バリー・ルイス・ラーキン(Barry Louis Larkin, 1964年4月28日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投右打。ベースボール・ユナイテッドのムンバイ・コブラスのGMを務める。プロ入りから19年間すべてのシーズンをシンシナティ・レッズで過ごしたフランチャイズ・プレイヤーである。
9歳下の実弟スティーブン・ラーキンも元メジャーリーガー。息子のシェーン・ラーキンはバスケットボール選手。
子供の頃は地元シンシナティ・レッズの遊撃手であるデーブ・コンセプシオンが憧れの選手だった。1982年のMLBドラフト2巡目(全体51位)でレッズから指名を受けるが契約せず、ミシガン大学へ進学。1984年には第13回日米大学野球選手権に出場、さらにロサンゼルスオリンピックにアメリカ合衆国代表として出場し、銀メダルを獲得した。
1985年のMLBドラフト1巡目(全体4位)で再びレッズから指名され、プロ入り。
1986年はAAA級デンバー・ゼファーズで打率.329、10本塁打、10三塁打を記録し、8月13日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー。憧れだったコンセプシオンを押しのけてショートのレギュラーに定着し、8月17日のサンディエゴ・パドレス戦でラマー・ホイトからメジャー初本塁打を放つなど打率.283、3本塁打の成績。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では1ポイントを獲得した。
1988年11月には日米野球でグレッグ・マダックス、ラファエル・パルメイロらと共に来日。打率.476を記録しMVPに選ばれている。
1990年にはチームの中心選手としてワールドシリーズ制覇に貢献。
1995年には打率.319、15本塁打、66打点の成績だったが、本塁打・打点の二冠王ダンテ・ビシェットを抑えてナショナルリーグのMVPを受賞。成績以上にチームリーダーとしての役割が評価されての受賞だった。
1996年には33本塁打、36盗塁を記録し、遊撃手としては史上初の「30・30」を達成した。さらに彼はヒスパニックのチームメイトと関係を構築するためにスペイン語を学んだ。
1997年、チームではコンセプシオン以来となるキャプテンに就任。
1998年、シーズン最終戦の9月27日に弟のスティーブン・ラーキンが1試合だけ一塁手で出場し、兄弟同時出場が実現した。この試合で、当時レッズに所属していたブレット・ブーン、アーロン・ブーン兄弟もそれぞれ二塁手、三塁手で出場し、史上初の兄弟2組同時出場が実現した。
2000年8月21日にピート・ローズ、コンセプシオン、ジョニー・ベンチに次いで球団史上4人目の通算2000本安打を達成。
2004年10月2日に引退式が予定されていたが、まだ引退の意思が無かったため辞退した。
2005年2月に正式に引退を表明。その後、ワシントン・ナショナルズのGM特別補佐に就任した。
2012年1月9日に全米野球記者協会の投票により86%の得票率を得てアメリカ野球殿堂表彰が決定した。
また、同年8月に古巣レッズはラーキンの現役時代につけていた背番号11を永久欠番に指定することを発表した。9月20日にブラジル野球連盟はラーキンが第3回WBC予選のブラジル代表の監督に就任したことを発表した。
2014年に南米野球を普及強化するため行われた『エリートキャンプ』にコーチとして参加した。
2016年9月に行われた第4回WBC予選に、前大会に引き続きブラジル代表監督を務めた。
2021年からレッズの専属解説者を務める。
2022年7月26日にマリアノ・リベラと共にステークホルダーとしてインド、パキスタン、中東にてユナイテッド・インターナショナル・ベースボール・リーグ の発足を発表した。
2023年5月22日にベースボール・ユナイテッドのムンバイ・コブラスのGMに就任した。
スピードとパワー、ずば抜けた運動能力を持ち合わせ、「1990年代のナショナルリーグを代表するベスト・ショートストップ」と評される。19シーズンに及ぶ現役生活において通算2340安打、198本塁打、379盗塁と言う数字を積み重ね、シルバースラッガー賞に9度、ゴールドグラブ賞に3度輝いた。
松井稼頭央とは面識があり、2013年のワールド・ベースボール・クラシックでは練習の際に「カズ!」と自ら呼びかけ抱擁と握手を行った。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou