小堺 一機(こさかい かずき、1956年(昭和31年)1月3日 - )は、日本のお笑いタレント、コメディアン、司会者、俳優。
千葉県市川市出身。浅井企画所属。
父・秀男と母・淑子の間に生まれ、幼少時代を市川市真間で過ごした。その後、寿司職人であった父の職場移動に伴い、小学2年生の時に東京・浅草に移り、そこで少年時代を過ごす。ここで映画への興味を深め、またストリップ劇場など大人の世界にも触れた。さらに東京放送児童合唱団(14期。現・NHK東京児童合唱団)に所属するなど、華やかな世界への興味を抱くようになった。その後小学4年生の時に文京区目白台、小学5年生の時に新宿区早稲田鶴巻町に転居。幼少の頃はデザイナーになることに憧れており、東京都立工芸高等学校への進学を志望していたが、小学校の健康診断で赤緑色弱と診断されたために断念せざるを得なかったという。また、小学校(文京区立関口台町小学校)時代の同級生の一人にギタリストの土方隆行がいる。
新宿区立牛込第二中学校、東京都立市ヶ谷商業高等学校、研数学館を経て、専修大学に合格した。
専修大学在学中の1977年(昭和52年)、テレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の「素人コメディアン道場」で第17代チャンピオンとなり、芸能界入りした。大学卒業後、勝新太郎が主宰する「勝アカデミー」に第1期生として入校し、翌年卒業した。勝アカデミーでは岸田森らに師事し、同期生にはルー大柴がいた。
その後浅井企画と契約し、本格的な芸能活動を始めた。『ぎんざNOW!』初代チャンピオンであり、浅井企画の先輩で長年の親友でもある関根勤(旧:ラビット関根)とコンビ「コサキン」(当初は『コサラビ』)を組み、ライブハウスの舞台に立ち修行を積む一方、『ザ・トップテン』(日本テレビ)の中継リポーターとして出演したのに続き、萩本欽一の看板番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日)の「クロ子とグレ子」で関根勤と共に人気を獲得。1981年、関根と共にTBSラジオ『夜はともだち コサラビ絶好調!』のパーソナリティを務めた。その後この『コサキン』シリーズは、放送時間や番組名を変えながらも継続され、深夜番組としては驚異的ともいえる2009年3月まで27年半続いた長寿番組となった。
活躍が認められ、1984年(昭和59年)10月1日にフジテレビのテレビ番組『ライオンのいただきます』(1989年10月より『-いただきますII』に改題)の司会に抜擢、その後、後継番組として1991年(平成3年)1月7日から『ライオンのごきげんよう』(2016年3月31日放送終了)が開始、以来お昼の顔となっていた。
1980年代から90年代にかけては俳優としてもテレビドラマ出演を多くこなした。『いただきます』『ごきげんよう』で司会者のイメージを確立しているが、原点となるものまね芸も続けており、『コサキン』シリーズで新ネタを卸し続けたほか、2010年代以降も『とんねるずのみなさんのおかげでした』で若手芸人に混じってものまねを披露することもあった。
2004年(平成16年)7月、首の腫瘤の摘出手術のためにレギュラー番組を一時降板した。摘出の結果一部に癌化した細胞が検出され、後に自身が癌に罹患していることを公表した。テレビ番組には同年8月30日の『ごきげんよう』の生放送で復帰したが、その際には、髪を白く染めるという意表をついた登場で注目を集めた。それ以後は金色の頭髪がトレードマークとなっていたが、現在は白髪であると本人が語っている。なお、従前より「髪の毛の後退」は小堺自身のネタであった。癌になったことをきっかけに禁煙した。
