納谷 悟朗(なや ごろう、1929年〈昭和4年〉11月17日 - 2013年〈平成25年〉3月5日)は、日本の俳優、声優、ナレーター、舞台演出家。テアトル・エコーに所属し、取締役も務めていた。
弟は俳優・声優の納谷六朗、妻は女優・声優の火野カチ子。
北海道函館市出身。父は函館太洋倶楽部に所属する利き酒師だった。4歳の頃、東京府東京市杉並区永福町(現:東京都杉並区永福)へ移住する。
勉強嫌いだったこともあり、中学校には進学せず小学校高等科の2年に進学。戦時中は高等科の1年終了後、陸軍技術研究所で傭いとして就職。その後は周囲の勧めで日本大学附属の工業高等学校機械科夜間部に通っていたが、勉学が身が入らず、東京都中央区月島の商業学校に転校した。
15歳頃に特攻隊へ入隊。終戦後は毎日新聞の運動部で子供さん(給仕)のアルバイトを経て、知人の営む京都府のスポーツ屋に住み込みで働きながら旧制中学校へ通う生活を送る。
立命館大学法学部に進学した際、演劇部から共通語(東京弁)の方言指導を頼まれたことがきっかけで芝居の面白さを知り、後に舞台演出や出演もするようになる。
1951年、児童劇団東童の主宰者・宮津博による『東童名作劇選集』が兄が勤める出版社から出版されることになったのが縁となり、同年12月に大学を中退。児童劇団東童に入団した。役者デビューは、舞台『宝島』。その後は『白雪姫』『ピーターパン』『シンデレラ』など児童劇の舞台へ立ち、全国を巡演していた。
1952年、23歳の時に、初めてNHKのラジオ『青少年の時間』に出演。当時、同番組では東童の先輩が皆レギュラーで出演しており、研究生だった納谷も参加するようになった。本人いわく、最初は「不良少年かなんかの役」で出演。1度きりの出番のはずが、その不良少年が更生していくという話になったため、これが初のレギュラー出演となった。
その後、民放のラジオ局への出演回数が急激に増えはじめ、宮津が開局したばかりの日本テレビの顧問に就任してからは、他の東童のメンバーと共に劇団ぐるみで同局へ出演する機会が多くなった。この頃、日本テレビで大道具係だった熊倉一雄と知り合い、意気投合したことで交友関係が生まれたという。
1955年3月、児童劇に限界を感じたことから東童を退団し、同年4月に劇団「稲の会」設立に参画。昔から笑いのある芝居が好きだったため、この頃から喜劇を志望するようになったという。
稲の会では、最初は夏目漱石の『坊つちやん』、ニコライ・ゴーゴリの『鼻』、小林多喜二原作の『蟹工船』などを上演し、都内の労働組合員にチケットを大量に買ってもらい成功を収めるなどしていた。その後は、劇団内で納谷のように喜劇などの軽い芝居をやりたいという人物と左翼路線の芝居をしたい人物に分かれたことで、お互いのしたい芝居を交互にするようになったが、約2年後に金の持ち逃げ事件が発生。仲間内で思想が分かれ「やっぱり、ぼくの趣味に合わない」と感じていたこともあり、劇団も解散。1957年12月に劇団現代劇場に所属した。
1957年、交友のあった熊倉一雄の誘いで『ヒッチコック劇場』の吹き替えに出演。熊倉は番組のホストであるアルフレッド・ヒッチコックの吹き替えをしており、キャスティングは、熊倉が所属するテアトル・エコーのメンバーがユニットのような形で出演する中で、たまに外部からゲストを呼ぶようなシステムで行っていた。これにより、納谷はゲストとして何回か呼ばれることとなる。そして、熊倉から「おまえ、入れよ」と誘われたことで、1959年1月にテアトル・エコーへ所属した。
テアトル・エコー入団時、テレビ放映の吹き替えで新劇俳優が起用されることが多く、納谷もこうした中で「アテレコ」に多用され、30歳少し前くらいに声優としての活動を開始した。最初のアテレコ作品は、テレビ映画『地方検事』の鑑識官役。テレビドラマにも出演したが、拘束日数の長さを事務所が嫌がった結果、自然と声の仕事が増えたといい、後に「声の吹き替えのできる俳優が少なかったので、とにかく忙しかった。現場であわせるのは同じ顔ばかりだった」と語っている。また、現場にすれば「メイクも衣装も不要」で手軽な「声の出演」に対する扱いは悪く、当時のギャランティーは通常の70%のレートで不本意だったというが、忙しかったので金は稼げたという。
