ロベルト・アロマー・ベラスケス(Roberto Alomar Velázquez, 1968年2月5日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投両打。
父はサンディー・アロマー・シニア、兄はサンディー・アロマー・ジュニア。
1985年に兄が所属するサンディエゴ・パドレスに入団。
1988年4月22日にメジャーデビューし、レギュラーに定着。当時父のシニアもコーチとしてチームに所属しており、9月に兄もメジャー昇格を果たしたことで父子3人揃い踏みとなった。この年、145試合に出場し、24盗塁を記録し、新人王の投票では5位に入った。
1990年にはオールスターゲームに初めて選出された。
1990年12月5日にジョー・カーターとともにトロント・ブルージェイズへ移籍(交換要員はフレッド・マグリフ、トニー・フェルナンデス)。
1991年から6年連続でゴールドグラブ賞を受賞。
1992年には打率.310を記録。初めて3割の大台を上回った。打率、105得点、49盗塁はチーム1位となり、シルバースラッガー賞を初受賞。チームはプレーオフに進出し、アトランタ・ブレーブスを破り、球団初のワールドシリーズ優勝を果たした。
1993年もワールドシリーズ優勝を果たし、連覇に貢献。ブルージェイズ在籍中は本拠地のスカイドーム併設のホテルに居住していた。
1995年オフにフリーエージェント(FA)となり、ボルチモア・オリオールズへ移籍し、カル・リプケン・ジュニアと二遊間を形成した。1996年は打率.328、1997年は打率.333と2年連続で自己最高を更新した。1998年は打率.282と3割を下回ったが、オールスターゲームでMVPを受賞し、前年の兄に続いての受賞となった。
しかし、1996年9月27日のブルージェイズ戦で判定に憤り、球審のジョン・ハーシュベックの顔にツバを吐いた。批判の的となり、審判団はプレーオフのボイコットを計画された。そのため翌1997年は開幕から5試合の出場停止となった。アロマーとハーシュベックは後に和解している。
1999年から2001年まで在籍したクリーブランド・インディアンスでは遊撃手のオマー・ビスケルと鉄壁の二遊間を組み、2人とも3年連続でゴールドグラブ賞を受賞した。1999年と2000年の2年連続でシルバースラッガー賞を受賞。2001年は受賞を逃したものの、打率は自己最高の.336を記録した。
その後2001年12月11日にニューヨーク・メッツへトレードで移籍。移籍1年目の2002年7月26日にスイッチヒッターとして史上7人目となる通算2500本安打を達成するも、打率は前年より7分近く下げデビュー年以来の低水準に終わった。2003年も前年に続き低迷。7月1日にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍した。7月は打率.301を記録するも、8月は打率.230、9月は打率.221で、チーム地区優勝を逃す一因となった。
2004年1月6日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスは買い手市場を生かして1年総額100万ドルの低年俸で契約。
日本球界移籍の噂もあったが、2005年1月17日にタンパベイ・デビルレイズと契約するも、キャンプ中の3月19日に引退。
通算安打は2724本、ゴールドグラブ賞は二塁手として歴代最多の10度受賞と、攻守に素晴らしい実績を残し、史上最高の二塁手とも言われる。2008年、自身の背番号『12』はブルージェイズのエクセレントナンバー(準永久欠番)として顕彰された。
資格取得1年目の2010年でのアメリカ野球殿堂入りこそならなかった(8票不足、得票率は73.7%)が、2年目の2011年に史上3番目(当時)の得票数を獲得して(583票、得票率は90.0%)、殿堂入りを果たした。殿堂のプレートの帽子はブルージェイズを選び、トロント・ブルージェイズ所属選手として初のアメリカ野球殿堂入りだった。 また、殿堂入りを記念し、同年7月には古巣ブルージェイズはアロマーのエクセレントナンバーであった『12』を正式に永久欠番に指定した。
2021年4月30日に過去の性的に違法な調査が入ったため、MLBの不適切リストに入り、ロジャーズ・センターにあるアロマーのモニュメントも撤去された。また、レベル・オブ・エクセレンスからも外れ、2023年に自身の永久欠番『12』も失効。「12」はシーズン途中より加入したジョーダン・ヒックスが着用することとなった。
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