THE YELLOW MONKEY(ザ・イエロー・モンキー、略称:イエモン)は、日本のロックバンド。1988年に結成し、1992年5月21日にシングル『Romantist Taste』でメジャー・デビュー。2001年1月8日に活動停止を発表後、2004年7月7日をもって解散。その後、2016年1月8日に再集結された。デビューからのCD総売上枚数は、シングル・アルバム合わせて1,000万枚以上。
かつての公式ファンクラブは「Petticoat Lane」。再集結後の公式ファンクラブは「BELIEVER.」。
※公式サイトの「BIOGRAPHY」に準拠。
吉井はSABBRABELLSやアクションなどのジャパニーズメタルバンドから影響を受けているほかデヴィッド・ボウイやミック・ロンソンなどグラムロック系のアーティストからも強い影響を受けている。4人全員が元ジャパニーズ・メタルバンドのメンバーだったのだが、メジャー・デビュー後はヘヴィメタル、ハードロックから一歩距離を置いた方向性に進んでいる。
バンド名の「イエローモンキー」とは、主に西洋圏で使用される東洋人に対する蔑称である。吉井が自身のイニシャルである「Y」から始まる英語を辞書で探していたことがきっかけで、「ダサくてシニカルな名前にしたい」と考えていた吉井によって、結成前に発案されていたという。また、その名称からローリング・ストーンズがバンド名を初めて聞いた際、「すげえ名前だな。絶対忘れねえ」と語ったエピソードもある。
吉井は名称に込められた思いとして「洋楽へのコンプレックスがあった」ことを語っており、「日本のロックにこだわりをもっているが、『日本のロック』という言葉には既に洋楽へのコンプレックスがあり、それは永遠に消えない」としている。また、「ルックスが良くて長身なのが『イエローモンキー』のコンセプト」とし、183cmの吉井はじめ全員が長身である。
「イエモン」の略称がメディアやファンを中心に用いられている。デビューして間もない時期に、音楽誌のライターが「『ミスチル』と略すことと同じ感覚で」名付けたことがきっかけである。
2013年に発売されたベストアルバム『イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』は、長く応援し続けてくれたファンにも「イエモン」という略称を受け入れてもらうため、最もわかりやすい愛称としてタイトルに相応しいのではという意見がメンバーやスタッフから上がり、満場一致で「イエモン」がタイトルとして採用されることとなった。
なお、メンバー自身は「イエモン」の略称を使用することがなく、吉井とドラムの菊地は「今でも(2019年当時)コアなファンは略さない人が多い」と語っている。
ベースの廣瀬は「ファンの中には『メンバーがこの略称を嫌がっている』と思っている人がいるかもしれないが、決してそんなことはない」と語っており、「(上記の)ベスト・アルバムにも僕らから『イエモン』と使っていますし、名称としては気にしていない」としている。
1988年に結成。当初は元SHOCKの松尾賢一がボーカル、元URGH POLICEの吉井がベースを担当していたが、以前から親交のあった元MURBASの廣瀬洋一をメンバーに誘い、吉井はギターに転向した。さらに「KILLER MAY」のドラムとして1986年にメジャー・デビューしていた菊地英二が同バンドの解散後に加入する。後に松尾が吉井との「音楽的な意見の食い違い」を理由に脱退したため吉井がボーカルに転向し、「KILLER MAY」のギターとして活動していた英二の実兄・英昭が加入。1989年12月28日に現メンバーで初めてのライブを行う。
当時は渋谷区のライブハウス「渋谷La.mama」を拠点に精力的なライブ活動を行っていた。バンド初期はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどを彷彿とさせるグラムロック色が強く、メンバーが奇抜な衣装に派手な化粧をしたりするなど後のヴィジュアル系のようなルックスをしており、ヴィジュアル系を取り扱う雑誌やライブイベントにも参加していた。
当初の観客動員は好調であったが、ダークな楽曲が中心だったこともあり徐々に動員数は減少。しかし、グラムロックイベントにて「SLEEPLESS IMAGINATION」(『Bunched Birth』収録曲)を初披露して以降、動員数は増加した。ベースの廣瀬は「ダーク色もありつつ、デヴィッド・ボウイのような煌びやかさをミックスしたグラムロックを鳴らし始めたからこそ、動員数が増えたのかもしれない」としている。また、吉井がライブで女装をし、オカマキャラを演じることにより当初苦手だったMCが「面白い」と評判になったことも動員数増加の後押しとなった。当時の観客層は9割女性だったという。