1985年3月、胃潰瘍で入院し胃腸を半分切除する手術を行う。1990年代には胃癌の摘出手術を行い、それ以降は体力が低下し声も出にくくなったという。
2008年4月、舞台公演中に視覚の違和感を覚え、歩行など生活にも支障が出たため検査を受けた結果、脳梗塞が判明。完治が困難との診断を機に、舞台『ルームサービス』で俳優業を引退する。同時期に都内から千葉県千葉市に転居し、以降は妻である火野の助力を得て声優業のみ継続していた。
2013年3月5日、慢性呼吸不全のため千葉市内の自宅で死去。83歳没。通夜及び告別式は近親者のみで行われ、訃報は3月11日に公表された。遺作は、2012年5月28日に収録した『インセプション』の吹き替えとなった。
2013年5月21日には恵比寿・エコー劇場でお別れの会が行われ、声優仲間やファンおよそ300人が訪れた。
テレビ草創期からアニメーションや吹き替え、ナレーションなど幅広く活動。テアトル・エコーでは看板俳優として多くの舞台に出演した。
低音の渋い声質が持ち味であり、代表作である『ルパン三世』の銭形警部役など独特なだみ声でも人気を集めた。元々の地声は濁りのない声質であるが、銭形役について「二枚目の声で演じていたら現在まで持たなかっただろう」と語っている。
役柄では、悪役から重厚な脇役、屈強な男や『仮面ライダー』のショッカー首領のような悪の組織のボス、威厳ある役を演じることが多い。一方で、キャリア初期は正義のヒーローや若々しい青年の役も多く、他にも喜劇的な小悪党など幅広い役をこなしていた。
ナレーションが好きだといい、一時期はナレーションの仕事への起用を要望していたが、その頃は上手いナレーターが多くいたため、その中に食い込むことは難しかったという。そのため、個性を出すべく流暢にしゃべるのではなくリズムを区切るようにし、後年ではこのしゃべり方が「納谷節」と称されるようになった。
特技は男性の話す京都弁。
趣味は酒、野球。熱烈な阪神タイガースのファンであり、かつてテレビ朝日系列で放送されていた『サンデープロジェクト』のプロ野球コーナーでは「ナレーター:阪神狂の納谷悟朗」とテロップで表記されていた他、晩年の宣材写真は阪神の野球帽を被ったものが使われていた。
少年時代は内気で引っ込み思案な反面、スポーツは得意で体面を保てたという。また、大学時代は空手部と野球部に所属し、身体を鍛えていたという。
日本共産党支持者であり、選挙のときは推薦人名簿に名を連ねている。支持のきっかけは、本人によるとかつて毎日新聞で原稿の受け渡しのアルバイトをする中で日本青年共産同盟へ入ったことだったという。
劇団の後輩で、養成所時代に演技指導を受けたことがある神谷明は納谷について「納谷さんは先輩というよりは師匠でした」「演技には厳しかったですが、優しく、心温かい方でした。また、ダンディーで格好良く、そのファッションは憧れたものです」と語っていた。
役者になっていなかったら新聞記者か弁護士と語っていた。
大学で演劇活動を始めた頃、いきなり「60歳くらいの破戒坊主」など老け役を演じていたという。これは、先輩に「若いうちから老け役をやると一番勉強になるから」と言われたためであったが、納谷本人の心境は「嘘つけ!」だったという。
第二次世界大戦を経験している。時代の影響を受け、15歳の頃には「天皇陛下のため死ぬことが僕の人生」と考え特攻隊へ入隊したが、一度も飛行機に乗ることなく終戦を迎えた。このことから「青春をかけるもの」を失い、さまよう中でたどり着いたのが役者としての道だったという。
児童劇団東童時代は、出演料の少なさから日々の暮らしにも困っていたといい、旅公演がない時は稽古場に寝泊まりし、食事は先輩にくっついては奢ってもらう毎日だったという。