映画好きで、無類の服好き。特にブランドものの洋服や靴、映画のDVDなどには目がなく、気に入ったものはすぐに買ってしまう。TAKEOKIKUCHIでは、小堺が足繁く通うことを知った菊池武夫が、自らコーディネートをするようになった程の上得意である。このこと(同じ服を色違いで買うことも多い)を、かつてラジオ番組(のちの『コサキンDEワァオ!』)内で告白してしまったため、関根やリスナーに「服の中に家がある」などといつもネタにされている。買って殆ど着ないという服も多いらしく、ラジオ番組のリスナーや後輩芸人にあげたり、家に遊びに来たルー大柴に小堺が着ないからと勝手に持って行かれたりしている。しかも季節の変わり目になると、ルーから「小堺、服くれ」という催促のハガキが送られてくる。
関根勤が格闘技マニアでゴルフが得意であるのとは対照的に、スポーツに対する興味が薄い(ジムで体を鍛えることはしている)。ラジオ番組では、スポーツ選手の名前が読めないことがたびたびネタにされている。高望山を「たかのぞみやま」、川相昌弘を「かわそう」、野茂英雄を「のしげ」、現役時代の高木豊内野手を「たかぎとようち野手」と誤読したほか、沢村忠と沢村栄治を混同したこともある。
キャロル時代からの矢沢永吉の大ファン。矢沢と対談した関根から、矢沢の飲み残しのミネラルウォーターをお土産として貰い、それを冷蔵庫で大切に保管していたことがある。
熱狂的なゴジラファンであり、自宅にはフィギュアを飾っている。年の瀬になると東宝の怪獣映画を無性に見返したくなるという。ゴジラのライバルで好きなのはキングコング・モスラ・ラドン。モスラについては「政治家でいうと石破茂さんみたいなタイプ」、ラドンについては「『七人の侍』で宮口精二さんが演じた久蔵とイメージがダブる」と語っている。
少年時代にNHK総合の歌番組『歌はともだち』に塩屋浩三、長谷川よしみ(長谷川コッペ)、山尾百合子、山田隆夫らとグループを組んで出演していたが、番組の企画変更に伴いグループは解散。しかし数週間後に小堺一機が番組を観ると、小堺以外のメンバーは全員出演していたため、自分だけが降板させられたことを知る。その後大学時代に山尾からTBSテレビの『ぎんざNOW!』への挑戦を勧められる。その場では固辞するが山尾が勝手に出場希望のハガキを出したため、オーディションに参加することとなった。このオーディションに参加することを決めた大きなきっかけは、高校2年から大学2年まで5年間ずっと好きだった女性にフラれて大失恋したことだった。そしてこれに3週勝ち抜いた時に、父から「お前はいつも中途半端で、物事を一所懸命やらない」「何でもチャランポランだからこうなんだ」と前述『歌はともだち』を降板させられた時に言われたことを思い出し、「これ(芸能界)は俺がすごく好きなことだと思った」として「そして今一所懸命やらないと、酒の席で酔った時に同じ話を繰り返す大人になるだけだ」と思い直したという。
デザイナーを志し、都立工芸高校に進もうと考えたが、色覚異常があり結果として断念。しかし、父からは「いいなあ、お前は人と違う世界が見られて」と言われ、それが自分の「特性」であると気づいたという。
『ぎんざNOW!』のオーディション出場後、芸能界に入ると父に打ち明けた所「テレビなんてのはティッシュペーパーと一緒で捨てられるぞ」と言われたが「じゃあ、ハンカチになればいいでしょう、そしたら洗ってくれるから」と返し、芸能界は3年経ってもダメなら声もかからないだろうと思って「まず3年だけやらせて下さい」と願い出て、勝アカデミーに行くことになる。
28歳の若さで『いただきます』の司会に抜擢された際、小堺は放送開始当日まで「ドッキリか何かだと思っていた」と語っている。また、小堺を番組司会に大抜擢した横澤彪は、番組開始当初「アルタへ遊びに来るような感覚で司会をしてください」と緊張をほぐすような発言をしていたが、番組開始2ヶ月後には「いつになったら面白くなるんですか」とバッサリ斬り捨てるような発言をするようになり、小堺は肝を冷やしたという。
『ごきげんよう』放送開始当初は、前身番組『いただきます(IIを含む)』が生放送だったということもあって生放送と勘違いされ、放送時に道を歩いていると通りすがりの人から「番組は?」と声を掛けられることが多く、タクシー運転手には小堺をスタジオへ送ろうと声を掛けられたことがある。その後も勘違いしている人がいるため、放送時間帯はなるべく家を出ない様にしていた。