1992年5月21日、日本コロムビアよりシングル『Romantist Taste』でメジャー・デビュー。レコード会社はフォーライフ・レコードとの2社間で決めかねていたものの、吉井がある日見た夢に美空ひばりが現れ「『あとは任したわよ』って言われた」ことを決定打とし、コロムビアへの所属を決定することとなった。1か月後には1stアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』をリリースした。だが、枚数は思うように売れずオリコンチャート圏外となり、インディーズ時代からのファンにも酷評を浴びるなど芳しくなく、後に吉井も「(所属事務所の)社長もどう売っていいのか分からなかったと思う」と語っている。しかし、ライブの動員数はイベント出演なども手伝って伸び続け、チケットは毎回完売状態だった。そして、前作から約8ヶ月という短いスパンで制作された2ndアルバム『EXPERIENCE MOVIE』が1993年3月に発売され、4月には日本青年館で初のホールライブを実施。同ライブでは、両手を縛られ頭に袋を被せた裸の女性2人をステージに出す衝撃的なオープニング演出を行った。
当時、日本コロムビアのディレクターだった宗清裕之はセールスが伸び悩むことを危惧し、「もっとコマーシャルな方向に行こう」と提案した。その一方、吉井は「この先もバンドを続けていく上で、1回はコンセプトアルバムを作りたい」と語り、1994年3月にコンセプトアルバムとして3rdアルバム『jaguar hard pain』をリリースする。吉井は本作の主人公である「ジャガー」になりきるため、髪を丸坊主の軍人カットにした。春、夏、冬と3本のツアーを通して1年がかりで「恋人マリーと出会う」というストーリーの結末に向け、通常のMCを廃した独自のステージを展開した。観客動員は軒並み上がっていったが売り上げ枚数は伸び悩み、吉井は「なんでライブはみんな虜になってくれるのに、音源に関してはそうならない?」と悩んだという。観客動員が良かったこともあり、ツアーの終盤に翌年日本武道館公演が実施されることが決定する。
この年には『ROCKIN'ON JAPAN』3月号の表紙を飾ったが、抜擢した副編集長の井上貴子は後に「当時もまさかの表紙で、業界の波紋を呼んだ。だからこそやってよかった、といまだに思える一冊」と述懐している。
デビュー以降思うようなセールスを残せなかったことで、メンバーはスタッフとミーティングを重ねた。ディレクターである宗清との「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すのか」という話し合いに、メンバーは「オリコン1位を目指す」という答えを出し、これを機にしてチャート向けな楽曲作りに路線変更する。1995年1月にリリースされた5thシングル『Love Communication』はヒット曲を意識して作られ、目論見通り自身初のオリコンシングルチャートTOP30入りを果たし、スマッシュヒットを記録。同年2月にリリースされた4thアルバム『smile』はオリコンアルバムチャート初登場4位を記録し、大幅に売上はアップした。
このアルバムを携え、同年4月に初の日本武道館公演を実施し、即日完売するなど順調に人気を上げていく。同年7月にリリースされた7thシングル『追憶のマーメイド』がシングル初のTOP20入り、同年9月にリリースされた8thシングル『太陽が燃えている』がシングル初のTOP10入り、イギリスでレコーディングされた5thアルバム『FOUR SEASONS』が念願のオリコン初登場1位を記録するなど、バンドの人気を確実なものとする。帰国後まもなく始まったツアー「TOUR '95 FOR SEASON」ではトータルで9万人を動員した。
1996年2月にリリースされた9thシングル『JAM/Tactics』がオリコン調べで累計60万枚、同年7月にリリースされた10thシングル『SPARK』が累計55万枚を超えるヒットを記録する。
「SPARK」リリースの直後、1996年7月に日本コロムビアを離れてファンハウス(現・アリオラジャパン)に移籍。吉井は移籍に関し「『ちょっと違うレーベルでやってみたいね』っていうことだった」「色々折り合いがつかない部分が出てきた」ためと後年に振り返っている。同年の12月には日本コロムビアから非公認ベスト・アルバム『TRIAD YEARS actI〜THE VERY BEST OF THE YELLOW MONKEY』が発売され、バンド唯一のミリオンセラーを記録した。