NHKのラジオドラマに出演するようになった頃、出演料をもらった時は嬉しかった一方、1本のラジオドラマにリハーサルが2日、本番が1日と3日もかけていたため、NHKに通う電車賃を引いたところ、残る金額は一食分くらいだった。そのため、同じ番組に出演していた先輩のベテラン声優たちが食事に出かけた後、灰皿をかき回して吸いがらを集めては屋上に駆け上がり、それをくゆらせては、我が身の空腹をごまかしていたという。
人気絶頂の時期には、ギャランティーの袋が立ったほど稼いでいたという逸話がある。しかし、そのほとんどは劇団の維持費や飲み代、煙草代などに消えたという。本人は「貯金は好きではない」「(かつては)収録が終るとその日にギャラがもらえるから、さあ、飲みに行こうって(笑)。これが、僕は正しい金のもらい方だと思うんだけど」とも語っている。
舞台に関して、「生でその日その日のお客さんと勝負をする」こと、「公演後には何も残らない」という潔い部分があることが好きで没頭したという。また「舞台は生き物」と述べ、「同じ内容でも、お客さんの反応によって芝居をはじめ雰囲気は異なる。その日一日だけのもの」という面白さも好きだったという。
声優の仕事に対しては、自身の本職は舞台俳優との考えから「本命の舞台を維持するために行う稼げる商売」と割り切っていた。ただし、だからと妥協は一切せず全力投球で挑んでいたといい、「僕は舞台の役を与えられたのと同じ感覚でやっていましたよ。違うのはお客さんが目の前にいないということだけです」と語っている。
「声の仕事も役者の仕事の一環」という姿勢から「声優」と呼ばれることには抵抗を持つ一方、「声優」という言葉が一般的でなかった頃に使われた「アテ師」という言葉に対しては、「密室で声だけ出しているという自虐的な意味も含めて『アテ師』と言ってました。決して誇らしく使ってるんじゃないんだけど、でもそんなに嫌いな言葉じゃなかったですよ」と述べている。
「こういう役だから、こう演じる」といったことにはこだわっておらず、本人は「僕はやれと言われたからやるだけであって、その演技が良かったかは後の問題。評価はお客様がしてくれることであって、『良い悪い』はなかった」と語っている。また「与えられた役をそのまま自分らしく演じる。人生もそんなものだと思う」という言葉を残している。
納谷は、声の仕事に対して「絵が勝負」としており「アニメで言えばキャラクター、吹替ならば演じている俳優にいかに合った芝居をするか、そのことしか考えてなかったですね」と話している。洋画吹替の際は、担当する俳優の話し声にできるだけ近づけた声での演技を心がけてもおり、そのため、ナレーションなどの仕事で「〇〇の声で」という風に指定されることは苦手としていて「画面にそのキャラクターがいるわけでもないのに、声だけ出せといわれてもできるわけがないんです」と、1980年代のインタビューに答えており、同時に「声優は声帯模写ではなく、声だけで演じる俳優なんですから」と述べて、プロ意識ものぞかせた。これらの信条については、21世紀以降の談話でも述べており、考え方は一貫していた。
声優志望の人へは「のめり込むほど好きであること」「スタニスラフスキーでも何でもいいからいいから演劇を勉強すること」が必要だと述べている。また舞台経験の無い多くの若手声優に対しては、「舞台経験があったほうが良いですね。台本を読み込む力がつくし、僕自身は新劇出身だったので、比較的声の仕事は楽にやれたんだと思います」と語っており、舞台を演じる若手声優は積極的に支援している。ただし、「全員の卒業後について責任が持てない」「せっかく教えても辞めてしまったりすると何にもならない」との考えから声優学校の講師をすることは無かった。
近年の若手声優に対しては「自分の声に酔っちゃう人が多い」と述べており、ナレーターに関しては「ナレーションはあくまでも映像を補足し、視聴者を助ける役割」との考えから「映像と一緒になって盛り上がる人が多い。それを指摘するディレクターもミキサーもいなくなっている」と苦言を呈していた。また、声優界の将来に対しては「ただ声を当てればいいと考えている声優が多すぎる。目の前に客がいると思っていない」と憂う発言をしていた。一方で「偉そうに助言する気はない」と語ったこともあり、「たとえ言っても聞かないと思うし、昔の自分もそうだった。好きなようにやるのが役者だし、本人が思い感じるまま、終わりまで好きなようにやってほしい」という思いを述べている。