『ごきげんよう』での自分は聞き役に回ってゲスト出演者の話をうまく引き出し、引き立てる技術は知られるところである。盟友の関根勤は、小堺の代役で司会を務めた際に、改めて小堺の司会の上手さが分かったと語っている。しかし『ごきげんよう』に関根がゲスト出演した時には、ラジオ番組『コサキンDEワァオ!』出演時のテンションになり、他のゲスト出演者や観客を置き去りにして2人だけの世界でトークを繰り広げてしまった。
薄い頭髪と丸顔は、しばしば共演者からもイジられる。『ごきげんよう』に2代目林家三平と泰葉がゲストで来た時には、泰葉が「金髪豚野郎」と呼称した春風亭小朝に似ていると評された。明石家さんまからは「死にかけのマリモ」「草むらのテニスボール」とあだ名されたこともある。
毎年、後輩芸人や「おすまし」の出演者などを連れてニューヨークへ行き、ブロードウェイ・ミュージカルや本場のショー・ビジネスを観ている。小堺がいわゆる「お笑い芸人」ではなく、スマートに笑いを提供する「エンターテイナー」を志向していることを証明する一面であり、ナンセンスコントやマニアックな笑いを追求する盟友の関根とは対照的である。なお上記のように服好きであるため、ニューヨークに行っても服を買っている。このため、「ニューヨークに服を買いに行った」などと言われることもある。
『ごきげんよう』が不動の人気を博してからNHKから出演オファーがあり、その際NHK側から「どうですか? (売れたから)そろそろウチの局に出てみますか?」と高飛車に言われ、呆れると同時にNHKという組織に改めて強い怒りが湧いた体験があったという。
以前、沢口靖子と共演したドラマにて、撮影当日になってから彼女とのキスシーンがあることを告げられ驚いてしまったことがある。しかも、自分はそのことで落ち着かない気持ちになったのに、沢口は平然と「じゃ、宜しくお願いします」と言ってきたため、小堺は「女優さんってすごいんだな」と改めて感心した。
三宅恵介を通じて明石家さんまとも意気投合。80年代よりさまざまな番組で共演している。さんまの「引き笑い」を「伝授」されるなど仲が良く、さんまが「あなた誰ですか?」と知らないふりをすると、小堺が(はげ上がった)額を手のひらで隠し、それでさんまが「小堺!」と気づくというギャグが定番になっている。
小堺は若手時代に萩本欽一から「やることなすことすべてを大将(萩本)に否定され、『お前なんか売れない』と言われ続けていた」などの仕打ちを受けたことがあり、当時の小堺は「週末はディスコで必ず踊りながら『萩本死ねーっ!』と言ってた」と回想している。ただし、萩本が小堺に抱いた実際の第一印象は「売れる顔をしている」であり、前述の仕打ちは「最初に俺が優しいと、お前らは『大丈夫だ、芸能界』と思ってしまう」と危惧した萩本が、小堺と関根にあえて厳しく接したものであった。関根と同様に萩本には弟子入りをしていないため、萩本とは正式な師弟関係ではないが、現在は師弟に準ずる関係であることを認め合っている。
2015年4月4日よりMBS制作で土曜日午前8時から放送開始のサタデープラスのMCに就任した。小堺が在阪局大阪本社制作のレギュラー番組を担当するのはこの番組が初めてである。更に生放送番組であることから小堺は毎週土曜日は大阪で朝を迎えていた。同番組は、2020年3月28日放送分を以って降板した。
『ライオンのごきげんよう』終了後の2016年4月19日にはNHK総合『スタジオパークからこんにちは』に、同年9月5日にはテレビ朝日『徹子の部屋』にそれぞれ初出演を果たした。2022年2月3日には、関根と共にコサキンとして同番組に出演した。
太字は現在出演中の番組。
以下の6人に関しては、ラジオ『コサキン』の企画で本人の目の前でモノマネをし、本人から直々にモノマネをしていいという公認をしてもらった芸能人である。
他多数。
※ すべてフォーライフ・レコードより発売。
※ サンドイッチは、サンドイッチのディスコグラフィを参照。
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