ファンハウス移籍後は独自のロックを追求。吉井は6thアルバム『SICKS』の制作にあたり、「1日3曲録音をノルマ」とする。作成した300曲を80曲に絞り、さらに厳選したものを収録曲とした。吉井は当時の状況を振り返り「自分の中で、音楽がものすごく噴出してるのがわかった」と語っている。『SICKS』は吉井自らが最高傑作と自負する作品となり、オリコン初登場1位、オリジナルアルバムでは自身最高の売上を記録した。
11thシングル『楽園』、12thシングル『LOVE LOVE SHOW』、そしてシングルとしては最大ヒットを記録した13thシングル『BURN』など、シングルにおいても、いずれも45万枚以上の高いセールスをキープ。14thシングル『球根』は、シングルでは自身唯一のオリコン初登場1位を記録するなど、この時期に最も安定した人気を保つことになる。
1997年は精力的なライブ活動を行い、2月には20公演を回る「ARENA TOUR '97 "FIX THE SICKS"」を実施し、トータル15万人を動員。同年7月に「フジロックフェスティバル '97」に参加(後述)。同年8月、全国5会場のスタジアムツアー「TOUR '97 〜紫の炎〜」を実施し、4万人近いキャパシティを軒並みソールドアウトにした。
1998年にリリースされた7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』では、3作連続となるオリコン初登場1位を記録。ハードロック寄りとなり、ライブを強く意識したアルバムとなった。その一方で吉井は「世田谷のスタジオでデモを録ったんですよ。(中略)音も良かったし、勢いもすごかった」「(ロンドンでレコーディングを開始したら)なんか上手く行かない。あのデモを超えられない」といったスランプ状態に陥り、「今まで上昇していたバンドが下降し始めた感じ」を実感していたという。
このアルバムを携え、同年4月にはホール72本・アリーナ41本・計113本を1年かけて回る「PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99」を実施。同年1月7日の読売新聞紙上で、14thシングル『球根』と7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』のリリース情報とともに、全113本のツアー日程が全面広告で掲載された。3日に1回のペースでライブを行ったツアー以外の面でもメンバーは多忙を極め、ツアー中に計4枚のシングルをリリースし、それに伴うレコーディング・PV撮影・TV出演、同年7月にはイギリスでのライブを実施、翌年に公開された高橋栄樹の監督映画『trancemission』の撮影、同年12月28日には「メカラ ウロコ・9」を行うなど、精力的に活動を行った。
数々のアクシデントにも見舞われ、同年9月9日の香川県県民ホールのライブ終了後、過労によって倒れた吉井が病院へ運ばれる事態に。年始一発目の1999年1月9日には音響スタッフがステージの「奈落」に落下して死亡するなど、メンバーにとっては精神的・体力的にもハードなツアーとなった。
選曲の面でも吉井は苦悩し、前半のホールツアーは「洋楽志向のチャレンジ」として『PUNCH DRUNKARD』のアルバム曲が中心であったが、ツアーラストである1998年10月6日の岡山市市民会館で、吉井が「このツアーは失敗でした」と発言。後半のアリーナツアーからは「エンターテインメントに戻す」とし、アルバム曲を控えて過去のヒット曲を中心に演奏するようになった。
吉井は後に、1999年3月10日に横浜アリーナで行われたファイナルを「覚えてない。お客さんが見えていない」、ツアー全体を「ひたすら打たれ続けてた感じ」と表現した。「PUNCH DRUNKARD TOUR」は延べ55万人を動員し、1年間の経済効果は、グッズ・チケット・CDなどの売上を合わせ、100億円以上になるという。
このツアーのドキュメントとして、2013年9月28日に『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』が公開されている。