『仮面ライダー』のショッカー首領役は、非情さと威厳を併せ持つ「怖くて強くて絶対だ」とのイメージで演じた。後年はスペシャルゲストのような形での作品参加が増え、「『大首領の声で』と言われる仕事も多くなり、ありがたいことだと思ってやっています」と語っている。
ショッカー首領の台詞は大抵抜き録りで、他の役者たちの昼休み前に行い、一言二言で終わることが多かった。怪人役の他の同僚が数本まとめ録りで長時間拘束されているなか、納谷だけさっさと帰ってしまうので、「やっぱり首領は違うよな」とやっかみ半分の声がよく挙がったという。
『仮面ライダー』以後も仮面ライダーシリーズで悪の首領役を多く演じた。『仮面ライダーアマゾン』では自ら望んでナレーションを務めた。また、『仮面ライダー』のパロディ作品である『仮面ノリダー』にもナレーションでゲスト出演したことがある。
『ルパン三世』ではテレビシリーズの第1作から2010年に放送された『ルパン三世 the Last Job』までの39年間、銭形警部の声を担当していた。これは50年間に渡り次元大介の声を担当していた小林清志に次ぐ長さであった。
おおすみ正秋は『ルパン三世 パイロットフィルム』のキャスティングの際、「(納谷は)演ってもらう人たちの中でも一番ハードボイルドな雰囲気が出せる人でね。クールな五右ェ門の役以外は考えられなかった」と石川五ェ門役にキャスティングしたが、納谷は台詞が少ないからと自ら銭形役を希望して変更になったという。
納谷は銭形を「途中でああいうキャラクターをつくったんですよね」と語ったことがある。本来の銭形は絵柄をはじめ二枚目の要素が強かったが、登場人物が次元を始めクールなキャラばかりなことに懸念を抱いたことからスタッフや原作者のモンキー・パンチと話し合い、三枚目の要素が強いアニメ独自の銭形のキャラクターが誕生したいう。
銭形を演じる際は、家庭などの背景を考えると「動きが難しくなる」ことから、設定などは引きずらず、とにかく「銭形本人だけ」を演じることを心掛けていたという。
納谷は銭形について「ルパンを追うことに全てをかける一途さが好きだ」と述べており、「『逮捕だ!』と言うのは口先だけで、ルパンとの追いかけっこを楽しんでるんじゃないか」「この純粋(?)さが、人生に色々悩みを持っている僕には、とても羨ましいんだよ」と語っている。
長年銭形を担当していたこともあり、晩年には「銭形はいつまでも歳を取らないけど、僕は年々歳を取っていくので、合わせるのが少し辛いですね」と語っていた。なお、銭形の声は2011年放送の『ルパン三世 血の刻印 〜永遠のMermaid〜』から山寺宏一が担当となったが、今後も機会があれば銭形役を演じたいとの旨を語っていた。
初代ルパン三世役だった山田康雄とは、所属するテアトル・エコーのほぼ同期であり親交があった。『ルパン三世』以外にも多くの作品で共演していため、ルパンと銭形のやりとりは「ごく自然に呼吸が合った」という。若い頃は千葉県上総湊にある海の家を一緒に借りて、アフレコが終わるとその家でいろいろ遊んでいたこともあるという。そのため「互いに老けてヨボヨボになってもルパンと銭形の追いかけっこを続けよう」とよく語り合ったといい、1995年に山田が死去した際、葬儀の弔辞を担当した納谷は山田の早世を惜しみ、遺影に銭形の口調で「おい、ルパン。これから俺は誰を追い続ければいいんだ」「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」などと涙ながらに呼びかけた。
