プロダクション」が映像作品制作、プロデュース進出の失敗から多額の負債を抱え倒産し、大手事務所バーニングプロダクションに一時預かりの形で所属。2011年(平成23年)8月に独立し、個人事務所「MARE(マーレ)」を設立した。2001年以降は通販事業や芸能マネジメント、コンサートプロモーションなどを手掛ける「株式会社夢グループ」と提携。病の妻を裏切っての不倫、離婚の代償は大きく、テレビ出演本数が激減する一方で、映画作品、オリジナルビデオなどの映像作品出演と並行して、同社関連の歌謡ショー、同社子会社「ユーコー」の広告や、舞台公演などが活動の中心となった。
2016年(平成28年)3月に入り、頭痛、手足のしびれなど体調不良を訴え始め、都内の大学病院を受診し、入院。同月23日、「脳腫瘍の疑いがあり長期療養を要するため出演予定だった3月1日から6月8日までの夢グループ主催による歌謡ショー『夢コンサート』を降板、6月からの舞台『遠山の金さんと女ねずみ』も公演自体を中止する」と発表。検査の結果「脳リンパ腫」との確定診断を受けたことが公表された。放射線治療、抗がん剤の投薬治療を行うも、治療のさなか、脳梗塞を併発し、急激に体力も衰えていった。
2017年(平成29年)1月21日午前11時26分、事実婚関係にあった元女優と3人の事務所関係者に看取られ、脳リンパ腫のために東京都内の病院にて死去。74歳没。
2017年(平成29年)1月23日午後6時頃、メディアを通じて、松方の訃報が公式に発表され、その夜に弟の目黒祐樹が涙をこらえながら、闘病生活とその最期の様子、葬儀をごく親しい近親者だけで行ったことを公表すると共に、生前において松方に関わった関係者、所縁のある人たち、応援し続けたファンへ向け、感謝の意を述べた。また、葬儀に参列した梅宮辰夫らが追悼コメントを発表した。松方の葬儀が近親者などによるものであったため、彼を知る友人・知人たちから「最後のお別れを言いたい」と希望する声が寄せられたこともあり、同年6月6日に東京プリンスホテルにてお別れの会を開催することになった。
2017年6月6日、東京プリンスホテルで「松方弘樹さんを偲ぶ会」が営まれた。梅宮辰夫、ビートたけし、里見浩太朗、五木ひろし、森喜朗、高橋英樹、中尾彬、大和田伸也、北島三郎、小松政夫、白竜、デヴィ・スカルノ、錦野旦、南野陽子、モト冬樹、山本リンダ、千葉真一、高橋克典、岩城滉一、浜田雅功、太田光代、水谷八重子、松本明子、徳光和夫、テリー伊藤、堀田眞三、三田佳子、十朱幸代らが参列した。
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