「PUNCH DRUNKARD TOUR」終了後、吉井は休養期間にシングル候補曲を10曲制作した。さらにバンドサウンドを見直すためのミーティングが行われ、シングル作品に朝本浩文、森俊之、笹路正徳などの外部プロデューサーを導入する「コラボレーションシリーズ」を行う。吉井は「とにかくバンドを続けていくため、2000年はシングルを多くリリースする」という方針に決定。その理由として、「長期間休んだ後に良いものを作れる自信がなかった。バンドの色々なことを一つずつ直していきたかったから」と語っている。
後に吉井は「自分の楽曲を他人に委ねることは、よく考えれば、もう終わったってこと」とし、この時期の活動へ否定的なスタンスに立っているが、反面「このまま手癖で続けるわけにもいかず、30代、40代とバンドを続けていくために必要なことだったのも事実」ともした。また、招聘したプロデューサー陣は「このままがいい」などとし、バンド・吉井の狙いとは裏腹にサウンド面へ変化をもたらすディレクションはあまり受けることはなかったという。
8thアルバム『8』の楽曲のレコーディングのためにロンドンへ向かった際、当時メンバーが多忙だったこともあり、スタジオに吉井一人しかいないという状況が続く。メンバーとの温度差を感じ始めた吉井が、帰国後の2000年3月18日にバンドの所属事務所ボウィンマン(BOWINMAN)に社長含む関係者を集め「俺をクビにしてくれ」と頼み込み、バンドへの不満を投げかけた。バンドは存続したが、「微妙な距離感が生まれた」と吉井は語っている。ただし、後に廣瀬は「俺をクビにしてくれ」という発言の直後に「そりゃねえだろ!」の突っ込みを廣瀬が入れるなど雰囲気は決して暗いばかりではなかったと語っている。
吉井の発言の後、事務所は沈黙が続いたが、そこへコロムビア時代のプロモーション担当者である中原繁の訃報の電話が鳴った。中原はかつて「JAM」を懸命に売り込みヒットに導いた。それまでのヒット路線を逸脱する「JAM」をコロムビアは容易に認めなかったが、そのコロムビア社内にあって中原は奮闘し、『ミュージックステーション』にバンドを引っ張り「JAM」を歌わせた。中原の急死を伝える電話により解散の危機は回避され、「少し休もう」と、THE YELLOW MONKEYは活動休止期間に入ることになった。
2000年7月にリリースされた22ndシングル『パール』、同年7月にリリースされた8thアルバム『8』は吉井のセルフプロデュース作品となった。『8』のアルバムツアーは行われず、国内ロックフェスに参加。しかし、そこでの吉井はノーメイクでジャージ姿という格好で出演。「はたから見ても異常、イエローモンキーを引き受けていない」状態であった。
同年12月30日、『CDTV年越しプレミアライブ』に緊急生出演。吉井が「ツアーが終わったら、俺たちプー太郎になっちゃうけど…」とコメントした後、23rdシングル『BRILLIANT WORLD』を披露し番組のトリを飾る。これが活動休止前の実質THE YELLOW MONKEYとしての最後のTV出演となった。
2001年1月8日に初の東京ドーム公演となる「メカラ ウロコ・8」を行う(詳細は後述)。吉井は「最後の東京ドームのライブは死んでた。(中略)なんの気持ちの昂りもなかった」「とにかくこれをやったら終われる。やっと休める」といった気持ちを持っていたという。初の大舞台にも関わらずメンバーはステージ裏で円陣を組んだり会話をしたりすることもなく淡々としており、「振り返ると、それだけモンスターバンドだったんだなあと。(中略)もう本能でやれる」と胸懐した。
「メカラ ウロコ・8」終了後にバンドを活動休止させ、メンバーはそれぞれソロ活動期間となる。ファンは活動再開を待ち望んだが、2004年7月7日に解散を正式発表した。吉井は「解散を伝えたその日に会って、近況を聞いてみたら、皆それぞれやりたいことがあって、バンドに戻れる状態じゃないと思った。各々好きな事をやりながら、年に一回アルバムを作ってライブをするという意見もあったけど、僕にとってこのバンドっていうのは、それじゃ駄目だった」「疲れもあるけど、メンバーがどうこうなんて言えない。バンドを解散させるのは辛いし、メンバーは最高だから、別れるのは寂しいし、心細いんだけど、とにかく解散は僕の我儘で、僕の責任」と語った。逆に、他のメンバーからは「吉井を追い込ませて、感情を吐き出させてやれなかった」「もっと力になってやりたかった」など、互いを擁護する発言が目立った。
同年12月26日、東京ドームで開催された「THE EXHIBTION AND VIDEO FESTIVAL OF THE YELLOW MONKEY メカラ ウロコ・15」の最終日にメンバーが再集結し、9thシングル『JAM』を演奏した。会場中が合唱の中、吉井は「ずっと歌ってて下さい」と言い残し、メンバーは去った。実は去り際にマイクオフの状態で吉井が「ありがとう」と言っているが、会場にはほとんど聞こえていなかったため、物議を醸した。