山田からルパン役を引き継いだ栗田貫一のこともサポートしていた。栗田は初収録の際、納谷から「お前でいいんだ。やってくれ」と温かい言葉をかけられたおかげで収録に臨めたと後に語っている。納谷は栗田に対し、「ものまね出身の方だし、長い台詞などお芝居になるとちょっと辛い部分もある」としつつも、「今までの作品を滅茶苦茶に見て、ヤスベエ(山田の愛称)の持つ細かいニュアンスを再現している」「こんなに熱心に一生懸命やるのにはびっくりしました」と評しており、栗田が初登板した翌年の1996年には「ヤスベエとは一味また違う、やり取りが生まれてきている感じです」「もう感傷には浸っていられない。新たなルパン像を追って頑張りたいと思います」とコメントしていた。また、栗田と小林が収録中の出来事でもめた際は納谷が仲裁に入り、栗田が作品の主演であるという責任感を感じさせるきっかけを作ったのも納谷だった。その後、納谷が亡くなり行われた「お別れの会」で、栗田はルパンの口調で「とっつあん、さみしいねぇ、ずっと追いかけてもらいたかったぜ」と惜別の言葉を送っている。
『宇宙戦艦ヤマト』ではヤマト艦長の沖田十三を演じた。沖田の声を担当した際、当時納谷は40代であり、「なんでこんな老け役をやらなきゃいけないんだ」と不満に思っていたこともあった。最初のアフレコの頃は沖田を70代ぐらいのキャラクターだと思って喋っていたという。しかし、後に「艦長ということは70代なんてことはあり得ない」と感じるようになり、「現役の艦長だったら50代くらいだから、もっと若くやればよかった」と心残りにしている。
この作品が声優ブームのきっかけになったこともあり、当時はアフレコスタジオの外で、よくファンが出待ちをしていたこともあるという。しかし、自身は「キャラクターの声を当てているだけであり、それがスターみたいな扱いをされるのは不思議でしょうがなかった」と語っている。
インタビューで「若い人たちに『宇宙戦艦ヤマト』をどう見てもらいたいか」という質問には、「今は戦争を知らない人が大半ですから、若い人がどう感じるかはわからないけど、『ヤマト』を見て、平和の大切さを感じてもらえるといいと思いますね」と答えている。
『クラッシャージョウ』では第三特別巡視隊司令、重巡洋艦コルドバの艦長であるコワルスキー連合宇宙軍大佐を演じており、「コワルスキーのイメージが僕にとってはなんとなく銭形なんですね。なじみやすい感じですね」とコメントしている。また、『クラッシャージョウ大研究』によると原作者の高千穂遙から指名があったという。
声優として活動するきっかけになった吹き替えには、多くの作品に出演。持ち役には、ジョン・クリーズ、チャールトン・ヘストン、リック・ジェイソン、ロバート・ライアン、クラーク・ゲーブル、リー・ヴァン・クリーフ、マーティン・ランドー、ジョン・ウェインらがいる。
かつては、自身の体格とは異なる「強くがっちりした」俳優に起用されることが多かったといい、「僕の声質がそういうキャラクターに合っていると思って、お使いになったのではないか」と語っている。収録後の飲み屋でインタビューを受けることになった際、記者が納谷の隣にいた体格の良いスタッフを納谷と勘違いし、そのスタッフへインタビューを始めてしまい、納谷も訂正が面倒だとそのまま放置したというエピソードがある。
『地方検事』に出演していた時はレシーバーもなく、無音のままの画面を見ながら吹き替えており台本に吹き替えるスターの動作を細かく書き入れ、口に合わせるだけで精一杯であった。その時は外国語ではなく日本語で喋っているように、感じを出すだけであったという。
1979年時点で吹き替えのセリフも、翻訳がうまくなったせいもあり、非常に演じやすかった。しかし外国語もセンテンスと日本語のそれと比べた場合、アクセント、力の入れ方が日本語だと後になることから違ってきて言葉の並べ方が違うため、日本語に直すとスターのアクションがちぐはぐになり、なるべく吹き替える役者のアクションに合わせようと心がけていたという。