後に吉井は「マイク通してはね、ダメだったの。(中略)“ありがとう”より“ごめんね”って言いたかったかな」「オフマイクで“ありがとう”って言って、終わらしたくない気持ちがまだ残ってるわけですよ、きっと。言っちゃったらほんとに最後というか…。だからもしかしたら僕の中でイエローモンキーは成仏してないのかもしれない」という心境だったことを明かし、また「JAM」を演奏した後に「THE YELLOW MONKEYは終わりません」というMCを吉井自身も期待していたが、「バンドは完全に終わっているんだということを、演奏しながら感じちゃった」という。
バンド解散後、各メンバーはソロミュージシャンとしての活動を継続。特にフロントマンの吉井は大規模なツアーを行うなど精力的に活動する。THE YELLOW MONKEYとしても、解散後にもかかわらず公式ウェブサイトが開設された。吉井はソロ活動で2007年に「"JAM" 以来」の「空気感が出せた」シングル『バッカ』をリリースし、このミュージック・ビデオの中では「JAM」の映像が使用されている。解散中も様々なミュージシャンがTHE YELLOW MONKEYの各曲をカバーし、披露した。バンドへのトリビュート・アルバム『THIS IS FOR YOU〜THE YELLOW MONKEY TRIBUTE ALBUM』はファンハウスを引き継いだレコード会社アリオラジャパンから2009年にリリースされた。2013年に吉井が「来年から、普通じゃない野良犬に戻ります」を宣言しファン投票ベスト・アルバム『イエモン-FAN'S BEST SELECTION-』(コロムビア)の発売・アルバムリマスター盤の発売・過去のライブDVDのリリースなどが行われた。
解散からの年月は色々なわだかまりを消し去り、吉井はファンが待っていることも分かっていた。吉井はロンドンのハイド・パークで2013年7月6日と7月13日に開催されたローリング・ストーンズの歴史的ライブを観た。バンドが宝であると改めて思った。吉井は、もう一回バンドをやってほしいと、かつてのメンバーにロンドンからメールを送信した。その頃の吉井は「憧れのレーベル」であったEMIからソロの諸作品をリリースしていたが、2014年11月18日に古巣コロムビアへの移籍を発表した。それとともにレアコレクションの発売が敢行された。
2016年1月4日、奇しくも申年となったこの年にTHE YELLOW MONKEYの新公式サイトに“Repus”と称した謎のカウントダウンティザー広告が表示され、1月8日がカウントダウンの期日となっていた。また、同じページには英字の暗号文章が記載されており、インターネット上では様々な憶測を呼んだ。そしてカウントダウン当日の1月8日午前0時、公式サイトにて再集結とともに全国ツアー、新ファンクラブ発足を発表。同年元旦より東京・JR渋谷駅前の東急百貨店壁面に「金色のさなぎ」の写真入りポスターが、1枚毎めくられる形で貼られており、8日の午前0時に再集結を知らせる告知が現れた。
各種スポーツ新聞では号外が配られたほか、「イエモン、サル年に復活」が多くの誌面を飾った。
ツアー初日の5月11日は、解散前最後の楽曲にして唯一シングル曲においてコンサート未披露状態にあった「プライマル。」の初演を1曲目としてスタートし(この曲は多数のテレビ、ラジオ、インターネットライブ放送局が生中継した)、さらに「楽園」「BURN」などのファンハウス時代のヒット作を中心に、2月にWeb公開した15年ぶりの最新曲「ALRIGHT」も含めた集大成公演であった。ツアー後半ではコアファン向けに『SICKS』の曲目を中心に一部セットリストを入れ替えている。
吉井は「15年の間様々な事がありました。具体的にはおそ松くんがおそ松さんに変わりました」などと笑いを取る一方で「今日だけは素直に言わせて下さい。ただいま!」と復活の喜びをMCに込め、さらに「今後も継続して活動したいと思いますよ」「このTHE YELLOW MONKEYは生涯解散することはありません」とバンド活動の永続を宣言し、この発言の真意を8月に出演したNHK『SONGS』においても語っている。
2016年はアリーナツアー以外にも「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016」「SUMMER SONIC 2016」といったフェスへの出演を行い、秋からは全国ホールツアーも行った。12月28日には日本武道館にてTHE YELLOW MONKEYとしては約16年ぶりとなる「THE YELLOW MONKEY SUPER メカラ ウロコ・27」を開催した。