クラーク・ゲーブルに関して、テレビ朝日の映画番組『日曜洋画劇場』が開始の際に専属吹き替え(フィックス)制度を用いたことで起用されるようになったという。納谷はゲーブルについて「彼は映画館でスクリーンに登場してくると、女性客がどよめくというような、雰囲気がありますね」「もう、とにかくすごい役者ですよね。あの人が出てくると画面がパッと締まるっていうか。パッといなくなるとつまんなくなっちゃうような。これはもう、やってて楽しかったですよね」と語っている。
チャールトン・ヘストンに関しては、来日したヘストン本人から公認を受けている。初担当は1962年に日本テレビで放映した『テキサスの白いバラ』だった。専属のきっかけとなったのは、同じく『日曜洋画劇場』でゲーブル出演作の放映がなくなったことに伴い「今度は違う俳優の声を」と起用されたことだったという。納谷はヘストンを「僕に言わせるとうまくないんですよ」「ひとつのパターンしかできないみたいな。だから、吹き替えは楽だったですよ」と評する一方で、史劇の英雄役が多いことから、格調高い話し方にするようには留意していたという。ヘストンの吹き替えで思い入れが深い作品に『ベン・ハー』と『十戒』を挙げている。ドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でヘストンのボイスオーバーを務めた際は、担当スタッフが同作でヘストンが不名誉な扱いを受けているため切ない気持ちで納谷へオファーをすることになったが、納谷自身は「ヘストンの声はオレ」としっかり引き受けたといい、同スタッフは「プロ中のプロ」と感じたという。
ジョン・ウェインは、専属だった小林昭二がトラブルで降板したことから、代役で務めたのが始まりだった。初めて担当した際は「オリジナルの俳優本人の声をできるだけ生かしたい」と、納谷なりにウェインの地声に近い声を出したところ、演出家にNGを出され、ウェインの風体に合った太い声で男っぽく演じたという逸話がある。納谷は当時を振り返り「小林君がそういう声で演ってましたからね。ただそのうち、こっちに引き込んで演りました」と述べ、ウェインを担当することが増えてからは、ウェインの地声に近い声を出しながら演技していたと振り返っている。実際に納谷の声は柔らかいトーンであり、ウェインの地声に近いと言われている。
自身が吹き替えた中で思い出深い作品には、ロバート・テイラーを担当した『哀愁』を挙げており「演じているうちに、テイラーを超えて、テイラーが演じている大尉になってしまいましてね。あれは素敵なラブロマンスでした」と語っている。テイラーは二枚目であったが、演技的には大して上手とは思えず、やりにくかったという。
近年の吹き替えについて、「昔とは全然違う段階」と語っている。個性的な俳優やスター俳優がいなくなり、今は日本の作品も含め「リアルに、普通の芝居をやればそれが一番いい」という風潮であることから、「ああいうハリウッドの往年の大作時代が終わって、僕らも終わって(笑)。というふうに僕は考えてますけどね、はい。」と述べている。
遺作となった『インセプション』の吹き替えは、かつて多く出演した『日曜洋画劇場』の放映のため製作されたものであった。そのため、納谷は「この年齢になって、日曜洋画劇場のアテレコをやれる事自体にビックリなのに、アテタ役者が最近亡くなった名優(ピート・ポスルスウェイト)だったので、感慨無量でした。」とコメントしていた。
太字はメインキャラクター。
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〈ジェフリー・ルイス〉)
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納谷は東宝の特撮映画での仕事も多いが、本多猪四郎監督とはよく酒を飲む間柄だったという。
※2013年以降の出演作品は生前の収録音声を使用したライブラリ出演。
全て声の出演。
納谷の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。生前に降板した作品についてはここに掲載せず、適宜注釈欄に記載している。
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