また、7月の「THE MUSIC DAY」への出演を皮切りに、「ミュージックステーション」「SONGS」など多くの音楽番組に出演した。翌年以降もバンドは積極的にテレビ出演を行っていく。12月31日にはバンドにとって悲願であった「NHK紅白歌合戦」に「JAM」で初出場した。
紅白出場後の年明けに出演した「COUNTDOWN JAPAN 16/17」で吉井の声が出なくなるというアクシデントが発生した。
2016年には約15年9ヶ月ぶりとなるシングル「砂の塔」をリリース。表題曲はドラマ「砂の塔〜知りすぎた隣人」の主題歌として制作された。
2017年は秋よりファンクラブツアーを行い、12月には東京ドーム2DAYS公演「THE YELLOW MONKEY SUPER BIG EGG 2017」を開催した。
2018年には各々のソロ活動と並行しながら、新アルバムの制作を開始。ロサンゼルスにてレコーディングを行った。
2019年、19年ぶりのオリジナル・アルバム『9999』を発売。
2019年末〜2020年、バンド史上初となる3大ドームツアーを敢行。前年までメカラ ウロコが行われていた、12月28日の名古屋ドームを皮切りに、2月には大阪・京セラドームにて開催。4月にはツアーFINALが東京ドーム2daysで予定されていた。しかし、新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延により、1週間前に開催延期が決定。その後も振替公演の目処も立たず、6月には開催中止が決定した。
水面下での調整が行われる中、東京ドーム2daysに代わる新たな公演「THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary Live」の開催が告知される。この公演では、政府のガイドラインに則り、会場のキャパシティの50%以下の動員で東京ドーム・横浜アリーナ・国立代々木競技場 第一体育館・日本武道館の4会場を巡った。ドーム規模での有観客ライブは日本初。朝の新聞広告での「19,000 / 46,902 ここから始めます。」の言葉を合図に、厳戒体制で初日の東京ドーム公演が行われた。本ツアーでは、THE YELLOW MONKEYのライブにおいて欠かせない存在だった歓声・歌唱といった声出し行為が禁止されたが、バンドはそれを逆手に取った企画「Sing Loud」を開催する。自身のスマートフォンやカラオケで収録した歌声・歓声を流すことで、声出しができなくても会場中に観客の声を響かせようという本企画は大成功。配信で観ていた人の中には、実際に歌っているのではないか?と勘違いする人もいたほどだったという。
このように、新型コロナの影響を受けつつもそれに順応して行われた4公演は、新型コロナ陽性者を出すことなく終了宣言を行った。
この公演が終了した2020年12月28日以降、バンドは第2の充電期間に入ることを発表した。
2021年以降ライブこそ行われていないが、ファンクラブコンテンツの更新、スタジオライブ配信、リリシュー盤の発売やそれに伴う4人全員でのYouTube出演などは行っている。
2022年12月28日、翌年12月28日に約3年ぶりの新規公演として日本武道館公演を行うことを発表。
2023年3月に発売したBiSHのラストシングル「Bye-Bye Show」を吉井が楽曲提供し、演奏にはTHE YELLOW MONKEYメンバー全員が参加した。
2023年10月11日、吉井が約2年間にわたる喉、喉頭癌の治療についてを公表。癌自体は根治してはいるものの、万全とはいえないという理由から同年12月28日に開催予定だったバンドの日本武道館公演を中止したうえで、完全復活に向けて歩みを止めないことを発表。さらに昨年より制作を開始し、7月にレコーディングを行った約3年ぶりとなる新曲が11月に公開予定であることが併せて発表され、翌日にはファンクラブ会員向けに、メンバー4人でのメッセージ動画が公開された。
2023年11月17日、20時にファンクラブ会員向け動画にて、2024年4月27日に東京ドーム公演が開催されること、そして新曲「ホテルニュートリノ」がWOWOWドラマ主題歌に決定したことを発表。東京ドーム公演はソロ公演を中止にして以来、2年半ぶりとなる吉井和哉のパフォーマンスとなる。21時には東京ドーム公演及び新曲のニュースが一般向けに公開された。
2023年12月28日、「THE YELLOW MONKEY SUPER BELIEVER. 2023」を開催。ファンクラブ会員限定の無観客生配信を行った。終盤にはアコースティック編成での状態で『Subjective Late Show』『SLEEPLESS IMAGINATION』の2曲を披露し、最後に新曲「ホテルニュートリノ」のMVが公開された。さらに、新曲「ホテルニュートリノ」は、2024年1月1日午前0時より配信開始、そしてMVが公開されることアナウンスがされた。
2024年3月1日、新曲「SHINE ON」のリリースを予告するティザー動画を公開、4月3日にデジタルリリースすることが発表された。
4月3日、前述の通り新曲として「SHINE ON」、そして「ソナタの暗闇」をデジタルリリースすると、5年ぶり10枚目のアルバムである「sparkle X」が5月29日に発売されることが判明した。同アルバムには「SHINE ON」と「ソナタの暗闇」の他にも、年始にリリースした「ホテルニュートリノ」を含む11曲が収録されていることがわかった。
4月19日、過去のライブ映像を始めとする、さまざまなTHE YELLOW MONKEYの映像が見放題のサブスクリプションサービス「TYM STORAGE」がスタートした。
4月27日、約3年半ぶりの有観客ライブとなる『SHINE ON』を東京ドームにて開催。TYM STORAGEで無料配信も行われた一曲目には、コロナ禍で声援が禁止される中で行った東京ドーム公演で使用したファンが個々に録音した歓声を集めて会場で響かせる「Sing Loud!」企画での音声も流したうえで『バラ色の日々』を披露。最後には「ようやくまたこれが言えるような気がしています」と踏まえたうえで、2001年1月8日に行った実質解散ライブとなった東京ドーム公演を彷彿とさせるかのように「我がTHE YELLOW MONKEYは永久に不滅です」と力強く宣言した。
バンドの誕生日でもある12月28日には、「メカラ ウロコ」という「昔のTHE YELLOW MONKEYに戻る」という趣旨の元、初期の楽曲をメインにしたライブを1996年、1998年、1999年、2001年、2016年、2017年2018年にわたり7度行った。吉井曰く「忘年会も兼ねて」のイベントである。日本武道館が2020年東京五輪のための改修工事により一時的に使用不可となったため、2018年に一度終わらせている。
基本は2部構成で行われ、第1部は通常のバンド演奏、第2部からは「メカラ ウロコ楽団」と呼ばれるオーケストラ団体と共に曲を演奏する(弦編曲と指揮はチェリストの四家卯大が担当)のが通例となっていた。2016年以降は「メカラ ウロコ楽団」としての参加はなく、2016年の「27」は徳澤青弦オーケストラ、2018年の「29」は佐藤万衣子ストリングスがそれぞれ演奏している(2017年はストリングス編成自体がなし)また、ライブの途中ではメンバーが「東京ブギウギ」の替え歌「おそそブギウギ」を歌うのが恒例となっていた。
これらとは別に2004年の解散イベントも「メカラ ウロコ・15」と銘打たれている。また、2009年12月22日に結成20周年記念としてフジテレビで放送された特番も『メカラ ウロコ・20』と釘打たれた。
バンド解散後も吉井は2006年〜2015年、毎年12月28日に日本武道館でライブを行うのが恒例となっていた。ただし、通常のライブツアーの一環として開催される場合が多く「メカラ ウロコ」のタイトルは使われていない。吉井は「バンドが復活するまでは、俺がこの日を守っていきたいという想いから(12月28日に)ソロライブをしていたんです。毎回、メンバーが元気なうちに、またここでやりたいと思っていました」と語っている。
1997年7月26日、天神山スキー場(山梨県)で開催された第1回目の「フジロックフェスティバル」1日目に参加。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(以下RATM)とヘッドライナーのレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下RHCP)に挟まれ、トリ前での登場というタイムテーブルであった。
この音楽フェスティバルに大勢のファンが駆け付け、朝一番から何百人とステージ最前列に並んだ(このフェスでは、後々まで語り継がれるいわゆる「イエモン地蔵」と呼ばれる現象も発生した)。最前列のため雨中に傘やレインコートも無く、上にノースリーブ・下にスカート・足元にハイヒールかサンダルという格好の女性らの姿がそこにあり、台風直撃も影響して気温の低下もみられた。主催のSMASH代表・日高正博はその光景を見て心配になり、(18時開演予定の)出番まで最前列を一度離れるよう女の子たちに声をかけたところ「こんなに近くで会えるチャンスはない」「離れたら同じ場所にまた戻って来られるようにしてもらえるのか」など、日高に食い下がる事態も起こった。
フー・ファイターズ(以下FF)の演目が始まる頃、大雨の会場はモッシュやクラウド・サーフィングで大盛り上がりになり、既に会場の前方は泥だらけであった。最前列に残っていたファンの女性らは「モッシュに押し潰され、泣きながら、ステージも観ないで、唯々最前列にしがみついてTHE YELLOW MONKEYの出番を待っていた」という。日高はそれらに困ってもいたが、運営責任者としてはこれ以上は危険であり気が気ではなく、ファンのために出番を早めてFFの次(RATMの前)へ振り替えることを提案し、THE YELLOW MONKEYサイドが承諾。しかし、RATMサイドは「自分たちは変更に異論はないが、フェスティバルの流れでいえばフー・ファイターズの後にTHE YELLOW MONKEYが演奏するより、RATMとRHCPの間に(メロウでスローな)THE YELLOW MONKEYが演奏する従来通りの順番のほうが観客全体を落ち着かせ、危険な状態を回避できるのではないか」とアドバイスを送る。フェス全体としてはRATM・RHCPが続くほうがより危険であるというこのアドバイスにより、順番変更は実現しなかったが、日高はトム・モレロと打ち合わせて、ステージ袖に立つ日高とステージ上のトムで時々アイコンタクトをして、日高とトムの判断次第で演奏ストップにしようと決めた。RATMの演奏から15分ほど経過すると、観客はモッシュのマナーが出来ていて、モッシュが潰れたらお互い助け合う様子を見た日高はステージ袖から立ち去った。RATMの演奏は続き、観客は泥まみれになって熱狂した。およそ1時間遅れのスケジュールで行われたRATMの演奏後、30分の休憩を挟み、THE YELLOW MONKEYが登場した。
当日のセットリストは以下の通り。
これらのヒット曲を控えたセットリスト(10曲中7曲がアルバム収録曲)と、台風に伴う豪雨に見舞われた天候もあり観客の反応は芳しくなく、楽屋では他のメンバーが盛り上がる中、吉井は1人憔悴した面持ちで静かに座っていた。後に吉井は自らの自伝で「『洋楽ファンに叩きつけてやる!』って。叩きつけたはいいけども……なんだかわけのわかんないことになっちゃって」「変な話、あのフジロックの挫折感で、解散しちゃったようなもんだから。解散の理由の何%かは」などと回想し、本人にとって厳しい経験となった。セットリストに関しても、吉井は「『過去の楽曲で一番ロック的なものを用意してあげなきゃ』って思って、裏目に出たんですね」と反省の弁を述べた。
また、THE YELLOW MONKEY出演を日高に推した渋谷陽一は、この当時に『ROCKIN'ON JAPAN』の邦楽アーティストの人気投票でTHE YELLOW MONKEYが1位に選出されたことを踏まえ「洋楽のユーザーにとって一番人気のあるバンドであり、それがウケなかったのはプレゼンテーションを間違えたということ」と評価。失敗の要因は「吉井くんの気負いと自意識だったのではないか」と分析している。
一方、ギターの菊地は「そこまで失敗感はない」とし、「RHCPやFFがノリノリで聴いてくれたこともあり、非常に嬉しかった」と対照的な意見を述べている。
「Love Communication」、「JAM」のミュージック・ビデオは吉井自らの監督で撮影された。次のシングル「SPARK」以降は「パール」と「プライマル。」を除く13曲のシングルで高橋栄樹が監督を務めた。高橋は、時間的な余裕と自由な表現を許容され、ミュージック・ビデオだけでなく映像作品『BLUE FILM』、ライブ・ビデオ『RED TAPE』などを製作し、吉井から「イエローモンキーの第5のメンバー」と言わしめた。
高橋は「LOVE LOVE SHOW」「BURN」を監督した1997年に「SPACE SHOWER Music Video Awards」ベストディレクター賞を受賞している。
※公式サイトの「DISCOGRAPHY」に準拠。
日本レコード大賞
日本有線大賞
SPACE SHOWER MUSIC AWARDS
MTV Video Music Awards Japan
CDショップ大賞
※出演順は「出演順/出場者数」で表す
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